下篇
花火はまだ続いていた。
それを見上げる人々の中をかれに従って歩いた。
何処に身を潜めていたのだろうか、思ったよりも、よほど多くの人達が花火を観に来ていたようだった。その人達とは異なり、そもそもあたしは花火を観に来たわけではない。そっと家を抜け出してきた身だ。だから、どこに行く当てもなく、ただ、かれに従って歩いていた。
かれは振り返らない。手はつないだまま。あたしたちは歩いていた。
あたしは急に恐ろしくなっていた。不安を感じていた。今頃、母は気付いているだろうか。厳しい祖父は、優しい祖母は、何も言わないままあたしが急にいなくなったことに、気付いているだろうか。気付いていたら、どうしているだろうか。
そんなことを考えたら、どうしてだろう。急に恐ろしくなったのだ。
あたしはとても後ろめたい気持ちを覚えていた。
かれは振り返らない。振り返ってくれない。
「ねえ、どこへ行くの?」とあたしはかれに訊いた。
「迷子は家に帰るものだ」
かれはそんなことをぼそっと呟いた。
かれは、ふと立ち止まった。
ぶつかるわけにはいかないから、あたしの足もその動きを止める。
「似ているね」
突然、かれが何かに納得したように頷いた。
「何のこと?」
「君は、やはり、母君に似ている」
かれが、彼方を示した。それを追って、目を凝らした。
母がいた。
必死で何かを探す母の姿があった。
おそらくは、ああ、きっと。
あたしを、あたしの姿を必死で探してくれている母がいた。
何事にも動じないはずの母が。
あの母が取り乱していた。
必死で声を張り上げている。
呼び掛けている。
道行く人の迷惑も省みずに、必死で訊ねて回っている。
さくら。
あたしの名だ。ああ、あたしの名を、母は呼んでいた。
胸に込み上げてくる感情があった。それは思わずしゃがみ込んで泣きじゃくりたくなる程に、圧倒的に込み上げてくる感情があった。
「――おかあさん……」
母が、あたしの姿を認めたのだろう。
慌ててあたしの方に駆け寄ってくるのを見た。
かれが、優しく微笑みながら、あたしの手をそっと離した。
「あっ」
かれの手が離れた瞬間、温かさが離れた。
隣に在った温かさがすっと逃げていった。
かれの手が、あたしの手を、離した――そして、それを寂しく思った。
その温かさを、離したくないと思った。
離したくなかったのに。
「ここで、おわかれだね」
屈託のない笑顔で、無邪気な笑顔で、かれはそう言った。
「え?」
「もう、迷子になっちゃ、だめだよ? かわいいお嬢さん」
冗談交じりにかれは別れを告げた。
かれの手を離したら、もう二度と会えないような。もう二度とその優しい微笑を見ることができないような――そんな気がしていたのに。あたしはぎゅっと唇をかんだ。
あたしが迷子じゃなくなったなら、もう、お別れだ。
かれは、きっと、そういう存在なのだろうから。なんとなく、そんなことをあたしは感じていた。困った時に現れてくれる存在なのだ。
名前を呼びながら、母が近づく。
そして、その分だけ、かれが離れていく。
「さよなら」
「さよなら、なの?」
「うん」とかれが頷いた。
そして、かれがまた一歩離れた。
二人の距離が広がっていく。
あたしはそれを止めようとして、「ねえ」と呼びかけた。
足がさっきからまるで動かない。まるで石にでもなったように、動いてくれなかった。だから、必死で呼びかけた。かれの背中に呼びかけた。それは小さい背中だけど。まぼろしのように現れ、あたしを助けてくれた。未熟なあたしの心を救ってくれた。その背中が振り返った。
「ねえ、待ってよ」
人込みに消えゆく中、かれが振り返った。
あたしは、かれの名前を知らなかった。あたしは、あたしを助けてくれた大切な人の名前を知らなかった。だから、知りたいと思ったのだ。かれを知りたいと。
叶うなら、お礼も言いたかった。
「あなたの名前は?」
花火の光が、かれの顔を彩った。
かれの口が開く。それが、やけにゆっくりと見えた。
かれは何かを言いかけて、それを止めたように見えた。かれは最後まで名乗らなかった。かれの声はついに聞こえなかった。あたしには届かなかった。
あるいは、頭上に鳴り響く、大きく力強い花火の音が全てをかき消したのかもしれない。かれの名前すらも、かき消したのかもしれない。かれが何と言ったのか、かれの名前は何なのか。そのなにもかもをかき消して――まるで、なにもかもがまぼろしだったかのように、とても美しく花火は散った。
