10章-5 秘密の花園に咲く
今朝は珍しく雪が積もった。レイギスが朝起きて窓から外を眺めてみれば一面の銀世界だ。この館の冬はそこまで厳しくないので大して雪は降らないし、積もらない年もある。だから雪が降ると少し気分が高揚する。
子供じみていると言われれば否定したい。何歳になってもいつもと違うというのはそれだけでそんな気分になるものなのだ。
けれど寝間着のまま庭に出るなどという子供じみたことはしない。ちゃんと急いで仕事の身支度を整えてから、レイギスは朝食も取らずに表の庭に出た。
――真っ白な雪に覆われた赤い薔薇の庭。
「これだ―――……」
立ち尽くして感嘆の吐息を漏らす。自然と頬が吊り上る。
冬の庭に咲き誇る薔薇は三年目にして納得のいく花をつけるようになった。冬に薔薇を咲かそうと誘ってくれた彼女の手と手法と技術を借りても、最初の年は生育が不十分だったり腐ったり枯れてしまったり、あるいは奇形になったりと、なかなか上手くいかなかったものだ。
――冬に薔薇を咲かせる。
それは薔薇を強制的に成長させるという技術――魔術だった。
試行錯誤すること三年で実用的な技術にまで仕上げた。その技術の改良は彼女の仕事で、それを試すのがレイギスの役目だった。魔術師らしい彼女は技術を完成させればそれで満足だったようで、一本の薔薇の苗を冬に美しく咲かせたらそこで別れを告げられた。
けれどレイギスの終わりはそこではない。
一本の薔薇ではなく庭を。
そこからさらに二年。彼女のもたらした技術を庭全体にまで広げ、ようやく納得のいく薔薇園を作り上げた。
そう結論を出して祝杯を一人挙げたのが昨日。できれば彼女と挙げたかったものだが、あれから一度も会っていないし、連絡の取り方も聞いていなかった。魔術師とは秘密主義だというから名残惜しいがそんなものなのだろう。
その薔薇が咲き誇る庭に――冬の象徴ともいえる雪が降っている。
レイギスは庭に足を踏み入れ歩き出した。上着を忘れたが、むしろこの寒さが冬だということを肌身に実感させるのでそのまま歩き続ける。
この庭には赤い品種を中心に植えてある。
赤と白の鮮烈な対比。その背景を支える豊かな緑。
祝杯を挙げるのはどうやら早かったらしい。
この光景こそが自分の生み出したかったものだと、レイギスは確信した。
真冬に咲く薔薇が今、盛りを迎えている。
これで――
と、足音が。
聞こえた気がした。館の――つまり扉がある方だ。
――まさか。
いや、ひょっとしたら彼女が来たのだろうか。
ありえるかもしれない。
雪が降るのが珍しい館で雪が積もったこの日に、この真冬の庭が最高の見頃を迎えたと、そうと知っていたかのようにやってくる。彼女ならそんなこともやってのけそうだった。
けれどもどうやら足音は複数だ。
一体何事だろうとレイギスは館に引き返す。
そして館の前には四人の見知らぬ訪問客がいた。皆呆気にとられたように庭に見入っている。
その反応も当然だろうと悦に入りかけるが、今はまず訪問客の素性を確かめなければ。この館に何の用なのだ。
「貴方達は―――――!!」
けれど誰何の声は途中で驚きに代わって飲み込まれた。
視線がひとりに釘付けになる。
白い毛並みの兎。
「もしかして貴方は、ラッドさんの――」
「私はキャシー。ラッドの姪よ」
そう言ってキャシーは微笑む。
いたのだ、ラッドに肉親が。
そう言われてすぐに浮かんだ感情と言えば戸惑いだった。昔ラッドが冗談めかして言った薔薇が家族だという言葉を額面通りに信じていたわけではないが、何しろラッドに身内はいないと思い込んでいたのだ。
けれどその戸惑いはすぐにこの幸運への感謝へと変わった。
――今は亡き主に見せたかった真冬の庭。
それを代わりに見せるひとが、見てくれるひとが現れたのだ。
――つくづく祝杯を挙げるのは早すぎた。
いや、また挙げればいい。
これで本当に――終わりにすることができる。
この秘密の花園を。
と、キャシーの横に立っていた狼が口を開いた。
キャシーの知り合いだろうかと思ったが、
「僭越ながら、私も名乗らせてもらいましょう。フィオルと申します。
ラドル商会の会長を務めさせてもらっています」
「――ラッドさんの商会の!」
