第六話
ざわざわと。
人声で目が覚めた。
どうやら、夢も見ないような深い眠りだったようで、いつ寝たのかも覚えてない。きっと長く寝ていたのだろう、頭はすっきりしているし、痛いくらいお腹が空いている。
ぼんやり体を起こして、ドアの方を眺めた。閉まったドアの向こうから聞こえてくる、ぼんやりしたざわめき。まるで年に一度の村祭りの時のようだ。私だけ仲間外れの、明るいお祭り。
そう、聞こえてくるざわめきは祭りの時のように大きくて、寝ていた私は少しの間、もうそんな時期だったかと首を傾げていた。聞こえてきている筈の楽しい声に耳を傾けながら。
けれど。
『――をっ、―――からっ!!』
『やめろっ!! ―――って効きや――』
『交渉は俺らがやるから、お前らは避難してろッ!!!』
声は段々と、大きさを増していき、その内容もはっきり聞き取れるようになる。
楽しげに聞こえたざわめきには、悲鳴や子供の鳴き声が混ざっていた。
ざわざわと鱗が逆立つような、嫌な空気。
「……避難? 交渉?」
最後にはっきり聞こえた、祭りとは程遠い単語を小さく呟く。
何から避難する? 何と交渉する? 何で悲鳴が聞こえた? 祭でないなら、どうしてこんなに、騒がしい?
気になるが、姿を見せるのが怖くて、状況を探ろうとベッドの上で耳をそばだてたまま。
慌ただしい外の様子とは裏腹に、次にはっきりとした言葉が聞こえるまではしばらくの間が有った。
家のすぐ近くで叫ばれただろう、はっきりした言葉。
『ッ、逃げろってんだろ!! 化け物には俺らが話付けるッ!!!』
「っ………」
化け物という単語に反射的に身を竦めた。
思わず布団を握り締めたけれど、叫んだ声はそのまま遠ざかっていく。どうやら私の事ではなさそうだった。
布団をそっと放し、ゆったりと肩の力が、抜けて。
「……え?」
それからようやく、叫ばれた言葉の意味を頭が捉えた。
化け物? 避難? 交渉?
まさか。
化け物から避難する為に?
化け物と交渉をする?
そんな。
まさか。
………まさか、魔物?
「嘘……」
魔物。残忍で獰猛で、人々を喰らうという、魔物。血を引いているだけで迫害の理由になる、魔物。
そしてそんな情報よりも、私を動揺させたのは。
ガンガンガンッ
乱暴なノック。直後に聞こえる怒号。
「おい、開けろッ!! 開けろって言ってんだろ、お前の出番だぞッ!!!」
荒々しく扉が揺らされる。私の答えを待たずに、つっかえがツガッ、と嫌な音を立てて跳ね飛んだ。
ダン、と壁が揺れるほどの勢いで開かれた引き戸。
そして現れた男は、血走った目で私を睨み付けた。
その後ろから、
「待って下さい、今贄を用意しますからッ――」
と小さく聞こえてきた声と、昔から言われていた
『魔物に襲われた時、捧げものにするくらいの役には立つだろう』
の言葉が、耳で不協和音を響かせた。
生け贄。
捧げもの。
魔物に捧げられる。
食べられる? 辱められる? 殺されるだけ?
そんな事は知らない。だけど、酷い目に遭う事は確か。
そんなの。
此処まで必死に耐えてきて、頑張って耐えてきて、最後をこいつらの為の贄で終わらせるなんて、そんなの。
ふつふつと、臓腑が煮えるような錯覚。視界が揺らぐ程の拒絶。
そんなの、御免だ。
「……へへッ、魔物様のお出ましだぜ、化けモンよぉ」
狂気の宿った瞳は、私の顔をじっと捉えて放さない。
私は、ただ顔を青くして、困惑している様子を、相手に見せている。
男の後ろからまた別の男が現れて、急いた声を出した。
「お、おいっ、さっさとそいつで時間稼がねぇと、俺達が避難できねぇぞっ!」
「分かってるッ」
男は躊躇いを捨てたように部屋にずんずんと入ってきて、私の腕を捻り上げようとして。
――――ズジャジャギャギャギャ――
爪が引かれる嫌な感触。まるで黒板を掻いた時のような、いや、それ以上に不快な。
「っ……あぁあああぁぁぁあああああああ!!!!!」
醜い悲鳴が耳元で上がった。
「ッ」
両手の爪で思い切り裂いた男の腕。一息でベッドから跳ね降り、悲鳴を上げるその横を通り過ぎる。走ってくる私を見て、戸の前で呆けているもう一人の男が慌てて手を伸ばそうとする。けれど、手を構えて掻くフリをすると、怯えたように後退った。
「――このクソが、逃がすなァっ!!」
悲鳴が怒号に変わったのを後目に、私は家を飛び出した。
途端。
「――ッ待て!!」
「っ………!」
必死の形相で構えられた棒に、足が止まる。勢いのあまり倒れそうになったけど、何とか踏み止まった。
「……へ、へ。来るなら来やがれ……容赦しねぇぞ」
なるほど、魔物に対抗できないわけだ。ずらりと私を取り囲む男達が手にするのは、何れも太い木の棒、シャベル、鍬や三又など、生活の身近にある物ばかり。けれど私を止めるには十分で。
そして背後から聞こえてくる、怒りに染まった声。
「ッ化けモンの分際で!!」
―――――っ!?
