第四話
目が覚めた。
それもすごく唐突に。
まるで授業中寝てたのを急に起こされたかのような、そんな切り替わりの大きな目覚め。
けれど体はどうやら横たわっている様で、目を薄く開けてから、覆い被さってる布団を蹴飛ばした。
暑い。
もわっとした湿気がべっとりと肌に纏わりつき、どかしても半分ほど被さっている掛布団が鬱陶しい。
何だろう、何か、夢を見ていたような。
夢。
そう、あれは、夢だったか。
目が覚めた時に意識の切り替わりが大きいと、大概夢の内容など思い出せないのに、考えるとすぐに何を見ていたか思い出せた。
そうだ。
冗談にもならないような夢を見てた。
夢の中でも暑かった。朝から気怠くなるほど蒸し暑い日。登校途中だったか。乙女ゲーのことを思いながらぼうっと横断歩道を渡っていたら、バイクに轢かれてしまって。それで、宙を舞って、そこでも下らないことを考えてたら、ほんの数瞬で、頭に強い衝撃が――
「っつ……!?」
頭が真っ白になるほどの痛み。
「――、っ、え、………え?」
一瞬で消えた。戸惑って、痛んだ右側頭部に手をやるけれど、勿論怪我など何もない。
思わず体を丸めてしまうほど、縮こまって声も出せないほど痛かったのに、何もない。
けれど、どうしてか不思議な感じがしなかった。
いや、どうしてか、だなんてことはない。
だって。
「……そっか」
呟いた声は、聞き慣れない、ううん、聞き慣れた、私の声。
「………そうだ、そうだな、うん」
あぁ、久し振りだったから。
久し振りにあの夢を見たから、意識が入れ替わってしまっていた。
唇を自嘲の形で歪めて、目覚めた視界で部屋を見回す。
起き抜けがこんなにも暑いのは、部屋にエアコンなんかついてないからだ。
夢の怪我で頭が痛んだのは、実際に、宙を舞って、地面に叩き付けられたから。
聞き慣れない声に慣れてしまったのは、同じ時間をこの声で過ごしてしまったから。
ずきずき痛む頭を抑えて、体を起こす。
何も無い部屋。木がむき出しの粗末な壁。薄汚れてざらついた、傷の目立つ床。天井には電灯の類は一つも下がっておらず、代わりに部屋の端の方に壊れたランプが一つだけ。
「………あーあ」
思い出してしまった。随分忘れていたのに。
そう、鮮明に、思い出してしまった。
レヴィラト。レヴィラト・シウォルテネア。ゲーム会社の人が付けたのだろう、どこで聞けるかも分からない胡散臭い名前は、ゲーム中のキツネのキャラクターのそれだ。思い出した。深いところまで知れていない、彼のことを。
クリアできなかったゲームを、思い出してしまった。
ゲームばかりで暮らせていた日々を、思い出してしまった。
退屈な、鬱屈な、窮屈な毎日に閉じ込められているということを、思い出してしまった。
もう二度と、あのゲームをクリアすることはできない。
私は一度死んで、違う世界へ来てしまったのだから。
「…………はぁ」
身を起こして、気怠い毎日の、朝の準備をする。
部屋……というより家の戸を、つっかえを外して引き、バケツを確認。今日も卵は入っていない。うん、そうだろう。戸を閉める。
本来なら入ってる筈だ。けれど、私の家には配らないだけ。
次にベッドの下に収めた木箱の中を確認。野菜はどれも痛んでいるが、口に入れられるだけマシだ。この辺りは食草は少ないから。それに痛んだ野菜も食べ慣れて、ちょっとやそっとじゃお腹を壊さなくなってきたし。
野菜はある。卵が無いのが困るけれど。肉や魚は、私なんかでは手が届かないから無い。自分の骨ばった腕を掴んで、小さく溜め息を吐いた。背丈も低いし、完全な栄養不足だ。前と同じ年だと言うのに、頭一つも背が低い。まぁ生きているだけ感謝しよう。
今日の分の食材はある。良かった、深い眠りだったから、盗まれてたらどうしようかと思ったけれど。幸い誰も近寄らなかったようだ。僥倖だ。
木箱についた紐に手を掛け、少し力を入れて、ぐっ、と背中に負う。立ち上がる前に、木箱を置いていた傍に落ちている袋を回収。ふらつきながらも家の戸を目指した。
毎日持つために紐が肩に食い込んだ跡が付いてしまっているけど、持たないわけにはいかない。置いて出て何度盗まれたことか。跡が付こうが何だろうが、飢え死にするよりよほどマシだ。
戸を引く前に、気配を窺う。良かった、静かだ。
細く隙間を開けて、誰もいないことを確かめてから、素早く外へ出た。
めざすは町の外れの井戸。手に持った袋に今日の分の水を入れにいくのだ。去年桶が壊されてしまったから、少し不便だけどこの袋で我慢するしかない。一日二回汲むだけで事足りるから、これでもまだ良い方だ。
誰にも会いたくないから、気配を窺いながらも、早足で歩く。後ろが気になってちらちらと見るが、けれど空家も多い家達からは誰が出てくる気配も無い。
