最終章-4 アドリヴェルテ
フィズマールを出る朝はいつも通りと変わらない。ワイリーのアパートで朝食をとって、あっさりとした別れの挨拶を交わしておしまい。見送りはアパートの玄関まで。
「今回は長いこと世話になったな」
「その分働いてもらったさ。それにまだ仕事は終わっちゃいない」
「ああ。分かってる」
何の仕事だろうとは思ったが、ウォルトは口を挟まなかった。
「じゃあな」
「できるだけ早く戻ってきてくれよ」
「できればな」
そしてワイリーの視線がウォルトの方に下がった。ワイリーとは必要最低限しか言葉を交わさないので、ウォルトは驚いてたじろぐ。
「お前もラギェンに迷惑かけるんじゃないぞ」
「――わかってる」
「そうか。ならいい」
ワイリー自身もどこかぎこちない戸惑った様子で応じた。
珍しいこともあるものだと思いながら、ウォルトとラギはアパートを出た。
そしてラギについて扉へと向かう。フィズマールを出て次に向かう先は特にどことも教えられなかった。
目的地が有るようで無い旅だ、そういうことは珍しいことではなかったので、ウォルトは気にすることもラギに問うようなこともしなかった。
フィズマールを出て二つ扉を越える。そこは鬱蒼と茂る森の中の道だった。取り囲むのは幹や枝が奇怪に曲がった木々。緑の濃い葉はぬめりとした光沢があり、幹は灰色というよりも白が汚れてくすんだ色。薄暗くて薄気味の悪い木々の間を歩く。こんな薄気味悪い森の為か、前を向いても後ろを向いても他の旅びとが見当たらずに余計薄気味悪さを増す。それなのに森を吹き抜ける風のおかげでざわざわざわざわとそこらじゅうで音がするものだから、誰かがいるような気がしてしまう。気がするだけで周囲を見回しても誰もいないのだから薄気味悪い。とにかく薄気味悪い。
ラギが急に――とわざわざ感じたのは認めるのは癪だが怖がっていたためか――声を上げた。
「ウォルト。お前に伝えていなかったことがある――お前はもう察していたかもしれんがな」
どきりとした。
足が止まりかけたのを何とか動かした。
――アドリヴェルテ。
――ラギの研究している魔法陣。
それが頭を過ぎったけれど、ラギが口にしたのは別の事だった。
「最近見つかった新しい扉はワイリーが担当していたものだけじゃない。新しい扉が連続して発見されているんだ。その犯人を捕まえるようワイリーから頼まれた」
そう言われてウォルトは自分を疑った。驚いたり憤慨したり、否定するよりもまず疑った。
零れていく記憶の合間に、自分がそんなことをしていたのではないか。
けれど。
「犯人はクリストファだ」
ラギはそう断言した。
――クリストファ。
青い森の古城で出会った氷のように鋭くて綺麗な青年。
同じ扉繋ぎの能力者。
――いや、異なる扉繋ぎの能力者。
代償とするものが異なるのだから。
またその名を耳にするとは――思っていたのかもしれない。
「俺じゃないって言い切れるの?」
「言っただろう、お前が忘れたことは俺が覚えてる。新たに扉が繋がった場所はほとんど俺達が行っていない場所ばかりだ。他にも理由はいくつかあるが、つまりはお前は新しく見つかった扉を繋いでいない。そういうことだ」
また青い森の古城でのことを思い出す。
「わかった。俺とずっと一緒にいてくれたラギが言うならそうなんだ」
それで自分を納得させる。
そうなると自然と犯人はクリストファということになるのだろう。クリストファは扉繋ぎの代償を払うことに対する抵抗が低いようだったから、無目的にですら繋ぎかねないところがあった。
「珍しく素直じゃないか。
――で、どうやってクリストファを見つけるかだが――」
言い淀んだ。
どうしたのだろうとウォルトはラギの顔を見上げる。無表情というよりは本心を表に出さないラギが、珍しく気まずそうにその心境を表して眉根を寄せていた。
「まずは扉を繋げるところまで行こう。この森の奥に入ると今は誰も使っていない小屋があるはずだ」
そう言ってラギは道から逸れ森の中に分け入った。ウォルトもそれに続く。
「あの青い森には多分もうクリストファはいないだろ。
今何処にいるか知ってるのか?」
「まぁな」
何処とは答えなかったし、何故知っているかとも答えなかったが、ウォルトはそれ以上聞きはしなかった。どうせもうすぐそこに扉を繋ぐのだ。その時に分かるだろう。
しばらく歩いて見えてきた小屋は、この森の薄気味悪さをさらに盛り立てる小屋だった。
奇怪な木々の合間に潜むように立っている小さな丸太小屋。森の奇怪に曲がりくねった木々をなんとか組み合わせて小屋としての体裁を整えたといった様相で、壁や屋根が異様に凸凹としている。そこに落ち葉や土埃が溜まりやすいようで、草木が生えていたり、雨水が溜まった為か一部は腐っているようだ。窓硝子も煤けて中が見えない。ドアのすぐ傍に立てられた曲がった枝の先には錆びたランプが引っかけられ、風に揺れてキィキィと耳障りな音を出していた。
――この森の薄気味悪さを際立たせる為だけにこの小屋を建てたのではないだろうか。
そう思わずにはいられない小屋である。
「この小屋?」
分かっていたが聞いた。
「そうだ。――まぁ気味の悪い外観だが、扉を繋げば中に足を踏み入れることもない」
それもそうだ。
ウォルトはドアの前に進み出た。把手に手を伸ばし、ラギに繋ぐ先を聞こうとしたその時。
「世界を乱すなぁ!」
小屋の陰から黒い影が飛び出してきた。
ウォルトに向かってくる。その手にはナイフが握られているのに気付いたが咄嗟の事に体が全く動かない。
――刺される!
その確信にも近い予感と共に堪らず目を強く閉じた。




