11章-2 額中の海
マイクがお見舞いに行かなければならない事情はウォルトも聞きかじって知っている。
ジロンドまで最短経路での扉案内を依頼されていたマイクは、その仕事を終えて昨日の朝にフィズマールまで戻ってくる予定だった。しかし実際に戻ってきたのは夜になってからだったのである。その原因というのが、ジロンドから戻る途中で依頼主が体調を崩した為だった。高熱を出してまともに歩けなくなったらしい。
経路は不慮の事故を避けるため街の中が多く悪路はなかったものの、極端に暑い気候と寒い気候の両方を連続で通過する経路だった。それで体調を崩したのだろうと病院で言われたらしい。
そういう経路であること、そういう危険性があることは予め依頼主に説明して了承済みだったこともあり、ワイリー扉案内所に過失はないと依頼主からも言質をもらってはいる。けれどもそこはお見舞いの一つでもしなければ薄情というものだ。ワイリー扉案内所の評判も落ちる。
途中で見舞いの花束を買って、ウォルトとマイクは病院に向かった。
外に出て歩けばそれだけで気分転換にはなるものだ。フィズマールは何度か訪れたことのある街なので見覚えのある街並みに新鮮味はないが、活気のあるフィズマールの大通りは道の両側に商店が並び、それを眺めるだけで意識が暇から逸れる。
マイクとの道中は気づまりを感じることはなかった。ウォルトがあまり話さない方だと分かっているためだろう、軽く当たり障りのない会話を交わしただけで、マイクはあまり話しかけることはしなかった。ただ陽気なだけでなく空気を読むこともできるらしい。有能だ。
街の中心部から少し離れたところに立つ大きな建物の前でマイクは立ち止まった。灰色で飾り気のない箱型の建物がどんと鎮座している。
「ここ?」
思わずウォルトは訊ねた。
医療都市でもない街にこんな立派な病院があるとは思わなかったのだ。街の規模からしても不釣り合いに大きいのではないか。
「そうさ。フィズマールの病院に来るのははじめてかい?」
ウォルトは頷く。
「そりゃいい、病院に用がないのはいいことだ。お見舞いだって行く機会がないに限る」
「大きな病院だ」
「フィズマールは中継都市だからね、これからお見舞いにいくお客さんのように移動で体調を崩すひとがいるから、大きな病院があるとありがたいのさ。それにお隣さんの街も多いから、足を延ばしてここまで診てもらいに来るひともいる。そういった面での便利さもフィズマールが広く名の知られている所以さ」
なるほどとウォルトは納得した。
ウォルトとマイクは病棟に入る。
知識として病院は知っていても、今思い出せる記憶の中で病院に足を踏み入れたことはない。
壁、床、天井。長椅子まで白や淡い色を基調とした内装は成程、確かに清潔感がある。けれど病的――病院だけにか――なまでの清潔感に感じられた。あるいは健康体でなく自分も病的であればそれに溶け込んで、こんな場違いな居心地の悪さも気にならなくなるのだろうか。
入ってすぐの受付前に並べられた長椅子には患者と付き添いでそれなりに埋まっていた。病院で入りがいいのをいいことだと捉えるのは微妙だが、評判のいい病院ではあるようだ。
マイクは右に伸びる廊下を示すと、
「そこから渡り廊下に出られる。庭には渡り廊下から出られるから、そこでしばらく待っててくれよ」
「分かった」
ウォルトは言われたとおりに渡り廊下から庭に出た。
二つの病棟に挟まれた空間。芝生が敷き詰められて木が木陰をつくる。正直庭というほどのものではない広場だけれど、白ばかりの空間から色彩のある空間に出られて少しほっとする。ベンチが病棟と平行に等間隔に並べられ、恰好から入院患者だと思われる者達がそこに座って休んでいた。
ウォルトは空いているベンチを見つけるとそこに深く腰掛ける。背凭れに背を預け、病棟の上の暮れかけの空を眺めた。暮れかけといってもまだ空は十分に明るい。うっすらと黄金色に染まった雲が箒で掃いたようにたなびく。風は穏やかで心地良い。
暇ではあるけれど、暇でもいいかと思えるような暇な時間。
そこに。
「ねぇ、あなたも暇なの?」
視界に覆い被さるように人間の少女の顔がにょきりと入ってきた。
「わっ!」
ウォルトは驚いて思わず声を上げる。反射的に体に力が入って上体を起こそうとしたが、それではこの少女の頭とぶつかりそうだと気づいてなんとか止めた。
少女の髪の一房が垂れてウォルトの頬にかかり、先程とは違った種類でどきりとする。さらさらとした髪は肌触りの良いくすぐったさよりもそれが触れていることが落ち着かなくてむずむずする。
ようやく――といっても実際には大した時間覗き込まれていたわけでもなかったろう――ベンチの背の向こう側から覗き込んできたその顔が引っ込んだ。
ウォルトはすぐに上体を起こして後ろを振り向く。
年齢はウォルトと同じくらいだろう。まっすぐでさらりとした長い黒髪。くるりとした大きな黒い眼。それとは対照的な白い肌に白い寝間着。あまり辛そうにも見えないが、ここの入院患者なのだろう。人形のように可愛らしい少女だ。
「暇なんでしょ、話し相手になってよ」
なってよというか、既になってくれたと喜んでいるように微笑んで彼女は言った。
――きっと彼女が無表情に頼んで来たら、つきあう義理はない、無言で断ってすぐに場所を移しただろう。
どうやら自分は笑顔に弱いらしい。自分が口下手だとは重々承知しているのだけれど。




