小夜
前作「カガミノモリノ」とリンクしています。
夏休みになったら実家へ帰る。
それが母との約束だ。
小夜は親元から離れ、母の妹の家でお世話になっている。
「小夜、夏休みはどこ行くの?」
友人の紅子と琴子の問いかけにも、実家へ帰るのと答える。
「ごめんね、だから遊べないんだ」
本当は友達と遊びたい。
でもそれは我慢しなければならない。
私は我侭で家を出た。
本当は母は嫌がっていたのに。
「そっか。遠いんだっけ?
それならしょうがないよね」
「久しぶりに両親に会うんでしょう?
楽しんできなよ!」
友人の言葉に小夜は頷く。
半年ぶりなのだ。
きっと両親は待っているだろう。
弟も待っている。
小夜はたった半年しかあの森を離れていないのに、懐かしく感じた。
友人に別れを告げて学校を出る。
外は天気が良く、暑い。
額から汗が零れ落ちた。
小夜は空を見上げる。
眩しさに目を細める。
あの森はこんなに暑くなかった。
いつも冷たい風が吹いていた。
鳥のさえずりが聞えていた。
こうして、自分は慣れていくのだろうか。
そう思うと少し寂しくなった。
小夜はまず祖母の家に寄った。
小学校、中学校と小夜は祖母の家から通ったのだ。
「おかえり。元気そうで何よりだよ」
祖母はそう言って笑顔で迎えてくれた。
「お祖母ちゃんも元気そうで良かった。これお土産」
はい、と小夜は祖母にお土産を渡す。
そうして少し祖母と話をしたあと、森へと向かった。
森に入ると涼しくなる。
蝉の声も遠くに聞こえる。
小夜はそれが好きだった。
誰もいない森で目を閉じる。
まるで世界に人は自分ひとりのように思う。
深呼吸をして森の空気を吸い込む。
懐かしい森の匂いだ。
「おかえり、小夜」
声の方を振り向くと父と母がいた。
小夜はただいま、と言って笑う。
「あれ?泰史は?」
小夜は弟の姿を探した。
やんちゃ盛りの弟は、どこかに遊びに行っているのだろう。
「疲れたでしょう?さあ、家へ入りなさい」
小夜は頷いて両親の傍に寄った。
ふふ、と小夜は笑って父親の腕にすがりついた。
「どうした?」
小夜は父親が大好きなのだ。
大きな手も、優しい声も、笑い方も。
たった半年なのに、こんなに凄く長い間離れていたように思う。
「甘えているのね?
小夜はもう高校生なのに」
呆れた母の声が聞こえる。
「いいんだもん!」
小夜は母に向かって笑った。
今は子供のように甘えたい気分なのだ。
泰正が微笑んで小夜の頭を撫でた。
緩やかな時間が流れる。森にいると安心する。
小夜はこの森が大好きなのだ。
小夜が初めて森を出たのは五歳のときだった。
それまでは森から出ることは一度としてなかったのだ。
「小夜は人の子だ。
ずっとここで生きていくことは出来ない。
そうだろう?」
泰正の言葉に渋々更紗は頷く。
ずっと、そのことから目を逸らしてきた。
でもそれも限界だ。
自分勝手な話だが、頼れるのは更紗の母、小夜の祖母しかいない。
泰正は小夜を連れて森を出た。
もう夕暮れが迫っている。
「どこに行くの?」
泰正と手を繋ぎながら、小夜は不安になって尋ねた。
小夜の不安を取り除くように、泰正は優しく答えた。
「お祖母ちゃんに会いにいくのだよ」
「お祖母ちゃん?」
「そう。更紗のお母さんだ。
この森の外に住んでいる。
これから小夜も外の世界で生きていくんだよ」
小夜はなんだか悲しくなった。
だから泰正の手を強く握った。
泰正が更紗の実家へ行くと、祖母は驚いた顔をした。
「初めてお目にかかります。
泰正といいます。
森に住む、更紗の夫です。
この子は小夜。
更紗の子供です。
もうすぐ、六歳になります。
この子は森の外の世界で生きる子です。
どうか助けてくれませんか?」
「…なぜ、更紗が来ないのですか?
