中篇
あたりは暗くなってきていた。
残照がまだ空に微かに漂って、すじ状の雲が刷いたようにさっと伸びていく。徐々に闇に覆われていく空を見上げるのを止めて、重たい足を踏み出そうとしたら転んだ。派手にこけて、せっかく綺麗に着た薄紅色の浴衣が汚れた。
以前に母に買い与えられて、今日祖母に着せてもらった浴衣は、一目見て心を奪われた、お気に入りのものだった。幾度、この衣を肩から掛けて、こっそりと姿見の鏡の前に立ってみたことだろう。見たこともない清らかな美しい姿の娘が、其処には映っているように見えた。ただの思い過ごしでしかないと知りながら、それでも嬉しくてならなかった。
この衣と共に最期を迎えたいと思っていた。浅ましい想いとはいえ、しかし、こんなにも美しい綺麗な桜を最後に纏えたなら――それは、きっと、幸せなことだ。
ついに疲れて道端に座り込んだ。昼刻に冷麦を食べてそれきりだったから、空腹も覚えていた。膝を抱き寄せ、俯いた。
どのくらい、歩いただろうか。それはとても長い距離のようにも感じるし、あるいは短いようにも思う――このまま、あたしは、いなくなることができるだろうか。
「どうしたの?」
ふいに声を掛けられた。
いつの間にか、子供が傍に立っていた。まるで真夏の夜のまぼろしのように、その子は優しく微笑んでいた。
線の細い貌をした子が、黒い蓬髪を揺らして、そっと手を差し出す。「大丈夫?」
「大丈夫」とあたしは呟いていた。気付いたときには、その言葉が口から勝手に零れていた。
「立てるかい?」
差し出された手を見た。白く細いそれは自分のものとそう変わらないようにすら感じる。なんとも力が弱そうで頼りない。
しかし、それは自分の為に差し出された唯一の手だ。
必死にしがみつくように握りしめた。握ってみて、初めて気付いた。それは思ったよりも力強い男の子の手だった。熱い手だった。
闇をも欺く黒髪と、漆黒の瞳。身に纏った青白色調の浴衣がよく似合っていた。不思議な雰囲気を持つ人だと思った。いや、人であるかも定かではない。それに気づいた途端に、なにか得体の知れないものと対峙しているような、恐ろしい心地がした。
「君の名は?」と唐突にかれは訊ねた。
「さくらっていうの」
「とても綺麗な名前だね」
かれは、あたしを見据えた。暗い闇の中でも、光を集める漆黒の眼で。その眼の中にあたしは映っていた。
「その桜色の浴衣も、よく似合う」
あたしの着ている薄紅色の浴衣。それはあたしの最後の宝物だ。
褒められたことがすこし嬉しくて、あたしは思わず口元をほころばせた。
「ねえ、あちらに行こうか」
かれがあたしの手を引いた。
「え?」
「あちらの方が花火はよく観えるから」
なぜか、その提案には、不思議と逆らいがたいものを覚えていた。
そもそも花火を観に来たわけではなかった。あたしは、ただ、いなくなるために彷徨っていたのだ。たまたま、今宵が此の地で花火を打ち上げる祭日であったにすぎない。そんな不満もあったけれど。口籠ったそれは、結局はかれに伝わることもなく、あたしは俯いたまま、かれに従った。
先を歩むかれにあたしはついていくことにした。手は握られたまま。人込みを巧みに避けていく彼のあとをたどりながら、川上へと歩いた。あたしのことを配慮したのか、その速さはゆっくりとしたものだった。周囲の人々は、幼い男女の二人を、微笑ましく見守っているようだった。
「子供が一人で夜道を歩いてはいけないと、言われなかったのかい?」
唐突に、振り返りもせずに、かれはそんなことを言い出した。
「祖父に言われたことがあるよ、あと、母にも」
「言いつけを守らなかったのか。悪い子だね」
かれの口調は淡々としていて。それからはあまり感情を伺うことが出来ない。あたしの手はかれにしっかりと握られたままだった。
「可愛い娘がこんな時間に独りでふらふら歩いていると、攫われてしまうよ?」
「攫われる? 誰に?」
かれが振り返った。その目には、わずかに怒ったような、苛立ったような、そんな感情の揺れが映っていた。
「もののけ、さ」
蒸し暑い空気の中に、すっと生暖かい風が流れた。冗談めかしてそんなことを言うかれの口調がおかしくて。思わず、笑った。もののけ、だなんて。なんとも古めかしい。まさか、そのようなことをかれが言うとは思わなかった。
「笑い事じゃない」とかれが拗ねたように言った。
かれの漆黒の瞳に向かって、あたしは笑いながら言った。
「あなた、面白い冗談を言うのね」
かれが拗ねたように目を逸らした。
「これだから都会の娘は嫌いだ」
「都会? あたしが地元の子じゃないってどうして判ったの?」
「だって、東京の言葉を、君はしゃべるじゃないか」
