間章-1 魔術師ラギの弟子
扉を繋ぐ理論。発生させる可能性。世界を構成する要素。結び付ける何かの意思。世界の衝突。
魔術書と格闘して悪戦苦闘していた結果、気づけば部屋はすっかり薄暗くなっていた。予め持参して机の上に置いておいた魔術式のランプの魔法陣に触れ、部屋に明かりを灯す。安価なアルコールランプでないのは、貴重な魔術書で埋もれるこの部屋に火気は一切近づけないという師匠の厳命による。
魔術書の文字ははっきりと浮かび上がったが、それだけでこじれて停滞していた思考がはっきり明快になるわけはなかった。
それでも悪足掻きで何度も魔術書を読み返してから、
「――アドリヴェルテの魔術書はこれでもまだ早いのか」
悔しげにウォルトは呟くと、諦めて椅子から立ち上がって腰を伸ばした。今日はこのくらいにしておくか。
さして広くもない書斎。四方の壁は窓とドアを除いて本棚が作りつけられ、天井の高さまでぎっしりと本が収められている。そこから溢れた本は床にいくつも山となって積み上げられていた。その隙間に魔術の測定器具や実験器具が収められた収納箱。足の踏み場こそ本を倒したり踏んだりして傷つけないようにという配慮から確保されてはいるが、どうにも雑然とした部屋だ。
ここがウォルトの師匠であり大魔術師ラギの智の拠点。
師匠が出かけている間にこうしてこっそりと忍び込んでは、まだ理解できないのにその蔵書を開いて魔術の真理と深淵を覗こうとする。
「アドリヴェルテ以外なら大体ものにできたと思うんだがなぁ」
師匠に聞かれたら鼻で笑い飛ばされそうな科白を口にする。
だからそろそろこの書斎も自分に開放してほしいものだ。
師匠の蔵書はこの部屋だけでなくもう一室の書庫にもあり、そこには魔術書としての難易度も価値もこの部屋の蔵書よりは劣るものが保管されていた。そこにはウォルトが弟子入りした当初から出入りを許可されている。もう二十歳も目前というのに、師匠はいまだに自分を弟子入りした頃の少年のままだと思っているのではないかと勘繰りたくなる。
ウォルトは読んでいた魔術書を閉じて元の本棚に戻すと、走り書きの紙束を脇に挟んでペンとランプを手に取り、本の山の間をすり抜けドアに向かう。その足運びはもう既に慣れたものだった。
最後に部屋を出る前に振り向いて、念の為に自分がいた痕跡がないかを確認。よし、何もない。とはいえ、師匠は気づいていて何も言わないだけではないかという気がしないでもない。下手を打ちかねないので聞けないが。
ウォルトはポケットから取り出した鍵でドアを閉めると短い廊下を進む。その途中に飾られた抽象画の裏にその鍵を隠してから自室に戻った。
ウォルトにあてがわれた小さな一室。ベッドと机、あとは衣装箱だけで一杯の部屋だ。日当たりの悪い部屋は書庫や書斎、研究室など書籍を保管する部屋として使われているため、日当たりだけは良い。弟子という立場なので衣類や筆記具を除けばこれといった私物もなく――記念日の折にアシェリーがプレゼントしてくれるものはその衣類や筆記具が多い――、この部屋なら明かりがなくても十分手さぐりなしで夜を過ごせると思っている。それほどまでに物がない。この師匠の屋敷に籠って勉強ばかりで物を手に入れる機会もない。たまに生活用品の買い出しに出かけるくらいだが、それでも特に不満はなかった。欲しいと思うものは魔術の知識で、それは既にこの屋敷にあるのだから、他に何を欲しがるというのだろう。
机の上に筆記具とランプを置くと、ウォルトはすぐに部屋を出た。
気晴らししよう。
詰め込むばかりでなく、頭に整理する時間を与えるのも大切なのだ。
向かうのは台所。
顔を出すとアシェリーが夕飯の支度をしているところだった。アシェリーはウォルトと同じくらいの歳の若い人間の娘だ。師匠の旅先で頼み込んで弟子にしてもらったウォルトが屋敷に来た時には、既にアシェリーはひとりで屋敷の家事を一手に引き受け留守を預かっていた。その割には抜けたところが多いほんわかとした性格で、ドジは日常、よくこれで留守番が務まっていたと思う。昔師匠に拾われたと言っていたので、その恩に報いるために彼女なりに頑張ってはいるのだろう。
「ごめんなさい。夕飯の支度、今はじめたばかりなの」
野菜を切っていた手を止め、アシェリーは言った。
「お茶飲みたくなっただけだから気にするな」
「ならすぐに淹れるわ」
戸棚から茶葉の缶を取り出し、食器棚から出したポットとカップをテーブルに出す。ポットに茶葉を入れて薬缶からお湯を注ぐ。
椅子に座ったウォルトの前にそのポットとカップを回すと、
「あとは自分でお願いね。夕飯前だからお茶菓子はなしよ」
「わかった」
アシェリーはテーブルから離れ、炊事台に向きなおる。そして、はたと動きが止まった。
「――私、何を作ろうとしてどこまでやったんだったかしら」
まぁいつものことである。
十日前の印象的な出来事さえ、そんなことがあったことすら覚えていなかったりする。
最近は特に酷くなっている気がするが、気のせいだろうか。心配である。
炊事台に並べられた食材から今日の夕飯を推測したのだろう、アシェリーは一つ手を打つと今度こそ夕飯の支度を再開した。
ウォルトはその後ろ姿を眺めつつ、適当な時間を待ってカップに注いだ紅茶を口にする。
話しかけてまた忘れさせるのも何なので、紅茶を飲み終わったら書庫でまた魔法陣でも構築するか、数学論の方程式でも解こうかと考える。この前教わった師匠の研究の基礎から発展系を考えてみるのもいい。
ちょうどその時。
「ウォルト、アシェリー。帰ったぞ」
玄関の方から声が聞こえた。師匠達が帰ってきたのだ。
今回は四日の旅。いつもより随分短かった。その間にアドリヴェルテの魔術書を読破できなかったのが悔やまれる。今度こそと奮起していたのに残念だ。
「あら、ラギ先生とラギェンさんの夕飯が必要ね」
アシェリーが手を止めて新たなメニューを考え込む。
ウォルトはカップを戻すと残った紅茶もそのままに、走って師匠を出迎えた。
小さな玄関ホールに出ると、そこには旅荷物を足下に、気落ちした様子のラギェンと、対照的に顔を輝かせている師匠がいた。




