2章-1 本の塔
暇を持て余した。
ラギは隣で魔術書を読み耽っている。
ウォルトはアドリヴェルテに関する本でも探そうかと思ったが、前後左右にずらりと並ぶ本棚を目にするとその思いつきは溜息と共に流された。一体この中からどうやって探せというのだ。目的の本を探すのも技術だとラギは言っていたが、ウォルトには残念ながらそれがない。
図書館とは本が好きな者――あるいは知識を求める者にはどれだけ時間を費やしても足りない場所だが、そうでない者にしてみれば退屈な場所でしかないのであった。
本棚の間に挟まれた書き物机。その上にはラギが積み上げた本が山をつくる。視線はひたすら文字を追い、たまに離れたと思ったら手元の紙に何やら書きつけすぐに本に戻る。その本はまだ半ばまで読み進めたところであり、そしてその一冊が最後ではない。
当分かかりそうである。
ここは本の街セディルフェ。アドリヴェルテの森を探す道中、情報収集とラギの魔術研究の為にこれまでにも何度か立ち寄ったことがある街だ。
この本の街のはじまりは、ずっと昔の領主がはじめた本の蒐集だと言われている。以後本が本を呼ぶかのように本は増え続け、現在ではさして領土の広くないこの街一つにいくつも図書館が設立されているという。それは最も多くの扉を有し最も繁栄している大国偉大なるアリシアさえも上回る蔵書量らしい。
この街の持つ知識を目当てにやってくる者達は多く、その者達を目当てにした商売で静かな図書館から一歩出れば街には活気がある。
今ウォルト達がいるのは魔術関連が専門の図書館だが、この図書館に来るまでに通った大通りには、栞や本のカバーを売る露店、本の装丁屋、それに羽根ペンやインクなどの筆記具を扱う屋台などが並んでいた。古書の仲買人も見かけた。
下卑た喧騒にならないのは、旅びとのほとんどが学者や官吏、魔術師といった知識層だからだろう。彼らは体裁を重んじる。
その彼らの誰もが一度は訪れたいと切望する街。
それほどまでに人を惹きつけるのだ、知識というものは。
「暇なら一つ頼まれてくれ」
その声にウォルトは意識をラギに向けた。
「何?」
短く問い返す。
「これを写本屋に持って行ってくれ。一番上の本に移す箇所を書いた紙を挟んどいたから、持って行って見せるだけで伝わる」
そう言ってラギが指差したのは本の一山。その中の一冊を指しているわけではないことは既に学んでいる。どの本にも付箋が挟まれていた。
「俺が懇意にしてる写本屋、覚えてるか?」
ウォルトは記憶を辿り――辿り着いた。ほっと胸を撫で下ろす。
「アトランティスだろ。何度も行ったから覚えてる」
その本の山を抱えて移動することを思えば断りたくもなるが、何もしないよりはマシだろう。
ウォルトは椅子から立ち上がると本の山を抱え上げた。
その際に、机の上に広がった一枚の紙に目が行く。
魔法陣。
幾つもの記号と難解な魔術文字で構成された緻密で複雑なものだ。
ウォルトがラギと出会ってから旅の間ずっと調べているものである。一体どのような魔術を発現させる魔法陣なのか、それはラギにもわからないらしい。以前訊いたらだから調べているのだと答えが返ってきた。
その魔法陣が模写された紙が何枚も、注釈や解釈を添えられて机の上に広がっている。取消線が多いところを見るとまだまだ解明への道程は長いようだ。高名な魔術師であるラギがそこまで取り組んでまだ解明できないのだから、かなり高度な魔術に違いない。
また新たな解釈が魔法陣に書き込まれる。
ウォルトはラギの邪魔にならないようにその場を離れた。
図書館を出るところで、受付の司書に写本に出す本とラギの委任状を見せる。
「写本の依頼先は?」
「アトランティス」
本は財産だ。許可なく持出禁止である。さらに一見では持出許可は下りないらしい。複写許可などもっと下りないらしいのだが、もちろんラギはそれも保持している。
ラギの名前を出せば許可はすぐに下り、ウォルトは本を抱えて街に出た。本の保護の為、受付で布でまとめて包んでもらっている。どこの図書館もそうして貸し出すようで、大きく角張った布包みを抱えた姿が街中に散見された。むしろ持出許可を持つことをひけらかしたいためにあえて持ち出して抱えて歩くこともあるそうだ。せいぜい十代半ばのウォルトがそんなことをしていれば驚きの視線を引き寄せることになるのだが、皆使いかとすぐに思い至り一様に安堵して視線をそらすのだった。
アトランティスは図書館へ向かう途中に通った大通りに面した店だった。この近辺にはほかにも何軒か写本屋が店を構えているが、ラギが言うにはこの店が魔法陣の写しが一番正確で文書の写しも綴りの誤りがなく、その割に仕事が早いらしい。
腕が痛くなる前に本を象ったアトランティスの看板を見つけると、ウォルトは体でドアを開けて店内に入った。
カランカランとドアベルが客の来訪を継げる。
「いらっしゃい。
――おや、ウォルトじゃないか。久しぶりだねぇ、変わってないなぁ」
