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十一月

 水族館に行ったあの日以降、僕と織田さんはメールのやり取りが多くなった。

 大抵が夏休みの課題についての相談や学校からのお知らせが多かったけれど、その中に時折混じる何気

ない日常の話が、楽しくて仕方なかった。

 夏休みが明けて、学校が始まる。登校中に会ったクラスメイトと談笑しながら坂を上り教室に行き、ホームルームを済まして授業を受ける。いつもどおりの毎日が、また始まったのだ。

 休み前と変わったことがあるとすれば、一点だけ。

 約束もしていないのに、織田さんと顔を合わせることが格段に増えた。

 昼休みはもちろんだが、登校中の時間や休日も含めて、とても多くなっていた。

 九月にあったテストを倒し体育祭を赤組勝利で終え、十月にあった文化祭は織田さんら準備委員会のおかげで特に大きな事件が起こることなく平和に終わった。

 月が変わる頃にはすっかり気温も下がり、朝に冷たい風が吹くようになっていた。時間が過ぎるのは、本当にあっという間。

 放課後の通学路。もう人が少ない時間帯。紅葉した葉が落ちた坂道を、一人黙々と歩んでいく。

 十一月の中頃。吹き付ける風が氷に近づいていく時期。

 坂の脇に並んでいる桜の木は、もうそろそろすべての葉を落としきる時期だろうか。

 視線を上げて、群青の空に枝葉を張っている木々に目をむける。

 枝にぽつぽつと残っている黄色い葉は、いつまで残っているのだろう。地面に落ちているつややかで赤々と燃える葉の色を見て、当分の間、葉は落ちそうにないと確信した。

 空の際にはまだ夕暮れの色が残っている。が、しばらくすればきっと頭上で星が瞬き始めるだろう。

 ――少し、長く残りすぎたな。

 かじかむ指先に息を吹きかけ、暖を取る。あまり、暖かくなった気はしなかった。

 先ほどまで僕は、図書室の一角で課題と格闘していた。現代社会の課題だ。――それがこんな時間になるとは。本当はもう少し早く帰りたかったのに、思いのほか手間取ってしまった。

 これだから現代社会は嫌いなんだ。


「……早く帰ろ」


 寒さのせいか疲れのせいか、せかせかと足を動かし坂を下る。

 と、背後から足音が聞こえた。誰だろうと思うと同時に、聞き覚えのあるリズムにほんの少しの期待を乗せて振り返る。

 日本人にしては明るい髪色と、真っ直ぐな純真さを宿した力強い瞳。周囲をぱぁっと照らすようなまぶしい笑顔を浮かべると、彼女はそのまま、「やっほー!」と声をあげ、僕の隣に並んだ。


