10章-3 秘密の花園に咲く
「私のとこは家業が花染めでね、花がそのままが布に染み込んでるって評判なのよ。あ、私のこのスカーフがそうよ。これ何で染めたと思う?」
キャシーはそう言って首に巻いているスカーフをラギにつまんで見せた。
翌日、キャシーとフィオルはラギの案内で百薔薇館へと向かうことになった。キャシーはどうせ行くならと同行し、ラギに教えてもらった当初の予定の経路は次にまた行くときに使うことにしたらしい。扉案内屋が直接案内する経路は扉案内屋なしでは使えないことが多く、今回の経路もそうなのだろうからどのみち次回には使えない。
そしてウォルトも同行させてもらっている。百薔薇館も見てみたかったし、事務所で暇を持て余しているよりはこうして旅に出る方がよほどいい。フィオルの依頼はウォルトにとってもありがたかった。
その道中、扉まで歩きながらキャシーとフィオルはどういう知り合いなのかとラギが訊ね、そしてキャシーから返ってきたのがまずその話だった。
柔らかそうな素材のスカーフは、鮮やかで濃くはっきりとした赤に近いピンク。波打つようにグラデーションがかかり、まるで幾重にも花びらが重なっているようだ。ところどころアクセントに短い黄色いラインの束が入っているのが洒落ている。キャシーの白い毛並みによく映えていた。
「それが草木染め? 草木染めはもっと渋かったり淡い色のもんだと思ってたな」
ラギがそのストールに目をやって言った。
「そうでしょ? だからこそ私のとこの花染めは評判なのよ。この黄色い線だって後から手で書き加えたんじゃないわ。染めると出てくるの。何しろ花をそのまま染めてるんですからね。
草木染めって言えば染料は根っことか木の枝とか、そんなものから暖かくて渋みのある風合いが出てくるのがいいと言えばいいんでしょうけど、桜の小枝から桜色の染め物ができるっていうのもロマンチックだし、けどそれでもやっぱ草木ってのはあんな綺麗な色した花を咲かせるんだから、それを活かしてあげたいじゃない。だから私のとこは花染めなの」
相変わらずキャシーは長々と語っていたが、不思議とその染め物の話は耳にうるさくなかった。むしろ誇りと信念と、それを支える確かな技術を持って語られる話は聞き心地がいい。
濃いピンクの花びらに黄色い線の花――
「椿?」
ウォルトは呟いた。
それに気づいたのだろう、キャシーの長い耳がぴくりと動き、続いてウォルトの方を向いてにっこり笑った。
「当たり。椿は特に綺麗に花のまま染まってくれるから人気なのよ。やっぱり落ちたての椿の花を使うと違うわね。ほら、椿って花がまるっと落ちるでしょ、それをすぐに拾ってあげると花ももう少し頑張ってみようかなって思ってくれるのよ。花弁が一枚一枚落ちる花よりも潔く見えて実は未練があるのね。咲いてるところを摘んじゃう染料が多いし、盛りの美しさとか華やかさっていうのかしら、そういうのもあるんだけど、こういう散り際とか散った後っていうのも何とも言えない味わいがあるでしょ。あなたみたいな年の子には分からないかもしれないけど」
正直そういうものなのかといった漠然とした理解しかできなかったが、それでもウォルトにもそのストールの風合いがとても綺麗だということは感じられた。
――花の盛りを僅かに過ぎた大椿。
いつか見た記憶が――情景が。頭の中で蘇る。
その木に視線は惹きつけられた。その木に――その根元に。赤い影に。
重そうなほどに濃い緑の葉を茂らせたその大木の根元には、まるで赤い影のように無数の椿の花が隙間もなく広がっていた。
椿は開花の時期が長いという。幾つもの花が時期をずらして咲いては散っていく。既に地に落ちて長く変色して萎れた花も点々と目につく。けれどそれが影に時の流れという深みを加えていた。
確かひっそりとした山奥。その中の小さな屋敷の庭の隅だったか、庭から出た森の中だったか。ひと知れず花を咲かせて落とし、それでも自らの存在をその地に刻むように真っ赤な影を自らの根に落としていた。その一輪がまた落ちて、影を濃くする瞬間を見た。
あの木を見たのはいつどこでだったのだろう。
キャシーがあの椿を花染めの染料にすれば、きっともっと深みのある色になるに違いない。
扉繋ぎの代償となる記憶はまるで本一冊を丸ごと書棚から抜いたようになくなるため、頁の一部が破れていたり汚れていたりしておぼろげにしか思い出せないというのはウォルトには珍しい。
こんなふうに、自然に消えていく記憶ばかりならいいのに。――けれど、アドリヴェルテの森を見つけると決めたのは自分だから。
泣き言なんてもう口にしない。
「ハドリア森の山小屋の大椿」
その名を口にしたのはキャシーだった。
ウォルトははっとしてキャシーを見やる。
「一度その椿の花で染めてみたいわね。知ってる? 椿の大木で、花の時期にはその根元に花の海ができるのよ」
「――知ってる。見たことがある。その大椿」
ハドリア森の山小屋。
――ああ、そうだ。そうだった。
あの木は山小屋の傍に立っていた。
その名を切っ掛けに記憶が蘇る。破れた頁が戻され汚れが拭われる。
周囲に同じ椿の木はなく、花をつける木もない。ただ一本、緑と土色の世界で赤い花を咲かせていた。
扉繋ぎで無くした記憶でなくても忘れる記憶はある。
ラギがウォルトの無くした記憶を覚えていてくれるように、忘れた記憶はこうして誰かが補ってくれる。
扉繋ぎで無くした記憶はどうやったって思い出せるものではないようだけれど、記憶とはそういうものだと思ったら、気持ちが楽になった。
「あら、それは羨ましいわ。行き方は知らないから、またラギェンさんに道を教えてもらおうかしらね」
「それでその染め物を扱っているのがフィオルさんのところの商会という訳か」
ラギが言った。そういえばもともとはふたりがどういう知り合いかだという話だった。
「そういうこと。うちの染め方はね、秘伝の技というやつなのよ、ふふ。だから量産できるものでもなくて。あんまり手広くやるつもりはないし、受けるつもりはなかったんだけれどね――」
珍しくキャシーが言葉を止め、遠い眼をして視線を歩く先に投げた。
代わりにフィオルが言葉を引き継ぐ。
「それが縁というものです。
商売では何よりも重要で、これが最後に物を言うものなのですよ」