自分の子供のことでしょう?
あの子は一体何をしているのです?」
「お怒りはごもっともです。
ですが更紗は今森を出ることは出来ません。
更紗のお腹には今子供がいます。
その子は森の子供。
小夜とは違います」
祖母はため息をついた。
急に姿を消した更紗に対して怒っている。
でもそれをこの子や泰正にぶつけるのは間違いだ。
「分かりました。小夜は預かりましょう。
落ち着いたら更紗にも来てもらうように伝えてください」
はい、きっと、と泰正は頷いた。
「小夜。これからはここが小夜の家だ。
お祖母ちゃんの言うことをしっかり聞いて、いい子にするんだよ」
「お父さん?」
小夜は不安になった。
どうして?
どうしてこれからここが小夜の家になるの?
「小夜。また会いに来るよ」
泰正の後ろには広大な森が広がっている。
そこが小夜の家なのに。
「やだぁぁ!」
小夜が泣き叫ぶ。
それを悲しそうに見ながら、泰正は姿を消した。
それから小夜は夜になると泣いた。
一人の寂しさに耐え切れず、森へと戻って行った。
でもいつも知っている森は、夜だと違った。
怖くて、先にも行けずに泣いた。
小夜、と名前を呼ばれて顔を上げると父がいた。
「お祖母ちゃんが心配するよ。
勝手に抜け出しちゃ駄目だ」
泰正が小夜を抱き上げる。
「怖いよ~お家に帰る~」
泣きじゃくる小夜の背中を優しくなで。
泰正は言った。
「小夜。大丈夫、一人じゃないよ。
いつも傍にいる。
それに小夜は夜に生まれたんだ。
夜は小夜の味方だよ」
大好きな父に抱きしめられ、小夜は安心して眠ってしまった。
結局、小夜は夜になると祖母の家を抜け出して、森へと帰ってきてしまうのだった。
「う~ん、困ったな」
泰正は小夜の寝顔を見ながら眉をひそめた。
「大丈夫よ。そのうち帰ってこなくなるわ。
そうして段々と人の世界に慣れてゆくのよ。
きっと高校生になったら甘えてもくれなくなるわ」
更紗が意地悪そうに言って泰正の顔を見る。
「…それは、ちょっとイヤだな」
真剣に考えている泰正を見て、親バカと言って更紗は笑った。
「姉ちゃん!」
まだ小さい弟の泰史が小夜にまとわりつく。
泰史は神の子だから成長が遅い。
母のお腹に三年もいた。
だから今も小学生くらいなのだ。
「こら。どこへ行ってたの?
今日帰ってくるって言ってたでしょう?」
頭を撫でると泰史が嬉しそうに笑う。
「うん、だから姉ちゃんにお花摘んできたんだ!」
そう言うと泰史は白い花を小夜に渡した。
ありがとう、と小夜は言って泰史を抱きしめる。
心優しい弟、この子がいるのなら、安心だ。そう思った。
「泰史、お姉ちゃんがいない間はお父さんとお母さんを守るのよ?」
うん!と泰史は頷いた。
小夜が森を出ても泰史がいる。
泰史が森を守ってくれる。
だから平気なのだ。
「お父さん、私、もう夜は怖くないよ」
小夜は笑った。
そうか、と泰正は小夜の頭を撫でた。
父や母と離れ離れになったから、夜は嫌いだった。
でも、もうきっと大丈夫。
小夜は静かに目を閉じる。
そうして森の声を聞く。
木々のざわめきを、鳥のさえずりを、風の音を。
それらを心に刻んで、小夜は人の世界へと戻って行くのだ。