「やっほー」口に出したらなんだか恥ずかしくなる。「織田さん、今帰り?」

「そそ、今帰り。先生のお手伝いしてたらこんな時間だよー」

「それは、お疲れさま」


 織田さんは「どーも」とまた笑みを見せると、僕の手を取り早く帰ろうとせかしてくる。

 手をしっかりと繋ぎなおしうなずけば、彼女は満足そうに頬を緩めた。

 人が少ない時間でよかった。ひっそり思う。ああいう織田さんの表情を見るのは、僕だけでいいのだ。

 橋を渡ってコンビニの前をとおり、信号を渡って住宅街へ。駅までもうすぐというところで、彼女が突然声を上げる。


「なに、忘れ物?」


 足を止めて尋ねれば、「違うの」と首を振られ、歩くよう促された。なんだろうかと思いつつ言われたとおり歩を進めれば「大したことじゃないんだけど」と前置きをされる。


「もうすぐ、後期の中間テストがですね、ありましてですね……?」

「……ああ、そういう」

「そーゆーやつですよ」


 織田さんが小さくため息をついた。吐いた息が白くなり、空に昇る。


「唐突に思い出してしまい、一気に気分が暗くなったわけなのです」


 夏休み前の勝負で聞いた点数、あまり良い数字ではなかったはずだ。だから気にしているのだろうか。

 駅が見えてきた。ここに来るまでに日が落ちきっていたらしく周囲は暗くなっていて、店やホームの明かりがまぶしく感じられた。

 階段を上って改札口に。そこを通って左手に曲がり、ホームに続く階段を下りる。


「また勝負する?」

「えー。勝てる気がしない」

「初めから諦めるのは、いかがなものかと思うけど」

「前期のときとカケルくんの態度が違う」

「時間が経てば、そりゃ変わるよ」


 ガラス張りの待合室前で、僕たちは歩を止めた。織田さんはくすくすと笑って、楽しそうにしている。

 しばらくそうやって笑いながら話していると、電車が来るというアナウンスが流れた。アナウンスによれば、次の電車はこの駅に止まらないらしい。


「あ、そうだ」いたずらを思いついた子どものような彼女の目が、きらりと輝いた。「あたしの家で勉強教えてよ」

「……うん?」

「だぁから、あたしの家おいでって言ってるの。また勉強教えて」


 電車が勢いよく通り過ぎていく。一拍遅れて風が吹き、耳やら首筋やらを刺して行った。背中を氷が伝っていく。


「今度の日……曜日はだめだから、土曜日どう?」

「ええ、と……?」

「稔さん……お母さんみたいな人がね、カケルくんに会いたいって言っててね」


 お母さん“みたいな”人。


「今月終わったら四ヶ月目じゃないですか。純哉とか奈緒とかが気になるってうるさくて」

「じゅんやと、なお?」

「あ、えっと。兄弟姉妹みたいな」


 今度は兄弟姉妹“みたいな”人。

 ――突っ込まないほうがいいのだろうな。

 必要なら織田さんのほうから話してくれるだろうし、複雑そうな家庭環境に首を突っ込むのも気が引ける。

 逡巡したのち、僕はひとつうなずいた。


「それじゃあ今度の土曜日ね」

「お、やったー! 遊びおいでよ、楽しみにしてるっ」

「……僕は勉強を教えに行くんですよね、織田さん」

「うっ……はい」

「楽しみにしてるね」


 すねたようにかばんを持ち直した織田さんを見て、小さく笑う。

 アナウンスが流れた。次の電車がもうすぐ来るらしい。


   ◇ ◆ ◇


 あのあと。

 僕たちは勉強会の内容をメールで話し合った。そのとき「家に来たとき、驚かないでね」との一文が添えられていたのがひどく気になったけれど、行けば分かるだろうと思い「分かった」とだけ返した。

 それから土曜日まで、どうにもそわそわと落ち着かない気分が続いた。約束の日が近づくにつれて、ワタルからじめっと湿った視線を頂戴した。最近、あいつに呆れられることが多い気がするのだが、気のせいだと思いたい。

 さて。そうこうしているうちに約束の土曜日がやってくる。待ち合わせは乗換駅。織田さんといつも別れている駅だ。

 改札口を出て正面にある銀時計の前に立ち、ぼんやりとする。今日の最高気温は十度らしい。冷え込む風にも納得がいく。黒い手袋をつけた手をぎゅっと握って寒さに耐える。

 しばしそこで待っていると織田さんがやってきた。白いタートルネックに深いインディゴのジーンズ、いつもの見慣れたスニーカーをはいて、柔らかな茶のロングコートを着ている。

