9章-5 青き古城の主
バルコニーに繋がる硝子張りのドアをウォルトは勢いよく開ける。
その男は門で見たときと同じ場所に同じ姿勢で変わらず佇んでいた。広いバルコニーの向こう、手摺に腕をのせて凭れ、ウォルトに背を向けている。
置物だろうかと訝ったところで男はゆっくりと振り向いて体の向きを変え、背中で手摺に凭れた。
男の風貌はどこか浮世離れして儚げで、それは月に照らされた故か、ベッドからそのまま出てきた真っ白い夜着のような恰好のせいか。同性のウォルトでさえ綺麗だと思う繊細な硝子細工のような容姿。歳はウォルトよりは年上だがラギよりは若いだろう。
男は薄らとした無機質な微笑をウォルトに向けた。
「僕はクリストファ。君は?」
ここまで濁りのない澄んだ響きの声をはじめて聞いた。
「ウォルト」
短く答える。そしてすぐさま問う。
「あんたは扉繋ぎができるのか?」
「できる」
その答えはウォルトが答えを受け入れる心の準備をする前に投げ込まれた。
「―――――――」
足から力が抜ける。ふらついてドアの横の壁に背中をぶつけ、そのままずるりとへたりこんだ。
気が抜けた。
何だろう。
張りつめていたものが切れた。そんな感じ。
そして安堵している自分に気づく。目頭が熱くなる。
自分ひとりではなかった。こんな重荷のような能力、使う度に泥沼に沈むような能力を持たされたのは自分だけではなかった!
「僕も僕以外の扉繋ぎの能力者に出会うのははじめてだ。
ねぇウォルト。君はあと何年生きられるんだい?」
「――――え?」
最初、その問いの意味が分からなかった。二度目で思い返してやはりその言葉通りの意味しかないと結論付けた。けれど何故この状況でその問いなのかは理解も推測もできなかった。
「そんなこと分からない」
そうとしか答えようがない。
するとクリストファは手摺から背を離し、未だに座り込んでいるウォルトの近くへと歩み寄ってきた。
形のいい眉を怪訝に顰めてウォルトを見下ろす。
「君は扉を繋いだことがある。そうだろう?
現に今も扉を繋いでこの城に来たはずだ」
「――そうだ」
「なら扉を繋ぐ代償として自分の寿命が削られていくはずだろう!? どれくらい残っているかも知覚できるはずだ! 僕ができるのだから!」
「!!」
同じ泥沼ではなかった。
ウォルトが泥沼だとすればクリストファは崖の上だ。徐々に崩れていく崖の上。
「代償は同じじゃないんだな。
俺のは――――。記憶だ」
それを聞くとクリストファは手で顔を覆った。肩を震わせている。
声もなく笑っているのだ。
愉快そうに。
「何がおかしい」
クリストファは手を口元まで下げて、にやりと、背筋が凍る笑みを浮かべて見せた。秀麗な顔が浮かべる硝子のような冷たく鋭利な笑み。
「今この手に有ったものを無くせばそれは確かに何かを無くしている。けれど今この手に無い物を無くすことは、何かを無くしたことになるのかな?」
「なる!」
大層な理屈や筋道だった論拠などない。屁理屈さえない。
ただ心が否定したがった。
「なるんだ!」
ウォルトはただ見苦しく頭を抱え足を投げ出して座り込んだまま、否定だけをぶつける。
クリストファはそれを上から明らかな余裕をもって見下ろしていた。憐れみさえ含む目で。
否定しなければ――否定しなければ!
過去を代償とするのと未来を代償とするのと。
認めたくない!
自分と同じ泥沼に嵌る者がいると知って正直安堵した。仲間だと――支えあえたり励ましあったりできるような清い仲間ではなく、泥の中をもがいているのは自分だけではないと、横でもがき苦しんでいる様を見て自分だけではないと慰めるための仲間だと。
だからクリストファのその言葉を否定しなければ、ウォルトはひとり泥沼でもがくどころかより深い水底へ、溺れて沈む。
「僕は僕の寿命を知っているけど、それは外部からの要因を除いた場合だ。
だから今この瞬間、僕は心底絶望した君に恨まれ首を絞められ死ぬかもしれない。だったら今までに払った扉を繋ぐ代償はないも同然じゃないのかい」
「――――――――」
違う!
代償であるからには必ず何かを差し出しているはずだ。
そんな逃げ道なんて認めてなるものか!
声を張り上げたいのに泥の中にいるみたいで、息さえ吐けず苦しくなる。
それなのに。
「この城は君にあげるよ。青い夜を見ていると気持ちが落ち着くだろう?
ここは僕がひとりになりたいときに来ていたんだけど、君の方が必要そうだからね」
そう言ってクリストファは軽い足取りでウォルトの横を通り過ぎる。ウォルトをひとり残して出て行こうとする。
屋敷内に繋がるドアが開く音がする。ウォルトは慌てて顔を上げる。
「それに君がいてくれたことへのお礼だ」
軽やかに透き通る声でクリストファはそう一言残した。
ドアが閉まる音が耳に響く。
ウォルトは上げた頭をそのままさらに上げ、壁に頭をごつんとぶつけた。
青い光の湧き出す夜空が視界に映る。何も考えたくなくて、ただひたすらに湧いては消える光を視線で追い続けた。




