2章-2 本の塔
セディルフェ大図書館は迷うことなく見つかった。
見つけられないはずがない。
「館」というよりは「塔」。
図書塔。本の塔。
ウォルトは扉を押しあけてその中に足を踏み入れる。
そこで足を止めた。
――これが最古の知。セディルフェ大図書館。
――人々が知を求め続けたその果てが、ここにあった。
夥しい数の本。静謐の中で古書に独特の臭いが鼻につく。
様々な色、幅、高さの背表紙が一見無秩序に押し並ぶ。
――息が詰まりそうなのはこの塔に窓がない故か。
それとも膨大に詰め込まれた知識達の圧力故か。
先人達が収集した知識の塊。
それが目の前に鎮座していた。
威圧感、畏怖、崇敬、未知への興奮。
ごくりと、知らず唾を嚥下した。
壁に据え付けられた棚にはぎっしりと本が収められ、その棚は幾重にも上に重なっていく。塔の中に本棚があるというよりも、まるで本棚を積み上げて塔を作ったようだった。棚の一部が長くせり出して、それが通路になっているらしい。通路の終わりには梯子があって、それでさらに上へと登ることができる。梯子は通路の途中にも一台ずつ取り付けられ、それは左右方向に可動式で棚の本を取り出すために使うのだろう。照明の光源は魔法だろうか。火が使えるわけはない。
視線を上げるだけでは足りず首を曲げて頭上を仰ぐ。やっと本棚の終わりが見えた。
あの最も高い頂に収められた本はどんな本なのだろう。書名が判読できるはずもない。それを知るためにはこの本の間にかかる梯子をひたすらに登っていかなければならないのだ。
首が痛くなってようやくウォルトは視線を下におろした。
その時。
「おや、君はウォルトじゃないか」
後ろから声をかけられウォルトは振り向く。そこには一匹の年老いた猿がいた。
誰だろう。
心当たりが思い浮かばない。
ウォルトが何も声を発さずにいると、
「覚えていないかい? 私はこの大図書館の館長だ」
嫌な。
予感がした。
館長はウォルトの態度に対して気分を害した様子もなく鷹揚に続けた。
「前にラギと二人でこの大図書館を訪れたときに挨拶しているよ。
なに、ラギとの旅は覚えることが多すぎるだろう、老いぼれひとりくらい覚えていなかったことなど気に病むな」
「……………」
それほど酷い表情を見せたつもりはなかったが、それはつもりだけだったのか。館長は励ましの声をかける。
「ラギも一緒にこの街に来ているんだろう? また私のところに顔を出すよう声をかけてくれ」
そう言ってウォルトの肩を叩いて、館長は中に入っていった。
「………なんだ。そうか―――」
ウォルトは大した感情ものせず呟く。
忘れていた。
それだけだ。
また塔の頂を見上げる。
――一度目に見上げた自分は、何を思い、何を感じたのだろう。
どうせ削られていく記憶なら、今のこの、泣き叫びたくなっている今この瞬間を消してくれ。
――どれくらい。
この場所にいるのだろう。
窓のない塔は時間の経過を分からなくさせる。
ウォルトは本棚の通路に腰掛けて無気力に棚に凭れかかっていた。
ギギギ…
軋んだ音を立てて塔の扉が開いた。それに続いて、
「ここにいたのか」
その声にゆっくりと視線を向ければ、ラギが見下ろしていた。
「なかなか戻ってこないから探したぞ」
心配とも呆れともつかない声音。
「………………」
「――――――
この塔の最上段まで登ってみるか? 登ったことないだろう」
「………………
許可をもらった当人じゃないと登れないんだろ」
「なに、構わんさ」
あっさりとそう言うと、ラギはウォルトが腰掛けていた本棚の足場にあがった。
「さあ立った立った。お前が進まないと俺も進めん」
ラギが上がった位置はウォルトの左手。そして上に続く梯子はウォルトの右手方向にあった。
気遣った言い方でもないのが気遣いか。
今にも軽く蹴られそうなところでウォルトは立ち上がる。
そして歩き出した。
塔の最上段を目指して。全ての知識の頂に置かれるその叡智を知るために。
梯子を登って棚一台分上に上がる。また棚を進んで梯子を登る。それを繰り返す。途中他の閲覧者とすれ違う時は、本を取る為の棚に架かる可動式の梯子に待避してすれ違う。
積み上げられた知識を上へ上へと登っていく。
柵などない。
壁にずらりと収められた本達が無言で語りかけ、それはひしりと圧力になる。
けれど端には寄れない。
足を踏み外せば落ちる。すでに無傷で済む高さではない。
それでも。
ここまで登る者はいる。これを作り上げた者がいる。
梯子から最後の棚に手をかけ、体を押し上げ登った。
そして棚に架かる梯子で一番高くに収められた本を目指す。
胸が高鳴っているのは疲れによるものだけではないはずだ。
棚の最上段には何も収められていないように見えたが、登ってみればたった一冊の本が無造作に横に置かれていた。
特別な装飾もなく、特に厚くもない一冊。
かなり古い本であることが、変色した紙の状態から見てとれた。ぼろぼろで痛みも酷い。
さらに表紙には肝心の書名もない。
古い本は読むだけで痛める。
それをラギから聞いていたのでウォルトは手に取らず訊ねた。
「これは何の本?」
ラギなら読んだことがあるだろう。
しかし彼の答は予想に反していた。
「開いてみろ。それは閲覧自由だ」
「いいの?」
「ああ」
そう言われれば開いてみるしかない。
ウォルトは胸を高鳴らせつつ、慎重に丁寧に、その本を捲った。
そして――ぱらぱらぱらぱらぱら。
「―――――――」
次第に乱雑な手つきで次々と頁を捲る。
「何故この最上段がわざわざ空けられていると思う?」
下から届くラギの声。
頁を捲る手が止まる。
それは――
「知識の果てなんてない」
最上段に置かれた本は、何も記されていない真っ白だった。
いや、白ではない。
そこにはこの本を求めてここまで登ってきた先人達の手の汗、指の皮脂が、執念が染みついていた。
――本の塔 END――