 彼女は時計の前にいる僕を見つけたのか、手を上げて笑顔を見せた。僕も手を上げてそれに応える。ほっと、胸の奥が温かくなった気がした。

 ゆったりとした足取りで彼女のもとに行けば「待った?」と目を輝かせた。携帯を取り出し時間を確認すれば、約束の時間より十分早い。


「のんびりしてたから、あんまり待っていないと思うよ」

「……だからぁ、そこは今来たところだよって言うんだよ、カケルさんや」

「あ、」


 そういえば以前待ち合わせしたときも、似たような会話をしなかったか。


「えっと、今来たところだから気にしないで」

「もうおそーい!」


 わざとらしく腕を組んでそっぽをむいた彼女だったが、すぐに小さく笑みをこぼす。


「それじゃあ、行こっか」


 先導する彼女の後ろに続き、歩き出す。

 駅の建物から一歩外に出れば、ぶわりと冷気が足首やのど元、頬の先を殴っていく。

 ――寒い。

 織田さんも「ひゃー」なんて情けない声をあげているが、どこか楽しそうだ。

 周囲は高いビルと大きな道路、たくさんの人が行き交っていた。これは、ここを歩き慣れていないと人の波に流されてしまいそうになる。

 思わず、あまりの人の多さに驚き足が止まる。が、すぐに気付いた織田さんが、にっといたずらっぽい笑みを浮かべてこちらを見た。


「はぐれないように手でも繋ぐ?」


 聞いてくるなんて珍しいな。

 差し出された手を見、彼女の顔を見。少し考えてから、その手を取る。


「流されたら巻き込んでやる」

「まず人波に抗ってー」


 冗談を言いながら織田さんの案内でバス停にむかう。バスが来るまでの十五分間おしゃべりをして時間を潰し、やってきたそれに乗り込んだ。入り口で二百十円の運賃を払って、左側、後ろから二番目の二人がけの座席に並んで座る。窓側は織田さんだ。彼女は座ると同時に、着ていたコートを脱ぎ膝に置く。


「これに終点まで乗って行きまーす」

「終点?」


 織田さんの隣に、腰を下ろす。


「そそ、終点。バス停のすぐそこなんだ」


 窓の外を眺めていれば、街路樹が流れビルがどんどん後ろに消えていく。

 いくつかのバス停を通り過ぎ、幾人かの人が乗り降りを繰り返す。が、席に座れないほどの人が乗り込んでくるということはなく。

 次第に外の景色は空気を変えた。背が高いビルは鳴りを潜め、マンションや小さな建物が増えてくる。学校やら保育園、病院などが多くなっているようだ。


「もうすぐ、家が見えてくるかな」


 ぽつりと。彼女の声。

 前の蛍光掲示板を見れば、まもなく終点の文字。

 視線を外に戻した。一軒家が増えている。バスの進行方向には、目立つ大きな十字架。

 ――あれは、教会?


「ほら、見えてきた」


 また小さく、彼女の声。

 終点を知らせるアナウンス。同時に緩やかにカーブしている細い道に入った。それを合図に僕たちは降りる用意を始め、バスが止まると同時に席を立つ。……ここまで残っていたのは、僕と織田さんの二人だけだった。

 ついたのは、教会の前。

 抹茶に近い色をした屋根、その上に堂々と立つ十字架、続く壁は白く、大きな金の鐘が吊り下がっているのが見える。

 青空の下、協会を取り囲む生け垣の緑と屋根の翠に壁の眩しい白。

 まるで、絵に描かれた風景のようだ。

 織田さんは協会に続く門前に立ちこちらにむきなおると、太陽と同じ笑顔を浮かべた。


「ようこそ、我が家へ!」


 ――うん?

 たまらず、首を傾げる。今の言い方ではまるで、この協会が彼女の家みたいだ。


「協会の裏手にある孤児院が、あたしの家だよ」

「……孤児院?」

「そそ。早く行こ」


 生け垣の入り口を通り過ぎ、協会の奥にある細道に彼女は歩いて行く。僕はもう一度協会を見上げてから、そのあとに続いた。

 細道の両脇には葉をすっかり落とした木が、ほんのり寂しそうに立っていた。道にはむき出しの土と、出っ張っている木の根っこ、枯れ葉の山がところどころに出来上がっている。


