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1月 松の内 弟の事情

 初詣から帰ってきてから、カケルが部屋に引きこもって出てこなくなった……らしい。

 母さんが言うには午前中早い時間に帰ってきて、挨拶もせずそのまま二階の自室に引きこもったんだそうだ。

 お昼ごはんのときに呼びに行っても応答なし。日が沈んで晩ごはんの時間が近くなっても、やっぱり出てこないのだとか。


「だからワタル、ちょっと呼んできてくれない?」


 母さんはにこにこと笑いながら、リビングにあるコタツの上にあるカゴから、みかんを取りだし食べ始めた。なんかずるい。

 荷物をソファの傍にいったん置いて、ボクもコタツの中に足を入れる。雪に降られて冷え切っていた足先が、じわじわとあったまっていく。

 窓の外では日が暮れ始め、ちらほらと空に星が姿を現しだす。雪はまだ降っている。きっとこれから、もっと寒くなるに違いない。


「やだよ、なんでボクが」

「お母さんがいっても出てきてくれなかったから」

「おなかが空けば出てくるでしょ」

「そうかなあ」


 皮をむいたみかんを半分に割った母さんが、その半分をボクに渡してきた。

 遠慮なくそれを受け取り、実の周りについている白い筋を取り始める。

 白いのは、変な味がするから嫌いだ。


「でも、お願いね。心配だから」


 断ろうかと思ったが、これ以上言い募ると晩ごはんのおかずを減らされそうだ。

 しぶしぶうなずけば、母さんは満足そうに笑って、みかんのもう半分を渡してきた。それには、白い筋はついてなかった。

 みかんをひとつぶん食べきってから、荷物を持って自室に戻る。隣はカケルの部屋だ。……そっちから物音は聞こえてこない。

 楽な格好に着替えてから、カケルの部屋にむかった。

 木製の、金色のノブがついた扉。Kの形に切り抜かれたプレートが、吊り下げられている。

 ちなみに、ボクの部屋にはWのプレートがかけられている。単純。

 Kの扉のむこうに耳をすます。……やっぱりなにも聞こえない。

 これ、本当に部屋ン中にカケルいるの?


「カケルー?」ノックをしてみる。「いんのー?」


 ――返事はない。

 もう一度扉を強めにノックし呼べば、かすかに床がきしむ音が耳に入った。

 中にいることはいるのか。

 つまり今、ボクはカケルに無視されていると。

 ……ムッカつくー!


「カケル、ちょっとカケルってば! いるなら返事しなよ、態度悪いんだけど」


 ……意地でも返事はしないらしい。部屋の中から無音が返ってくる。

 いっそのことこのまま部屋に入ってやろうか。

 ノックというより殴るに近かった動作を止めて、ノブに手をかける。ひねって扉を開けようと力をこめた。

 けど、なにかに引っかかっているのか、扉が開ききることはなかった。


「ちょっとなに、本格的に引きこもり始める気?」


 少しだけ開いた扉から覗いたカケルの部屋は、真っ暗だった。電気をつけていないみたいだ。

 もしかして、寝てる……?


「カケル? 寝てんの?」


 もう一度ぐっと扉を押し、開けようと努力する。

 と、室内からなにかが扉を押し返してきた。

 驚いてしまったせいか手から力が抜け、バタンっ、と音を立てて扉が閉まる。


「……は?」


 なにが起こったか分からず、首を傾げてしまう。


「え、なに、起きてんの?」


 開こうとノブを回すが、扉は開かなくなっていた。

 なんでさ。

 少し考えてみる。

 カケルの部屋から聞こえてきたのは、床がきしむ音。

 さっきは開いたのに、今はあかなくなった扉。

 あけたとき、扉になにかが引っかかった感触。

 ――もしかして。


「あんた、そこに座ってんの……?」


 空気が動く音を聞いた気がした。

 目を閉じて、想像してみる。

 扉の前に座り込んで、膝を抱えているカケルの姿が、見えるような気がした。

 真っ暗な部屋でうつむいて、小さく小さくなっている兄の様子が思い描けた。と、突然背後の扉が開く。背中に当たって完全には開ききらなかったそこから、廊下の明かりと弟の呼びかけが入り込んでくる。

 弟が完全に扉を開いて入ってこようとするから、ぐっと背中に力をこめて押し返す。

 それに驚いた弟は力が抜け、あっさり扉はしまった。

 ――目を開く。

 目の前にあるKのプレートを下げた扉が、防御壁みたいに見えた。すごく冷たく思えてしまう。


「なんかあった?」


 ――やっぱり、返事はない。

 つけっぱなしだった腕時計に目を落とす。

 十八時半。晩ごはんまであと三十分くらいだ。今頃下で、母さんが食事の用意をしているところだろう。

 廊下の冷えた空気が足から昇ってくるようだ。寒い。


「なんかあったなら、言ってくんなきゃわっかんないんだけど」

「別に、…………いよ」

「ん?」やっと見せた反応を逃がすものかと、扉に耳をつける。「なに?」

「別に、分からなくていいよ」


 頭からさっと熱が下りていく感覚がした。かと思ったらおなかからぐわっとマグマのようなドロドロが上ってくる。


「あったまにきた、なにさその言い方っ!」


 思いっきり扉を蹴っ飛ばす!