ふらふらと、まるで傷付いた獣のように気配を窺いながら歩く。自分の境遇が惨めだと記憶に嘲笑われている気がして、歯を食いしばって足を速めた。
幸い無事に井戸に辿り着くことができて、木箱を背負ったまま井戸へ駆け寄り、素早く桶を落とした。
縄が揺れ、ちゃぽん、と音がして、数瞬、それから縄にぐっと力を入れる。大きめの桶は木箱よりも重たいけれど、一度に多くの水を上げられるので良い。歯車でも使えばまた違うだろうに、ここの連中は頭を使うことを知らない。背負った野菜と自分の体重を合わせるようにして、桶をなんとか持ち上げていく。
「んっ………っ………、っ…………ん、」
重たい桶を上げ終わって、そこだけ外に膨らむ様に張り出している縁に乗せた。水は桶に7割程入っている。うん、十分だ。袋をその中に沈めて少し動かして膨らませる。そのままの状態で口をぎゅっと縛って、なるべく多くの水を運べるようにした。できることなら、この一度の水で済ませられれば良い。
解けない様にしっかりと口を結んだ袋を桶から出して、もう一度辺りを窺った。誰もいないことを確認して、残った水の中に頭を突っ込む。大きな桶にはまだ水がたくさん残っていて、その中で口を開けて、水を一気に含んだ。苦い、全然美味しくない水。今朝の夢のせいで格別不味く感じてしまう。全く。
「――ぷは」
顔を上げて、洗顔兼水分補給を一旦休止する。袋に入れた水を今使ってしまうと勿体無いので、こうして桶に余った水で色々済ませるのだ。水は美味しくなくても良く冷えていて、凄くすっきりするのだ。
もう一度水分補給をしようと、桶に顔を近付けると。
「ッおい、離れな!!」
「っ……!」
激昂した中年女性の声。弾かれたように顔を離して、桶を素早く井戸の中に落として身を翻す。そのまま歩き出そうとしたけれど、怒り混じりの叫び声と共に髪を掴まれた。
「何してんだ化けもんがッ! 人間様の井戸を使ってんじゃないよ!!」
「っあぁあああッ……!!」
遠慮容赦無しに、髪が引かれる。首が抜けるんじゃないかってくらい、上に、上に。
痛みで叫んでいると、突然に髪が強く引かれて。
ッ――――――!!
痛いっ!!!
視界がチカチカと明滅する。
勢いで地面に倒された。体を丸めて、手をやった鋭い痛みの残る頭皮は、けれどそれ以上の痛みを伝えて来ない。
視界の端で何かが動いたかと思うと、目の前に落ちてくる、一束の髪。
「これから子供に飲ます水なんだよッ!! 穢してくれんじゃないよ、化けもんは泥水でもすすってりゃ良いんだ!!」
「…………」
ふ、と、痛みを意識しなくなった。
妙に冷えた頭。ぐつぐつと煮えるようなお腹。
穢れるわけないだろクソババア。あぁ、それより血は出てないだろうな。結構大量に抜かれている。血が出たら厄介だ、消毒も何も出来ないし、そう簡単に止まってくれないだろうから。
私が倒れている間に、太った足が野菜を踏み付け始めた。
「ふんっ、泥棒紛い、までしてっ、そこら辺の、草でも、食ってな!!」
ぐじゃ、ぺちゃっ、と。
木箱から零れ出た野菜が、潰されていく。
あぁ、動きたくない。もう怠い。
髪なんてまた生えてくる。それより、もう野菜を潰さないでくれ。必死に掻き集めたんだから。
心で思っても止めることは出来なかった。けれど幸いにも、全部潰されることはなかった。息切れしてるし、多分、疲れたんだろう。
最後に私のお腹を思い切り踏んで何事か言っていたけど、下らないので耳を貸してあげない。穢れるどうのと騒いだ割にはあっさり水を汲んで帰っていって、その姿が見えなくなってしばらく、私はようやく体を起こした。
「ッ……死ね、死んでしまえ」
心の底から唱える。辺りを見回して、無事な野菜や傷の浅い野菜を掻き集めて木箱に詰める。そして水の入った袋がそのまま転がっていることにほっと息を吐いた。
ふらふらと、元来た方へ歩き出す。
行きよりも長く感じた帰り道だったけれど、何事もなく帰りつくことができた。
戸を閉めて、つっかえを入れ、木箱をベッドの下に収め、袋の中の水を地面に掘った穴に注ぐ。漏れないように固めてあるから、一日くらいなら余裕で水を入れておける。
それから、ようやく髪の抜かれた場所に手をやった。うん、手で触って分かるくらい、ごそっといかれている。でもどうやら血は出てないみたいだ。良かった。
朝の一仕事を終えた。疲れた、いつもやってることなのに、もう慣れたことなのに、今日は随分と、疲れてしまった。
ベッドに背を預けて、目を覆う。
あぁ、だから、夢なんか見たくなかった。
思い出したくなかった。自分がどれだけ惨めかなんて。
「…………」
涸れた涙が恋しくて、薄い布団をぎゅっと握りしめた。
その手は微かに赤みがかって、尖った小さな爪が指先に伸び、全体が細かい鱗に覆われていて。
化け物と呼ばれるその手が、体が憎くて、悲しくて、頭から布団を被った。