傷ついたような声で、わずかに苛立ち交じりのため息を吐きながら。標準語を使っているのはお互い様なのに、かれはそんなことを言った。あたしの場合は、祖父母の家に滞在していたとはいえ、方言を覚える程この地に親しんでいるわけではなかったし、なによりも。
「母が言葉遣いには厳しい人だったから」
口調に僅かに硬さが混じるのが、自分でも判った。しかし、かれはそれに気付かない風だった。
「それにしても、ずいぶんと大人びた口調だ」
背伸びをし過ぎているのではないかと、かれの目が言っていた。
「あたしは早く大人になりたかったから」
子供だと思われて、侮られたことなど数え切れない。
何も知らぬ、何も判らぬ子供と思って、目の前で口さがない言葉を吐く者がどれほどいたことか。あたしに判らぬと思って、あたしを悪く言う者がいた。母を悪く言う者がいた。
あたしはそれが悔しかった。悔しくて、悔しくて。でも、何も言い返せずに、いつも俯いてばかりいた。
「しかし、言うほど大人にはなれてないようだね」
かれが優しく笑った。「知らない人に付いてきては駄目だろう?」
あたしと歳が幾つも離れているようには見えないその容貌だが、かれの方がよほど大人であるようだった。少なくとも、あたしが背伸びしてもなお届かない境地に、かれはいるような気がした。
「そうね」とあたしは認めた。かれの言うとおりかもしれないと。たしかにあたしは子供だし、かれに付いてくるべきではなかったのかもしれない。
しかし、かれだけがあたしに手を差し出してくれたのだ。その手は微かに緊張して震えていたけれど、とても温かかった。この世界から消えてなくなりたいと願ったあたしに唯一差し出されたその手は温かくて。だから、あたしは思わずその手をとって握り返してしまったのだった。
かれが何も言わずに、ただ、指で空を手で示した。
二人並んで見上げたら、星がとても綺麗だった。
あたしの手はかれに握られたままだった。その手が熱い。
「君が何を思い悩んでいるのか、ぼくにはわかってあげられないけれど」
かれは、あたしの耳元でそう囁いた。
「その悩みは、どれぐらい大きいの?」
満天の星空だった。
大きな月がどっしりと浮かんでいる。
幾千幾万の星が満ちている。
手は握られたまま。
思わず、くすくすと笑い出してしまった。
ああ、なんと小さいことか。
己は何を思い悩み、何を知ったつもりでいたのか。
天を見上げれば、それは呆れるほどに卑小なものなのに。
「あたしはね」
「うん」
「いなくなりたいと思っていた」
あたしの告白は、憑きものが抜け落ちるようにするりと口から出て、そのままわずかに宙に漂って、そっと消えた。
「いなくなって、そして大切な誰かに自分を捜しに来て欲しいと願ったのかい?」
かれは優しく笑った。まるで真夏の夜のまぼろしのように。
そうかもしれないと思った。
あたしは、そう願っていたのかもしれない。私にとって大切な人、つまり母が捜しに来てくれたなら。それはきっと嬉しいだろうと思った。母に愛されたいとひたすら願っていた、これまでのあたしの為にも、母に捜しに来て欲しいと願った。
しかし、あの母がここまで捜しに来てくれるとは、思えないけれど。
「ねえ、いつも俯いてばかりいたのかい?」と彼がいう。
「どういう意味かしら?」
「顔を上げて、よく見てごらん」
天を仰ぐかれの横顔をあたしは見た。
「上を向いて歩けば、もう少し周囲が良く見えるかもしれない。そうしたら、今まで見えなかった何かに気付けるかもしれない」
「あなたは、難しいことばかり、言うのね」
「そうかな」
と彼がいった。
「そうだよ」
とあたしがいった。
「そうでもないはずさ」
「そうでもなくないよ」
「月がとても綺麗だね」
とかれが言った。
「星もとても綺麗だよ」
とあたしが言った。
そして、二人で笑いながら、並んで空を見上げた。
一斉に道路沿いの提灯の明りが幾つか消えた。
薄暗闇の中、夜目が利くようになる前に、ひゅるるるという音が耳に届いたかと思うと、突然、どんっと強く響く音。川浜が明るく照らされた。まるで昼夜が逆転し、陽の光に照らされているかのように。
「あら」
「花火が始まったようだね」
首が痛くなるくらいに真上を見上げていると、かれに浴衣の裾を掴まれた。かれはいつの間にかあたしから少し離れて、近くの岩に腰を下ろしている。
おとなしく隣に座ると、肩が触れそうなくらい近かった。
「ねえ」とあたしは呼びかけた。
「なに?」
「手を握ってもいい?」
思い切って告げると、かれは視線だけをあたしに向けて、無言で左手を二人の間に置いた。あたしはその手に右手を重ねて、包み込むみたいに握りしめた。かれの手はあたしの手とは全然違う。それはもう、造りからしてまるで異なる生きもののように思えた。