「足下、気をつけてね」


 慣れた様子でさくさく歩く織田さんと、地面に目をむけて一歩ずつ確かめながら歩く僕。

 道は緩やかな坂道になっているらしく、僕の足は時折木の根に引っかかった。


「ほら、ついたよー」


 織田さんの声につられて顔を上げれば、立派な薔薇のアーチが目に入る。

 さくさくと先に行く彼女の背を追い、アーチをくぐる。茶色いレンガが敷き詰められた道を行き、先ほど見た抹茶屋根の協会裏手にたどり着く。

 そこには洋館と呼ぶにはいささか小さいが、一軒家と呼ぶにはかなり大きい建物があった。

 抹茶色の屋根、真っ白の壁。格子状にはまった窓ガラスから推察するに三階建て。玄関先には小さな花壇があり、鮮やかなポインセチアが植わっていた。

 建物の前にある広場では、幾人かの子どもが声を上げながら楽しそうに遊んでいる。

 遊んでいた子どものひとりが、僕たちに気づいた。二つ結びをした女の子が「あ!」と声をあげ、こちらを指差してくる。


「ひいちゃんおかえりー!」


 駆け寄ってくる女の子を、織田さんはひざをついてしゃがみ、迎え入れた。


「はいはい。奈緒、ただいまー」


 奈緒と呼ばれた女の子を筆頭に、子どもたちが「おかえり」と声をかけていく。声をかけられた織田さんは、ひとりひとりの名前を呼びながら「ただいま」と返していく。

 ――本当にここが、織田さんの家なんだ。

 しばらく僕は、織田さんたちから一歩離れて、おかえりコールを眺めていた。それが落ち着いてきたとき、彼女は僕に目線をやって、にっと口角を持ち上げて笑って見せる。


「驚いた?」

「そりゃあ、ね」肩をすくめて答える。「分かったって言ったけどだめだったみたいだ」

「わぁ、カケルくんの約束破りー」


 奈緒、と呼ばれていた女の子が首をかしげた。かと思ったら僕の足元にやってきて、つんつんと服を引っ張ってくる。

 女の子に促されるままひざを折ってしゃがめば、まっすぐな目とぶつかった。


「おにーちゃん、ひいちゃんとの約束破ったの?」

「……え、っと?」

「約束したならね、守らなきゃだめだよ。悪い人になっちゃうから」


 どうやら僕は、お説教をされているらしい。素直に「次からは気をつけます」と答えれば、奈緒ちゃんは満足そうに笑ってうなずいた。それから織田さんのほうに戻っていった奈緒ちゃんは彼女に何事かを報告したかと思うと、思い切り頭を撫でられていた。


「さて、」織田さんが立ち上がり、ひざについた砂を払う。「そろそろ入ろっか。あったかい紅茶があるよー」


 うなずいて、僕も彼女にならって立ち上がる。

 織田さんに案内されるままに孤児院内に入り、板張りの廊下を歩く。突き当たりにある階段を上がって三階へ。

 同じような扉が並ぶ三階には、それぞれプレートがかかっていた。かわいらしい猫やらハートがあしらわれているプレートが多いことから察するに、女子の部屋が並んでいるようだ。


「あたしの部屋、ここね」


 織田さんはある扉を遠慮なく開け放った。――プレートにはひらがなで「ひかる」と書かれている。

 よく言えば片付いている、悪く言えばすっからかんで味気ない彼女の部屋。あんまりにも物がなく空っぽで、驚く。

 織田さんはさっさと押入れを開けると、そこから座卓を取り出して、部屋の中心に置いた。


「今紅茶入れてくるから。ちょっと待っててね」


 ――部屋にひとり、取り残された。

 とりあえず、座卓の前に座る。荷物からノートと学校からもらった対策プリントやらを取り出し確認する。英語の範囲を確かめて、彼女が苦手だと言っていた場所をどう教えるかを考えて……手持ち無沙汰になった。

 またぐるりと、部屋を見回す。

 暖かなオレンジ色のカーテン、橙に白ラインが入ったカバーがかけられているベッド。窓際に置かれている勉強机には教科書やノート、参考書に辞書。ラックには新書やら小物入れやらがちまちまと遠慮がちに並べられ、壁にはシンプルな時計。押入れやクローゼットは、ぴったりと閉じられていた。

