間章-6 魔術師ラギの弟子
かちゃり、かちゃりとすぐ傍で物音がした。
それがきっかけとなり、ゆっくりと意識が浮上していく。
瞼を少しずつ開けると、横に誰かがいた。視線だけそちらに向けると、そこには――ああ、そうだ、アシェリーだ、アシェリーがサイドテーブルに食事を並べていた。どうやら自分はベッドに寝かされているらしい。
現状を認識するのにはさらに時間が必要だった。
彼女はアシェリーで、自分は――誰だったか。記憶の中からその答えを検索した結果、自分はウォルトであると結論付けた。
そしてそれによってウォルトとしての最後の記憶まで思い出した。
最適道程導出理論実装の施術中のあの出来事。
何がどうなったのだと体を起こそうとしたが、疲労なのか魔術の影響か、体が思うように動かない。
とにかくアシェリーは無事だったのだと心底安堵して、声をかけようとしたところでアシェリーがこちらに気づいた。
「お早うございます」
アシェリーのその言葉に含まれる気持ち悪いほどの違和感。
それを理解する前にさらに言葉は続く。
「朝食をお持ちしました。後ほど下げに参ります」
声が淡々としてあまりにも抑揚がない。
思わずまじまじと見つめた顔は仮面のようで、一切の表情がなかった。
用が済んだとばかりに部屋を去っていくその後ろ姿は規則的で機械的。
感情が――ない。
自意識がない。
こんなの――
起きたら元通りなどと都合のいいことは起きるわけがなかった。
「ごめん…ごめん……アシェリー…」
閉められたドアの向こうに掠れた声で謝罪を述べる。
こんな言葉でどうにもならないと分かっているのに、それでもただ謝るだけしかできない自分があまりにも愚かしい
助けたかったのに、助けられたはずなのに――もっと早く助けに入っていれば――助けられなかった。
いっそ自分の意識も戻らなければよかった。大体どうして戻ったのだ。あの実装で自意識が保てるはずがない。魔術に途中で割り込んだからか? アシェリーのように事前に記憶や思考を抑制されていなかったからか?
アシェリー、ラギェン――それに師匠。
誰一人助けられなかったのに、誰一人助けられなかった自分だけが助かった。誰一人救われない結果を引き起こした自分だけが救われた。
いっそ――終わらせようか。
何も助からなくていい。救われなくていい。残らなくていい。この館に火でもつけて全て灰にしてしまうのだ。先達の研究も全て! こんな研究――
そこに再びドアが開く音がした。
そちらに視線を向けると、
「ウォルト!」
入ってきたのは男――そうだ、ラギェンだ。
驚いたことに、ラギェンは心配と安どの入り混じった表情をしていた。
感情が、意志があるのだ!
ウォルトは体を起こそうとしたが、少ししかベッドから背中が離れない。
「はぁ、目を覚まさないかと思ったぜ。気分はどうだい? 無理はするなよ」
「少しだるいくらいだ。
それよりあんたは平気なのか!?」
感情が高ぶらせたからか、ウォルトは軽い頭痛に顔をしかめる。魔術の影響かもしれない。
「自分では異常ないと思ってるがな」
その一言にウォルトは泣きそうな程に安堵する。大して持ち上がっていなかった背を再びベッドに預ける。
せめてもの救いだった。救えたものがあった。――いや、もとから救われるようにできていたのか。
ラギェンはベッドの横に机から椅子をもってきて腰掛ける。
「変わったことと言えば――扉の知識と算術力がごっそり抜けたくらいだ」
その失われた知識は――
思い出すというよりも検索する。本の索引を引くように。
己の内にある膨大な量の扉の知識。
「悪い――俺が取った」
ラギェンは顔を曇らせる。取り繕おうと表情を動かしてはみたようだが、結局繕い切れてはいなかった。
諦めたように嘆息してラギェンは言う。
「俺の頭の中からだけじゃなく、この世から無くなったかもしれないとまで心配したんだ。