 ものすごい音が廊下に響いた。蹴っ飛ばされた反動でプレートがガチャガチャと音を立てる。足先がじぃんと痛み出して、泣いてやろうかとか思った。


「なにさその言い方、なにさ! 様子がおかしい家族心配したらおかしいの!? 兄さんがそうやってだんまり決め込むから母さんもボクも心配してんのっ」


 Kのプレートがゆらゆら揺れながら、照明を反射してボクの目をつついてくる。

「拒絶したいならそうしてればいい、話したいなら話せばいい。でも本当に理解されなくていいなら、そういう中途半端な言葉を口にすんなよ、ムカつくだろ!」


 もう一度扉を蹴っ飛ばした。プレートが一層うるさくわめく。

 ムカつくムカつくムカつくっ。

 カケルの部屋の前に座り込んで、扉に背中を預ける。頭上でがちゃがちゃ鳴る金属音が耳障りだった。

 むこうがそのつもりなら、こっちだって根競べに付き合ってやる。

 扉一枚隔てた背後で、カケルも同じようにしゃがみこんでいるんだろう。すごく近いところで、カケルが身じろいでいる気配がした。

 そこからは、ボクもカケルも口を開かなかった。

 なにがあったの、とかこっちが問いかけることもなかったし、あっちに行ってくれ、とかカケルが拒むこともなかった。

 寒々しい沈黙が、カケルの部屋から流れだしてきているみたいだ。体の芯から冷えて、凍えてしまいそうになる。

 背後の扉に頭を預け、見上げる。Kのプレートは、もう揺れていなかった。

 と、突然。背中の支えが消え去った。


「うぁ!?」


 そのまま後ろにごてっと倒れてしまう。頭をしたたかに打ちつけた。目の前に星がちらりと光る。


「……ったあぁ」


 冷たいフローリングに体を預けたまま、後頭部を抑えてごろごろもだえる。涙がにじんできそうだ。

 視界の端にカケルの足が見えた。深いインディゴブルーのジーンズが、微動だにせずにそこにいる。


「なにすんのさ!」起き上がって、その場に座りなおす。「開けるなら開けるって言ってよバカ」


 カケルから返答はなかった。

 まだ視界の隅で動かない足をたどってカケルを見上げて……、ボクの頭は音を立てて固まった。

 手を覆う真っ黒い皮の手袋。

 寒くないようにと重ね着された柔らかな色の上着。

 首に巻かれたままの白いマフラーには、赤黒い変なまだら模様が増えていた。

 朝、出かけていったときの格好そのままなんだろう。ボクはすぐに、分かった。

 カケルが、灰色に近い目をボクにむけた。


「あっち行ってくれるかな」


 温度を感じさせない声音で言う。


「煩わしいんだ」


 鏡のように、彼の目が輝く。


「今、すごく、寒いから」


 動けず、呆然と見上げるばかりのボクをおいて、カケルはまた部屋に戻っていく。

 扉が閉じる音がした。

 ボクはただ、ただただ頭が足りない子どものように、閉じた扉を見つめ続けた。

 ――拒まれた。

 頭が痛かったことなんて、一瞬にして吹き飛んでいった。

 マフラーについていた模様、なに……?

 どこかで汚してきた? なんの汚れ? インクみたいにはっきりした色だった。でもきたないし、見ていて気分がいい色じゃなかった。

 もしかして。

 兄さんどこかで、怪我をしてきた……の?

 なにも言わずにきらりと輝いたKの文字が、なんだか憎らしく見えた。

 うまく言葉にできない気持ちが、ぐつぐつと腹の奥底から沸いて出てくる。その感情に身を任せて、勢いよく立ち上がりもう一度扉を蹴っ飛ばす!

 プレートががたがた揺れるだけで、中からなにかが返ってくることはなかった。

 今度は足先、痛くなかった。というかもう、なんかよく分からないけどムカついて感覚なんか飛んでいってしまった。


「兄さんがその気ならもうそれでいいよ、こっちはこっちで勝手にやるから! バカケル、バーカ!」


 どすどすとわざと足音を立てて廊下を歩き、階段を降りる。その途中で腕時計を見れば、もうすぐ十九

時。晩ごはんの時間だ。

 リビングに入るとテーブルの上に食事を用意している母さんを見つけた。ボクのほうに目をむけたと思ったら、ほんのり寂しそうに笑って見せる。……たぶん、ボクがカケルをつれてこなかったからだ。


「だめだった?」

「ダメだった!」


 食事を並べるのを手伝いながら答えれば「そっか」と短く返された。カケルのぶんの食事は、もうテーブルに並んでいた。

 自分の茶碗に白米をよそいながら、母さんに声をかける。気の抜けた返事が聞こえた。


「ここら辺に、孤児院を経営している教会ってあったっけ?」


 母さんが驚いたようにこっちを見た。ボクは意識してにぃーっと笑い、茶碗を持って席につく。

 カケルがその気なら、ボクだって徹底的にやってやる。絶対に部屋から引きずり出してみせる。

 ふと窓の外を見れば、真っ暗な夜空の中から白い雪がひらひらりと舞い降りていた。

 音を吸い込むかのように振り続ける雪。なんだかそれが、すごく怖いもののように見えて目をそらす。

 明日は雪、やんでいるといいんだけど。

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