 自室は、その人の心の中を現すのだという。

 だとしたら彼女の心は、なんと寂しいのだろうか。

 ラックの中に伏せられた写真立てとシンプルな十字架、楕円形のトップがついているネックレスらしきものが置いてあるのに気付く。

 好奇心がうずく。そろりとラックに近寄ろうとしたところで、扉が開いた。

 織田さんがトレイに二つのティーカップ乗せて、部屋に戻ってきた。彼女は僕が中途半端な体勢で固まっているのを見ると、不思議そうに首を傾げる。


「なにしてんの? なにかあった?」

「……ちょっと、気になるものがあって」


 座卓にカップを置き、織田さんはラックに目をやった。それから「ああ、」と声をもらすと写真立てを手にとって、勉強机の引き出しにしまってしまう。


「アップルティーになりまーす。本当はアッサムでミルクティーにしようかと思ったんだけど、茶葉が切れてたんだよね」


 ――写真には、触れるなということか。

 僕は相槌を打ちながら、対策プリントを取り出す。


「じゃ、英語から始めよう。範囲広くなったから、単語の確認からね」

「うえーっ。なんでわざわざ英語からなのー!」

「織田さんの苦手分野だから」


 なおも不満そうに言い募る織田さんを言いくるめ、英語のノートを開かせる。一度開いてしまったあとは、彼女は黙々と問題に取り掛かっていった。

 一時間ごとに教科を変えて、勉強を続けていく。

 そうしていけばいつの間にか、部屋の中が暗くなっていた。

 すっかり冷め切ってしまった紅茶を口にする。りんごの香りが口内に広がった……気がした。温かかったら香りも楽しめたのだろうが、もはやただの紅くて渋い水だ。

 座卓に額を乗せてうなっている彼女の前には、化学基礎のノートが開いており、解読不能な化学式が羅列されていた。


「織田さん、意識ある?」

「ある、寝てない、寝たい、眠い、おやすみ」

「おはよう、織田さん」

「おやすみ、大和泉くん」


 彼女はかたくなに顔をあげようとしない。一応声はかけるが、これは多分、電池が切れたのだろう。

 諦めて、ラックのほうに目をやる。どうしても僕の視線は、十字架とメダルのペンダントトップに引き寄せられた。


「ねえ、」

「んー……?」

「あそこにある十字架とネックレスって、なに?」

「ああ、あれね」


 ゆるりと彼女は顔をあげると、体を捻って背後にあるラックからそれらを手にとって、座卓の上――僕の目の前に置いた。


「こっちはメダイ」


 メダルがついたネックレスを指差す。


「幸運のメダイとかの、あれね。お守りだよ。んでこっちは、」もう一方の十字架を指差して、彼女は続ける。「キリスト教の象徴的なものだと思えば、大体あっていると思う」

「織田さんは、ええっと……クリスチャンってやつ?」

「違うって言いたい。……洗礼は受けてないんだけど、こういうところにいるとやっぱり、考えた方は寄ってくるかなー」


 そりゃそうか。教会が運営している孤児院にいれば、教会の教えに染まりやすくなるのは道理。

 織田さんはメダイのふちを指先でなぞったのち、ラックにそれらを戻した。それから大きく伸びをすると壁にかかっている時計を見て、「げ、」と小さく声をあげる。つられて時計を見れば、十九時を回ろうとしていた。

 そりゃあ、外も真っ暗になるわけだ。


「ごめん、こんな時間まで付きあわせちゃって」

「いやそんな。こっちこそ、気づいてたのになにも言わなかったし」

「気付いてたなら早く教えてよ!」


 荷物をまとめ、帰る用意を始める。彼女はしばし拗ねたような表情をしていたが、それもすぐに笑顔の中に溶け消えた。

 部屋から出て、織田さんの先導で階段を降りる。

 院の外に出れば、空に輝く星々と丸い月が浮かんでいた。空気もぐっと冷え込み、吐き出す息がくゆりゆれて、昇っていく。

 織田さんは情けない声をあげ、寒そうに自身を抱きしめた。彼女が上着を着ていないのに気づき、早く院内に戻るように促すが、首を振って拒否される。

 納得いかない。


「見送りぐらいいいじゃん。バス停までだし」

「なら上着とっておいでよ、見てて寒い」

「えー、やだよ。カケルくん先に帰りそう」

「取ってこないなら先帰る」

「えっ」

「取ってこないなら先帰る」


 織田さんと院に背をむけて数歩進む。と、慌てたように「そこでおとなしく待ってなさい!」と残して織田さんは院内に戻っていった。

 しばらくすれば茶色のロングコートを着た彼女が戻ってきた。そして僕の隣に並んで、指先を握ってくる。


「道、暗いから気をつけてね」


 そのまま引っ張られ、薔薇のアーチをくぐり抜け、真緩やかに下る細道を歩く。葉が腐った甘い匂いが、一歩ごとに舞い上がっているようだ。街頭がないため、道は暗く、昼間とは比べ物にならないほど歩きにくい。


「写真立てはね、」宵闇に、彼女の声が通る。「両親の写真。……らしいよ」


 らしい?

