第七話
ふわりと、鼻をくすぐる甘い香り。
目が覚めたのが先か、それともその芳香で起きたのか。定かではないけれど、目覚めがチョコレートに似た香りで彩られるのは悪い気分では無かった。目を閉じたまま、ゆったりと、心地良さに沈み込む。
涼しい部屋の中で、温い布団にくるまれている、贅沢な感覚。重さを感じさせず、けれどふんわりと体に被さる布団は柔らかく、そして背中に感じる、僅かに沈んで穏やかに体を受け止めるマットが、寝返りなんて忘れさせてくる。体全体がとてもリラックスしていて、いつまでもこうして、うとうとしていたいくらい。
あぁ、良い香りだ。意識にそっと溶け込んで、心身をほぐしてくれる、ゆったりとした香り。決してキツすぎるなんてことはなくて、けれど息を吸い込まずとも、甘さを感じさせてくれる。
瞼の裏から感じる仄かな明るさも、安心感と微睡みを一緒に与えてくれるもので。
とても、気持ち良い。
目覚めがこんなに気持ち良いなんて、初めて。
起きたくない。
このまま寝てしまいたい。
ゆったりとした眠りに、沈み込んでしまいたい。
ふと、息を吐いた時。
カチャ――……
「…………!」
急速に覚醒する意識。
穏やかに寝転んでいた体が、一気に硬くなる。
紛れも無いドアの音に、起きたばかりの全神経を耳に傾けた。
何だ、誰だ!?
そっと閉められるドアの音に次ぎ、聞こえてくる足音。数歩で私のベッドに辿り着く筈。
けれど何だか、音の響き方が妙だ。何故か、遠く感じるような。あれ? 部屋はこんなに広かったっけ?
足音は私の方ではなく、部屋の、寝ている私からすると足側の方へ歩いて行って、立ち止まったようだった。
そして私は、身動きの取れないまま、頭を必死に働かせる。
部屋の広さなんか問題ではない。そもそもこの心地良さは何だ? 冷えた空気は何だ? 私のベッドはマットなんてないし、薄い布団を被るだけでも寝苦しい暑い季節だった筈だ。
何だ、何が起きている!?
嗅ぎ慣れない匂いもパニックに拍車をかける。私に何が起こってる? 今の私は、どこの、何だ? ひょっとしてまた転生した?
目を開けてみたいけれど、足音の主に起きていることを知られたくなくて、ひたすら耳に神経を集中させる。寝ている感覚から、何だか大きなベッドのようだ。足を動かしたりできないから詳しくは知れないけど、前世でも使ったことがないような、上質なベッドなことは確か。
部屋の広さは個人の部屋にしては大きそうで、響きの良さ、そして冷え具合から、私の家のように隙間風が入るなんてことも無いのだろう。
そして薫る、上品な甘い芳香。
頭の中に思い浮かぶのは、お姫様の部屋。
姫。姫と言ったら、王様。
そして、そこまで思い浮かんで。
「――――ッ!?」
バッ、と一気に身を起こした。
思い出した、私はあの時、キツネを見たんだ!! もっと言えば、キツネに、生贄として引き渡された。
そしていきなり起き上がった私に顔色を一切変えず、一度だけ目を瞬いた、彼は。
「……ふむ、鱗を数枚拝借しようと思ったのだがねぇ? 起きてしまっては同意が必要かな」
「――――…………はぁ」
キツネではなく、マッドサイエンティストたる立ち位置の、カタレ……通称カマキリが、にやりと笑んで、軽く首を傾げていた。
一度肩を落としかけ、直後。
ぞわ、と、全身に鳥肌が立った。
長い白衣も短く見える程の痩せ気味な長身に、不健康ながらも整った顔立ち。自分の好奇心の為にしか動かないカタレは、紛れも無くゲームの登場人物であり。
と、いうことは。
この世界に、レヴィラトがいる。
そのことが、はっきりしたんだ。
「…………………………!!」
抑え切れない、全身の震え。体を抱き締めて、足を縮めるけれど、お腹の芯からぞくぞく来るような、この感覚を、抑えることなんて到底出来やしない。怖がっている? そうじゃない、喜んでる。どうやって抑えたら良いのか、……いや、どうやって表したら良いか分からないくらい、喜んでいる。
キツネが、彼が、この世界にいる!!
勿論、レヴィラトがいるからといって、そして彼と同じ城にいるからといって、恋に落ちれるなんて理論は無いし、そもそも会えるかすら、いや、この後どうなるのか、それすら分からない。けれど、村で続いていた、何の進歩も転換もないあの日々を思うと、どうしたって、この体の震えを止めることは出来ないし、胸の底から体中に広がり回る歓喜を消すことも出来ないし、溢れてくる涙を、嗚咽を止めることだって、出来ないのだ。
私は、彼と同じ世界に、いたんだ。
「……うん? これは困ったなぁ、そんなに怖かったかい? いや、鱗を取ると言っても痛くはしないよ? 君が望むなら、採取した直後に抜けた鱗を再生させても良いし」
私が泣いてるのを見て勘違いしたカマキリが、鱗を剥がすことは前提の提案をしてくる。何とも、何とも懐かしい。そう、彼はそんな性格だ。そしてそれは主人公と結ばれた後でも一切変わる事が無く、主人公に向ける目も実験対象に向けるそれと変わらない。彼は、恋愛できない恋愛対象の一人だ。そんな彼すらも、懐かしく、嬉しくて、全然視界が晴れてくれない。
ベッドの上で泣き続ける私に、カマキリは一つ「ふむ」と声を洩らすと、部屋の外へ出ていった。諦めたのかもしれない。
やがて部屋の扉が控え目にノックされた頃に、ようやく私は目元を拭えたのだった。