―――――――。
――――――。
………………った。
気付くと、地面に倒れていた。頭が割れそうに痛む。頭に穴が空いたような錯覚。
痛い、痛い、潰れてしまいそうだ。必死に手で抑えるけれど、視界がどうしようもなく滲み、体を丸めて。
直後、背中を蹴られる。
「―――クソがッ!!」
何の手加減も無く。唐突な攻撃に蹴られた分だけ体が飛んで、丸めた体が反対に反り返った。
「お、おいっ、蹴るより先に、こいつをさっさと渡さねぇと!」
焦った声に、舌打ちする声が重なる。最後に私の手を思い切り踏み付けると、男は下がった様だった。
そしてすぐに引っ張られる腕。肩が捥げるんじゃないかと思うくらい強い力。足を踏ん張ることも出来ず、ただ持ち上げられるだけ。
「オラ、立てッ!!」
「っ………、……っ…」
痛みで意識が朦朧とする。抵抗することすら頭から抜け落ちて、ずるずると地面を引き摺られる。
頭が酷く痛む。現実感の無い、感覚が遠く感じられる鋭敏な鈍痛。
背中から伝わるリアルな痛みは、全身から力を奪って。
手はずきずきと、一番はっきりとした痛みを押し付けてきた。
痛い。
痛みを感じたまま、引き摺られる。
動くことができないまま、魔物の元へ。
騒ぎ声はいつの間にか遠ざかっていて、夕闇の静けさの中を、妙な心地で眺めている。
前世と同じだけの時間を過ごした村。
酷く閉鎖的で、醜く、前時代的な、大嫌いな村。
別れ際の感慨なんて、何一つ沸かず。
ただ、心がどこかへ飛んでしまったかのような、質量の無い感情で、村を眺めている。
これで、おしまいだ。
どうなるにすれ、こんな世界、こんな村、こんな姿とは、もうおさらばだ。
不思議と、怒りは沸かなかった。憎しみや憤りを覚えるには、この村はあまりにも、憐れに映ったから。そして、悲しみも沸かない。ただ漠然と、漫然と、キツネのことを思い出していた。
あぁ、まるで、あの時のようだ。
跳ねられ、宙を舞っていた、あの時のように。
最期に思うのは、やっぱり、キツネのこと。
レヴィラト。
次に生まれ変わるなら、貴方の世界へ行きたい。
掴まれた腕の先で、男がまた何か言っている。どうやら、立てとか自分で歩けとか、そういった類の台詞らしい。どうして自分から歩くと思っているのか、その思考に笑いすらしそうになってしまった。本当に、馬鹿な奴ら。
ずるずると、ずるずると、引き摺られて。
その時、ふと。
夕闇の情景が、黄昏色に染まる村の家々が、がらんとした、けれど生活感のある奇妙な風景が。
強い既視感を持って、目に飛び込んできた。
私は。
私は、この光景を知っている。
ううん。
この、
この村の、この夕焼けの、このスチルを、知っている。
――――まさか。
トクン、
心臓が、鳴って。
家の影から、1つの影が現れる
トクン、
――まさか!
影が手を上げて、私を引き摺っていた男が慌てて止まった。
トクン、トクン、トクン
夕闇の中、逆光に照らされたシルエットが、頭の中で、誰かの姿と重なった。
ううん。
誰かのじゃない。
「――別にそんなに焦らずとも、もっとゆっくり連れてきて下さっても良かったのに」
聞き覚えのある、優しい声音。
頭の中が真っ白に。
心の底から、真っ白に。
「可哀想に、傷だらけではありませんか」
これは、夢だろうか。
優雅な足取りでこちらへやってきた、何処か信用ならない雰囲気を纏った、彼は。
穏やかな口調のところすら、まるで口の形を制御しているんじゃないかと疑るくらい、完璧すぎて怪しい、彼は。
私の胸を高鳴らせて、私の視界を滲ませて、私の声を弾ませてしまう、彼は。
レヴィラト・シウォルテネア。
私がずっと恋してた、キツネがそこにいた。