お前が持っててくれただけよかったんだろ。
それに先生から事前に代替わりは言われてたから覚悟はできてた。
――ウォルト」
ラギェンはウォルトを正面からまっすぐに、真摯に見つめた。
「アシェリーから何があったか話は聞いた」
それはさぞ客観的で何の感情も交えずに事実だけを述べられたことだろう。
「その上で呆れるかもしれないが言わせてもらう。
扉の道程の検索法は先生から渡されたもので、扉の情報自体も先代までのラギェンから引き継いだものが多い。
それでも一部の扉の知識は俺がラギェンの名を懸けて集め、補完したものだ。
咄嗟に継いでしまって扱い兼ねることもあるだろうが、それでもその知識を投げ捨てるようなことはしないでくれ。
純粋な情報に良いも悪いもない。たった一度の誤りで先達が築いてきた過去の全てが否定されていいわけがない。むしろ肯定するために続けてくれないか」
「――――――――」
ウォルトはまじまじとラギェンを見返す。
十七代目のラギェンは魔術と自意識の共生が基本理念に据えられていた。過去の経験から共生を目指した方が自意識の反発が少なく、結果的に魔術を展開しやすくなるからだ。
その共生という基本理念は、魔術を抜き取った後にまで行き届いていた。そしてその精神にまでこんなにも深く気高い影響を及ぼしているではないか。
初期の実装手段はひとの思考を利用する手法ではなかった。理論を練り上げることで式の簡略化を目指し、魔術規模の小型化を目的としていた。
けれど、小型化できる理論限界値が導出され、その値は実用化に耐えうるものではなかった。
そこで考え出されたのが、魔術をひとの思考の中で展開する手法を応用することだった。
ラギェンのような共生もできたのに。
なのにどうしてアシェリーは――師匠は。
いつの間にか視線が下がっていた。そこに不意にラギェンが言葉をかける。
「腹を見たか?」
「は?」
真面目な口調の割には間抜けなその問いに、ウォルトはつい顔を上げ間抜けに返していた。
「だから腹だよ」
「…誰の?」
「お前だ。俺のを見せてどうする。――もう何も描いてないってのに」
それで察した。肘をついて何とか腹を見える程度に上体を起こし、掛かっていたシーツを片手で払って何とか服を捲る。
息を飲む。
――魔法陣。
腹からおそらく肋骨の下まであるのだろう。濃い痣のようにくっきりと複雑な紋様を描く。
ラギが生み出し師匠が改良を重ね、ラギェンを経てアシェリーに移されるはずだった魔法陣。
それを自分は浅はかにも横から奪ってしまった。
その結果――未熟な自分ですら一目でわかる魔法陣のこの欠陥。紋様が足りないのだ。やはり正規の手順による移植ではなかった為だろう。
ウォルトは腕に力を込め、何度も手をつく位置を変えながら意地で上半身を起こす。
寝たままでいられるはずがない。いいはずがない。
――ここで終わらせていいはずがない。
双眸に強い意志が灯る。
「俺が引き継ぐ。
それでこの魔術をあんたが持っていた時みたいに共生できる形にする。もちろん理論も今の改良型でだ。元に戻せばいいってだけじゃ、何も変わらない」
妨害しようとした魔術の為に鋭意努力することを誓うことが、きっと彼女と――何より師匠への贖罪になるだろう。それにこれが自分にできる正しい償い方のはずだ。
「俺は誰も助けられなくて最低の結果を引き起こした。
だからこれくらい一生かけてやらないと、償いにならない」
けれど。
ラギェンは言った。
「お前は助けたよ。
お前があの時アシェリーを助けなければ存在しただろう、先生かお前による十九代目のラギェンとなった誰かを、お前は助けたんだ」
「!」
誰かは分からない。
けれど有り得た未来にいたであろう誰か。
その誰かを救えたのだと知って、ウォルトは救われた。