花火は、鮮やかに破裂し、儚い残滓が漂い、そして消えていった。
かれが優しく笑った。まるで遠い世界の出来事のように。
かれが踵を返して、彼方に消えていく。
それに向かって、必死に手を伸ばそうとした。待って欲しいとそう言って、そう願って、必死に手を伸ばそうとした。
「さくら」
とん、という音がして。背中に、温かいものがぶつかった。咄嗟に振り返って、後ろを見ようとした。しかし、できなかった。
「この、ばか……」
身体を抱きすくめられていた。ぎゅっと強く、母に抱き締められた。
母があたしを抱き締めていた。その抱擁は強くて――それはとても、とても強くて。
母の表情は怒っていたけれど、でも、その瞳は潤んでいて。
母の言葉は怒っていたけれど、でも、その肩は震えていて。
その瞬間、優しく笑う、かれの言葉が聞こえた気がした。
ほら、よく見てごらんよ、と。あたしを取り巻く世界をよく見てごらんよ、と。
あたしは気付いていなかった。
全く気付いていなかった。
あたしの今日の浴衣は、その綺麗な桜色の浴衣は、母が与えてくれたものだったのに。決して豊かとはいえない日常の暮らしの中で、それでも、母が与えてくれたものだったのに。
ああ、あたしは、何を見ていたのか。
あたしは、何を見て、何を知った気分でいたのだろうか。
あたしは愛されていた。
母はあたしを愛してくれていたのだ。
唇をぎゅっと噛んで見上げた空には、美しい花火が浮かんで、すぐに消えた。ぐすっと鼻を啜った。口をぎゅっと閉じた。涙が零れないように、あたしは遥か遠い夜天を見上げた。銀月が綺麗だった。星は微かに儚く瞬いていた。光と影の狭間で、花火はとても綺麗に咲いていたのに。
その光はやけに滲んで見えた。
◆
「えいっ」
いきなり首筋に、冷たい何かを押し付けられた。夜空に美しく咲き乱れる花火を観ながら、もの思いにふけっていた私は小さく悲鳴を上げて、それを振り払った。
「はい、これ。驚いた?」
いつの間にか、彼が傍に立っていた。その手には冷たいお茶の缶があった。
「――もう、普通に渡してよね。驚いたなあ」と私が抗議すると、悪戯っぽく、彼が笑った。
「綺麗だね」
それは、花火を言ったのか。それとも、もしかしたら私のことを言ってくれたのか。彼はそれ以上の言葉を続けず、穏やかな微笑を浮かべて、空を見上げている。鮮やかな花火を見上げている。
私は受け取った缶を開けて、そのお茶をゆっくりと口に含んだ。冷たい。
僅かの間、思い出を振り返っていた頭が、確かに現実を認識し始める。彼が持ってきてくれたお茶は冷たくて美味しかった。湿度の高い暑苦しい気候には、少々うんざりしていたけれど、だからこそ、美味しく感じるのかもしれない。
ほっと一息吐いてから見上げると、鮮やかな花火が次から次へと咲いては儚く消える。
「ねえ、花火と桜って似ていると思わない?」
と私が言うと、
「どちらもとても儚くて美しいよね」
と彼は言った。
私も同感である。
そのまま、並んで立って、見上げていた。
「ねえ」と私は呼びかけた。
「なに?」
「手を、握ってもいい?」
思い切って告げると、彼は視線だけ私に向けた。そして、無言でそっと片手を差し出し、私の手を握った。私はそれを握り返した。熱い。
「花火、綺麗だね」
「君の方が綺麗だよ」
花火を見たまま、彼は静かにそう言った。確かにそう告げた。驚いた。
「ねえ、もう一度言って?」
「いやだ」
「ケチ」と口を尖らせて、そう言うと、彼は笑った。
「怒った?」
「私は怒ってなんかいません。ふん、嫌いだ、バカ」
「やっぱり、怒っている」
私は何も言わない。その代わりに彼の手をぎゅうっと力を込めて握る。たいして痛くもなかったくせに「痛いよ」なんて言っている。
頭上では、花火が次から次へと空に浮かんでは消えていく。鮮やかな色彩が、黒天にばら撒かれては消えてゆく。
この日、この時、彼とここに来る事ができて本当に良かったと思う。
そして、ついに一際大きな紅の大輪が空いっぱいに鮮やかに視界一杯に広がった。
その残滓が微かに白く瞬き、しかし、すぐに消えた。再び、空は闇に支配される。静寂に覆われる。
花火が終わると、なんだか寂しい気持ちになった。楽しい時ほど、すぐに過ぎ去ってしまうものなのかもしれない。
