間章-3 魔術師ラギの弟子
先に手を付けたのは導出理論。書斎や書庫の本を手助けにして三日で理解した。食事は気が向いたら食べるという用意するアシェリーにしてみれば迷惑な生活を続けていたが、ここは魔術師の屋敷だ、研究に没頭した時にはよくあることなので、不平不満も言わず用意してくれていた。たまに甘い物とお茶の差し入れまでしてくれる。
理論が理解できると次に実装手段に入った。
そこで――理解が追い付かず、何度も紙の上を意識が上滑りした。
「おい――どういうことだよ……」
自室で本と研究記録に自分の覚書を積み上げた机の前、ウォルトは譫言のように呟いた。
じわりと冷や汗が滲む。
落ち着こう。
根を詰め過ぎて冷静な考察ができなくなって、この記録を読み違えているのかもしれない。
時計を見れば昼を随分回っている。ウォルトは椅子から立ち上がり、よろよろと部屋を出た。空腹は感じていなかったが何か腹に入れておくべきだろう。せめて甘い物を少しつまむくらいはした方がいい。
この時間ならアシェリーが昼食を用意しておいてくれているはず。
静かな廊下を台所に向かって歩く。広さの割に住人が少ない屋敷だが、今日はやけに静かに感じられた。
重い足を引き摺る心地で台所につくと、どうしたことか今日は何も用意されていなかった。アシェリーもいない。
そういう日もあるのだろう、アシェリーは元から忘れっぽい。とはいえ、
「ついてない――」
ウォルトは料理が全くできない。アシェリーに任せきりだったのでやったことがない。
まぁ、もとから腹が減っていたわけではないので、戸棚から茶菓子でも探して夜まで繋ぐことにする。
見つけたクッキーとお湯を沸かしてお茶を淹れて、ウォルトはそれらの載ったお盆を手に自室に戻った。
椅子に座ってクッキーを齧りお茶で流し込んで、もう一度実装手段に目を通す。
書いてあることが変わるわけはなかった。
実装手段。導出理論を現実に使えるようにするための手段。
火を生み出す理論を実装してランプの形にするように、理論だけでは現実には役立たない。
最適道程導出理論の実装手段。その意味するところ。
その理論は演算魔術を複雑に組み合わせたもので、さらに扉に関する膨大な情報も必要になる。剥き出しの炎を素手では扱えないのと同様、この理論そのままではランプのように持ち運びができない融通の利かない代物だ。細かい条件を付けた最適解を出そうとすれば、魔法陣の大きさは一部屋を余裕で占拠する。扉に関する情報を魔法陣に読み込ませる形式に変換するのにも魔法陣がもう一部屋分、もしくはそれ以上の面積が必要となる。しかもそれを道程の導出ごとに条件部分を作成し直さなければならないのだから、安易に使えるものではない。
けれど――ラギェン。
彼は師匠のこの理論を用いて道程を出していた。
ものの数秒で解を導き出していた。しかも魔法陣もなしに空でだ!
算術能力が高いという次元ではない。
その真相がこの研究記録には記されていた。
そこにはひとの思考を魔術で強制的に算術特化させ、記憶容量、記憶検索機能も強化する手段が書かれていたのだ。あの理論をひとの思考の中だけで実現させようという大胆な発想。
ラギェンはその被術者だった!
接していても普通の人と変わらなかった。突拍子もない言動もなければ、会話も至って普通だ。旅の合間に仕入れた雑学が豊富でよくそれを聞かせてもらった。その点で言えば記憶力は強化されていたのだろう。アシェリーの方が物忘れが酷いせいで突拍子もないことを言い出すほどだ。
思考と記憶の構成を強制的に書き換える魔術。
けれど被術者に影響が出るほどの魔術ではない――
そう自分に言い聞かせようとしたのは、自らの精神の安定の為か、師匠の行為を正当化する為か――それとも魔術師である自分は本気でそれで問題ないと捉えているのか。
ならば被術者に影響が出るのであればどうする?
――ラギェンは魔術師ラギの被術者の総称。
今のラギェンは十七代目。
師匠からもらった研究記録は、古い記録になると抜粋で結果が伴ったものを中心にまとめられているので手元の情報からでは確実な判断できないが――過去のラギェンはどうなった?
ラギェンはその精神に埋め込まれた魔法陣を取り出して、改良を加えて入れ替えることで代替わりする。
思考の一翼を担っていたその魔術が失われれば精神は平衡を保てるのか?
研究記録を乱雑に捲る。代替わりの要領にあった記述――被術者が精神に異常を来たしている場合、魔法陣を壊さずに取り戻すことは困難である。異常の程度に損壊度は比例する。異常が見られた場合、初期段階で取り出すこと。
これは経験から得た教訓ではないのか?
十七代目にとって代わる次代のラギェンの研究構想の記述を取り出す。
――何度読み返したところで――倫理に――悖る。
旅から戻ってきたラギェンのあの様子。あれは今思えば師匠から魔術を移植すると言われたからだったのだろう。師匠は改良の目途が立ったから上機嫌だったのだ。
最新の研究記録、ちょうど今回の旅に出る直前に記されたものには、魔術の改良の決定案が記されていた。
「ラギェン――」
そこまで理解してまず思い浮かんだことは、友を助けなければという思いだった。
そして次に浮かんだのはラギの弟子である魔術師の自分がという葛藤。
動けなくなる。
けれど。動かなければ。
知識を。情報を。
知ればきっと、動く道筋が見える。知識はそのための光。
ラギェンに会いに行くのだ。
直接本人から話を聞く。そうすればきっと渡された情報からでは見えてこなかったこの研究の側面が見えるはずだ。
ウォルトはふらふらと再び部屋を出た。
二つ隣のラギェンの部屋にはそんな足取りでもすぐについた。
ドアを二度ノックする。
「ラギェン!」
――反応がない。
まだ塞ぎ込んでいるのだろうか。思えば旅から帰ってきた時からラギェンとは顔を合わせていない。そんな薄情な自分に気づいて内心で唾を吐く。
「ラギェン、いないのか!?」
まだドアをノックする。今度は何度も連続して。
けれど何も返ってこない。
把手を回すと鍵はかかっていなかった。そのままドアを開ける。
「入るからな!」
しかし――部屋には誰もいなかった。
シーツは寝乱れたままで、口を開けた旅荷物も床に投げ出されたまま。
それなのにひとがいた気配もない冷え冷えとした部屋に、ウォルトは鳥肌が立った。
意識して呼吸を深く吐いて気を落ち着ける努力をする。
――まだだ。まだ大丈夫だ。
次のラギェンがいないのだから、まだ大丈夫だ。
固定先――この場合はラギェン――から魔術を長時間取り出すことは魔術の破綻につながる。
次のラギェンがいないままに魔術を取り出すはずはない。
それでもウォルトは部屋を出て走り出していた。