 曖昧な物言いが引っかかった。その空気が伝わったのだろう、織田さんは小さく控えめに、声を出して笑った。

 細道を抜け、教会の前に出る。抹茶色の屋根は、宵闇の空と同化していた。


「顔覚えてないんだよねー。物心つく頃にはもう、ここにいたから」彼女の笑い声がむなしく聞こえる。「あのメダイと十字架、両親からの贈り物だそうだよ」


 道路を渡って、駅前にむかうバス停につく。自然と足が止まる。

 しばらく互いに無言で立ち尽くす。織田さんもまだ、院に戻る様子はない。

 白い息が規則的に、僕と彼女の口元から昇っていく。

 星が綺麗だ。ぼんやり空を見上げて、また視線を前に戻す。教会の白い壁は、月光に照らされて目にまぶしく見えた。


「じゃあ、大切にしないとね」


 やっと出てきた言葉は、ありきたりなそれ。


「うん」かすかに、彼女はうなずく。「大事にしたいと思ってる」


 エンジン音が耳に入る。音のほうに顔をむければ、弓なりに曲がった道のむこうから、にゅっとバスのヘッドライトが顔を出しているところだった。


「じゃ、あたしそろそろ戻るね。夕飯の時間、もうすぐだし」

「うん、ここまでありがとう」

「どーいたしまして! お礼はコンビニの肉まんでいいよ」

「テストで僕より点数高かったらね」

「なにおーう。このヒカリ様と勝負しようと申すか! よぅし、乗ってやる。今回は勝つんだからね」


 ――空元気に見えて、なんだかどうしようもなく、寂しくなる。

 バスが来る。乗車口が開き、僕たちが……僕が乗り込むのを待っている。

 もう一度織田さんのほうに目をむける。彼女は笑顔で手を振って「またね」と。先ほどの空元気はなりを潜めている、ように見えた。


「うん、また」少し迷ってから、続ける。「また学校でね、ヒカリ」

 織田さんの目が、大きく見開かれた。

 かと思ったら太陽にも負けない満面の笑みを浮かべ「またねカケル!」と手を振られる。

 バスに乗り込み、一番後ろの座席に座る。窓の外に目線をやれば、織田さんはいまだそこに立ち、手を振ってくれた。

 戸が閉まり、バスが発進する。織田さんが細道に戻っていくのが見えた。孤児院に戻るのだろう。その背中は、バスが曲がると同時に見えなくなった。


「……ヒカリ」


 次顔を合わせたとき、ちゃんと呼べるかな。

 彼女の名前を何度か口内で転がして、気恥ずかしさと砂糖に似た甘さを味わう。それを嚥下してからもう一度小さく、彼女の名をつぶやいた。

 呼び方に慣れておこう。ああやってまた笑ってくれると、うれしいんだけど。




   ◇ ◆ ◇




 孤児院に架くんを誘った。驚かれたし、興味津々って感じだったけど、態度が変わったりしなくて安心した。いつもどおりにしてもらえるって、すてきなことなんだね。

 あとあと、名前呼んでもらえた! 苗字から名前にランクアップしてた! これでうかれるんだから、やっぱりあたしって単純だー。


 大切にしないとって架くんから言われたとき、破りっぱなしだった家族の写真を思い出した。さっきテープではっつけて直したんだけど、やっぱりちょっと不恰好でさ。しかも一部パーツないの! 部屋掃除したら、出てくるかな? 見つかるといい。

 むかつくって破っちゃって、ごめんなさい。今度ちゃんと直します。


 おやすみなさい、また明日。

次の更新日は2/24になります。

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