私は、花火が終わったら、きっと言おうと考えていた。
思い出の中のかれに言おうと。
「ありがとう」
「え?」
突然、私が告げた言葉に、彼は驚いたようだった。
「あの時は、ありがとう」
その声は、まるで囁くように、とても小さく篭ってしまったものになった。それは到底、彼に伝わるとは思われない程にささやかな私の感謝の言葉。夏の夜に咲く花火みたいに、儚く消える運命なのかもしれないけれど。
でも、たぶん、彼には伝わっていると思うのだ。
彼のことだから。
「どういう意味?」
それなのにあくまで訝しげな表情を彼は浮かべてみせる。まるで何も気付いてはいないかのように。何も知らないかのように。
――あの日のかれは、もう、いなくなってしまったかのように……。
私達は、いつの間にか、大人になった。
私達は変わってしまった。もうあの頃とは何もかもが違う。忘れられてしまったとしても、それはそれで仕方ないのかもしれないけれど。
再び見つけた彼から、あの日のことを聞いた事はなかった。だから、飄々ととぼけた様子の彼を見て、幾度もその正体を疑ったこともある。彼は、かれなのだろうか、と。
しかし、もう短くない付き合いだ。
いつまでも誤魔化されるつもりなんてない。私はちゃんと確信を抱いている。
今、あの日のあたしを、私は嗤うつもりはない。
母への愛情と憎悪。相反する激情に駆られてとった行動は、客観的には浅はかなものだったのかもしれない。子供の未熟な考えだと他人は嗤うかもしれない。愚かな娘だと嗤うかもしれない。でも、子供が大人の考え方を理解することが出来ないように、大人も子供の考え方をいつの間にか忘れてしまうものではないだろうか。
頑なで一途な子供の心を大人はいつか失ってしまうものではないだろうか。
そう考えて、私は、あの日のあたしを慰めている。
それにしてもあの後、母にはこっぴどく叱られたものだ。あの母が感情をむき出しにして泣くのを見たことは後にも先にもあの時だけだった。
今となっては、何もかもが懐かしい。
花火が終わったばかりで、あたりはまだ騒々しい。
彼の眼をじっと見つめた。暗い闇の中でも、光を集める漆黒の眼を。彼の眼を。いつものように、飄々とした、とぼけた表情をしている。それがちょっと、憎たらしい。
私が、せっかく、ちょっぴり素直になって、感謝の言葉を伝えたというのに。なけなしの勇気を振り絞って、伝えたというのに。それを彼はあくまでとぼけて、やり過ごすつもりらしい。
同じ花火が二度と存在しないように、私のこの感謝の言葉には二度目はないのに。
夏の夜に散った花火の欠片を集めることが出来ないように、もう二度とその言葉を、その言葉に込められた感情を、集める事など出来そうにないのに。
それは一度限り。現れたかと思ったら、すぐに消えてしまうものなのだ。まるで夏の夜の花火のように。
「判らないなら、それでもいいよ」
そう言って、ちらっと彼の様子を窺うと、彼は困ったような笑みを浮かべている。
そして、並んで歩き出す。手を繋いで、一緒に歩いて帰るのだ。
私が何も言わないで微笑んでいると、彼も何を思っているのか、曖昧な微笑を浮かべている。花火が終わり、再び、夜天の静寂は戻っている。見上げたら、小さく瞬く星が綺麗だった。銀色の月が冷たく世界を照らしている。
隣では彼も一緒になって、空を見上げている。
そうやっていれば、誤魔化せるとでも思っているのだろうか。
私がその正体に気付いていないと本気で思っているのだろうか。
彼は、あくまでとぼけて、知らないふりをしている。だが、それで私を誤魔化せるとは思わないで欲しい。私は手をぎゅっと強く握り締めた。
そう、かれは決定的な証拠をあたしに残していった。
そして、そのことを彼は今でも気が付いていない。
「ねえ」と私が呼びかけた。
「なに?」
「あなたの手……」
「ぼくの手が、どうかしたの?」
彼がひょいと私の顔を覗き込む。そのとぼけた彼の表情に対して、私はなんだか急に意地悪してやりたくなった。
「やっぱり言うの、やーめたっ」
ねえ、あなたの手の熱さは、今もあの日と変わらないよ――そう告げる代わりに、私はただ悪戯っぽく微笑むことにした。
ちょっぴり甘酸っぱい物語を書こうと思ったのに、今はこれが精一杯。
男がとぼけてみせても、女の勘は鋭いものですよ、と。
感想など頂戴できれば幸いです。