その手は熱かった。
真夏の蒸し暑い空気の中で、しかし冷えきっていたあたしの心を、確かにその手は温めてくれる気がした。あたしはただ、子犬がするように、その温かさに身を寄せるだけ。
「手が熱いのね」
「そうかな、自分では気づかないけれど」
「とても熱いよ。でも、どうして?」。
「――そいつはきっと、緊張しているから、じゃないかな」とかれが言った。微かに頬を紅くして。
花火の音に、かき消されないように。かれと耳元で話すたびに、その息がかかってくすぐったかった。
「ねえ」とかれが呼びかけた。
「なに?」
「君は、母君が好きかい?」
花火を見上げたまま、かれは静かにそう問いかけた。
その唐突な質問はあたしをどきりとさせた。
「うん」と俯いてあたしは小さく答えた。
会ったときから、かれは不思議な人だった。あたしのこころを見抜くことができるような、そういう摩訶不思議な存在なのではないかと疑うほどに。あるいは、もののけの類なのかもしれない。
「でも、母君は君を愛していないと、君は思っている」
かれがそう呟いた。あたしは沈黙を守ったまま、それを否定しなかった。
再び天を仰いだ。
美しい光の花が咲いていた。
降り注ぐ柳の赤が幾重にも重なって、次々に地面を目指して落ち、一瞬強く激しく瞬いたかと思うと、すぐに消えた。軽快な破裂音と共に、鮮やかな色彩の花が咲いては散った。次から次へと、咲いては消えゆく。
それらはとても鮮やかに輝いて見せたのに、次の刹那にはもう消えている――まるで、最初から何もなかったかのように。
「あたしはこのまま消えてなくなりたい」
「本当に、そう思うのかい?」
隣から聞こえるかれの言葉に振り向いた。思ったより、すぐ近くにかれの顔があった。真剣な顔があった。
「あたしは、いない方がいいのよ」とあたしは俯きながら言った。
「本当に、そう思うのかい?」
かれはその言葉を真摯に繰り返した。
あたしは顔を上げて、かれをキッと睨みつけた。
かれはあたしを見つめ返している。その漆黒の瞳の中に、あたしがいた。そのあたしの瞳の中に、かれがいる。そんな終わりのない対鏡の無限回廊に二人は閉じ込められていた。
「嘘吐きだね」
かれはそんなことを言った。「君は、それほどまでの決意を、胸に抱いているわけではない」
かれはそう決め付ける。あたしの覚悟を否定されたが、しかし、あたしはそれに反論する言葉を持たない。
赤い花火が夜空に閃光を撒き散らし、かれの顔の半分を紅く染めた。
「君はただ、ちょっと、虫の居所が悪かっただけさ。下を向いていたら、まわりが良く見えなくなって――そして、迷子になっただけだ」
「わかったふうなことを言わないで」
あたしは、反発するように、すこしむきになって、強く言った。かれを睨みつけながら。しかし、それが精一杯だった。それがあたしの精一杯の虚勢だったのだ。
「わかったふうなことを言わないでよ」とあたしは繰り返した。
かれはあいまいに微笑んで、黙ったまま、空を指さした。
その瞬間、また花火が空に咲いた。
あたしは空を見上げた。
己の境遇に対して抱く不安の心。父がいないということに勝手に引け目を感じて、周囲を敵視して、心を閉じて意固地になっていた、あたしの凍りついた幼い心。未熟な心。その全てが不気味に蠢いていたのは――そう、それはただ虫の居所が悪かったというだけに過ぎないのかもしれなかった。
あたしは自分の心を持て余して、混乱していただけだった。
独りで俯いてばかりでは、道を見失うこともある。
ただ、上を向けば良かったのだ。
かれと二人並んで見上げた空はあまりに広くて、あたしの心の狭さがよく判った。
あたしは早く大人になりたいと思って、母の面倒にばかりなりたくないと願って、背伸びばかりしてきたけれど、しかし、空の大きさにはちっとも気付かなかった。
見上げたら、星は天に満ちている。
今宵は、その上に花火の鮮やかさまで加わっている。
それに気付けた途端に、気持ちが少しだけ楽になった。
張り詰めた心が落ち着いた。そして、一旦落ち着いたそれは、やがてせりあがり、喉を震わせ、涙となって溢れた。
かれは何も言わなかった。ただ、握られた手は熱かった。だから、泣くことにした。
心の行き場を見失って迷子になったあたし自身のことを。
愚かで幼かった、あたし自身のことを想って。
その時だけは泣くことにした。
堪えた泣き声は大きな花火がかき消した。
かれはずっと隣にいた。
泣き疲れて空を見上げた時、あたしは夜天に輝く花火の向こうに何かが見えたような気がした。心を解き放つような、爽やかな何かを。