そしてフィオルは深々と頭を下げる。
「レイギス殿、長年この館と庭を守っていただきありがとうございます。先代会長が亡くなられた折にはうちの部下が失礼を致しました。突然の訃報だった為引き継ぎが慌ただしく、この館のことは失念してしまったのです。キャシーさんと話をしてこの館の事をようやく思い出しました。それで慌ててこうして伺った次第でございます。
何の報奨も支払わず、失礼ながら正直貴方はこの館から出て行っているだろうとさえ思っていました。それなのに貴方はこんな素晴らしい庭で私たちを出迎えてくれました。私の親友の遺産を守っていただき、何とお礼を申せばいいか――」
まさか今更こんな畏まって謝罪されるとは思っても見なかったので、ぽかんとして聞いていたレイギスは慌てて手をぶんぶんと横に振った。
「そんな! むしろ僕にこの庭を任せていただきありがとうございました。今では追い出されなくて感謝していますよ」
これは本心である。
そしてラッドの姪と現会長が連れ立ってきたことで思い当たった。
「もしかして僕にこの館から立ち退くよう勧告にいらしたんですか? こちらの方――正式な相続人が現れたから」
だとしたら本当にこの庭が間に合ってよかった。やり切れてよかった。
レイギスは落ち着いてその可能性を受け止める。
脳裏に今まで家族やラッドとこの庭で過ごした日々が蘇る。
ラッドが亡くなってから八年ほどだろうか。あの時よりも園芸の腕は上がったし、花を売って稼ぐ技術も身に着けた。
もうどこでだってやっていける。
「それは――」
フィオルが何か言うよりも先にキャシーが声を上げる方が早かった。
「そうそう、この館を私に譲ってくれるって話だったんだけど。まさかこんな立派なところだとは思っても見なかったわ。昔祖父と喧嘩して家を飛び出した伯父が商会の会長さんなんて聞いた時は、まぁ今まで連絡も寄越さず何してたのなんて呆気にとられたものだけど、こんな館と庭を持てるなんて大したものだわ。
あの伯父が最期に私達家族にいいものを遺しておいてくれたじゃないの。
けどこんな広くちゃ管理が大変ね。
しがない染物屋だから大したお給金は出せないけど、この庭の庭師を続けてくれないかしら? レイギスさん」
そうか、こう提案される可能性もあったわけか。
レイギスは逡巡する。
何しろ今までこの庭をいかに終わらせるかばかり考えていたのだ。
「――一つ、質問していいですか?」
「何かしら?」
「ラッドさんはこの庭に誰も連れてきませんでした。この庭はラッドさんの秘密の場所だったんです。
あなたはこの庭をどうするおつもりですか?」
秘密の花園の鍵を開けるのか――今まで通りに締めるのか。
キャシーは迷うことなくすぐに答えた。
「こんな素敵な庭を秘密にしておくなんて勿体ないわ。ラッド伯父さんも何考えてたんだか。男の独占欲って嫌ねぇ。貴方だって自分の作った庭を自慢したかったでしょうに」
ラッドの行いをあっさりばっさりと否定したキャシーに、レイギスは思わず吹き出していた。
吹き出して――吹っ切れた。
やり切ったつもりではあったが、吹っ切れてはいなかったらしい。
――今までこの庭を終わらせることばかり考えていた。
秘密の花園の鍵を開けたくなかったのは自分もだった。だから鍵が開くところを見たくなくて、その前に終わらせようとした。
冬に薔薇を咲かせようとしたのも有終の美を飾るため、思い残しをなくすため。そしてそれはやり切った。
――いいじゃないか。続けたって。
この冬の薔薇は終わりではなく区切りだ。
――変わることは悪いことじゃない。
新たな主は物静かな紳士だったラッドとは正反対の気質のようだ。
彼女のもとで働くのも、きっと悪くない。
「お友達どんどん呼んじゃうわよ。ああ、それにこんなきれいな薔薇が咲いているのに染め物に使わない手はないわ。品種もいろいろありそうね。あ、これが私の庭になるのなら、私の希望の花も植えてもらえるのかしら、あらまぁいいわね。こんな素敵な庭の花ですもの、きっと染め物も綺麗に染まるわ。レイギスさん、ねぇ是非庭師を続けて頂戴」
レイギスは満面の笑みを浮かべて答えた。
「喜んで」
――この庭が好きなのだ。
新たな主を得た秘密の花園はその鍵を開けた。