写本用の用紙や表紙の見本が並べられた狭い店内。漂うインクの臭い。その奥にあるカウンターから愛想よく声をかけてきたのは梟だった。目の上にぴんと立つ飾り羽が理知的である。
「どうも。
これお願いします」
ウォルトはカウンターに本の山をどさりと乗せ、布を解くと一番上の本に挟んであったラギの指示書を差し出した。
「はい、いつもご贔屓にどうも」
写本屋の梟――セルバは受け取ってそれに目を通す。
「さすがラギの御仁だ、本の選択に抜け目がないな」
そう言いながらカウンターから依頼書を取り出すと、そこに書名と頁、装丁の指定を記入して、今度は積まれた本を取り上げて頁をぱらぱらぱらと繰っていく。特に写しに時間のかかる魔法陣はその大きさ、複雑さによって格付けし、特殊言語や特殊書体で移す必要のある個所もその分量を抜き出して依頼書に記入する。セルバの両の目が左右ばらばらに忙しなく動き、ちゃんと確認しているのか疑う速さで頁は繰られていった。職人技である。
六冊全て、さほど時間もかからずそれらを確認し終えると、
「この分量なら三日後の昼に仕上がりだ。
受け取りには折角だからラギにも顔を見せるように言っておくれよ」
「わかった」
提示された代金を払って、引換証をもらう。
これで頼まれごとも終わってしまった。さてまだ日は高い。いやそれどころか、
「どこか本を読まなくても時間を潰せるところない?」
――三日後。
まだそれだけこの街に滞在するとわかったら、そんな科白が口をついて出た。
するとセルバは軽く羽ばたいて吹き出した。カウンターの用紙がばたばたと煽られる。
それを見てウォルトは失言に気づく。確かにこの本の街に来てその質問はないだろう。聞かなければよかったと後悔するが口に出した言葉は取り消せない。
「すまないすまない。これがあのラギの連れの科白だってんだから、まぁ世の魔術師も可哀そうなもんだ」
「悪かったな」
ウォルトは不機嫌に返すが、その通りだとも理解していたのでそれ以上何も言わなかった。
もう適当に散歩でも昼寝でもすることにして、店を出て行こうとカウンターに背を向ける。その背に、
「あー、そうだな、セディルフェ大図書館は行ったことがあるかい?」
セディルフェ大図書館。
ウォルトは記憶を辿る――が、何も思い出せなかった。ウォルトは振り向いて答える。
「いや」
「そうなのかい? あそこはこの街最古、つまり最初の図書館だ。この街の原点、ただ見るだけでも価値があるぞ。
最初の図書館だけあって古書が中心の蔵書だから、ラギは連れて行っていないのかもな。既に出ている本ならあの御仁はとっくに目を通しているだろう。そのラギの委任状を見せれば中に入れてくれるんじゃないか」
どうせ時間を持て余している。
ウォルトは場所を聞いて行ってみることにした。
セルバはウォルトを見送ると、依頼された本を抱えてカウンターから繋がっている奥の作業部屋に移動した。部屋の隅には馴染みの山羊の紙屋から仕入れた紙が山積みになっており、天井に張り渡された紐には写し終わった紙がずらりとインクを乾かすためにハサミで止められている。インクの臭いには気づかないほどにもう慣れた。
セルバは作業机に抱えていた本を置くと、そこに開いていた先程まで写していた本の進み具合を確認する。丁度そのページを複写し終えて切りがいい、ここでいったん作業を止めても問題ないだろう。栞を挟むと本を閉じ、その上に複写した紙をのせて棚に戻す。その横、壁に掛けた黒板をじっと見やる。
そこには今受けている仕事の作業予定がまとめられていた。
こういう飛び込みの特急依頼や、ないとは言い切れない(言い切るのも問題である)ミスの為に、納期には余裕を持たせている。
それでもラギの依頼は結構な分量があった。
「しばらく長い夜になりそうだ」
ラギとはウォルトと旅を始める前からの付き合いだが、その頃にはわざわざ特急で依頼してくることはなかった。写本の待ち時間もこの本の街ならラギにとって苦にはなるまい。
それが何故特急で依頼してくるようになったのかと言えば、あのウォルトの探し物の旅に付き合うためだという。前に依頼に来た時になぜ急ぐのかと聞いたらそんな答えが返ってきたのだ。
あそこまであの高名な魔術師ラギが入れ込む少年。
――彼が何者なのか。何故入れ込むのか。
何を探しているのか。
それを教えてもらうための布石になるのならこれくらい安いものだ。
知らないことを知りたい。
セルバもまた本の街セディルフェの住人なのだった。
そのためにもまずは堅実な仕事を。
セルバはウォルトにより持ち込まれた本に視線をやる。
「…専門が変わったのも彼の影響なんだろうか」
ラギはもともと思考操作を基盤とする魔術が専門だったのだが、最近持ち込まれる本は違う。
多いのは魔法陣の構築理論に――生命操作。
変えたのかそれとも手を広げただけか。
「守秘義務がなければ言って回りたいところだ」