8章-1 砂漠を越えるもの
砂漠は今日もいい天気だ。明日もきっといい天気だ。暑すぎるくらいにいい天気だ。日向に出るとじりじり火傷しそうなほどにいい天気だ。
いい天気は絶好の絵描き日和。砂煙る情景もそれはそれで味があるが、それは偶にあるからこそという類のものだろう。やはり砂漠はこうして澄み渡り晴れ渡る空でなくては。
それでこそ筆も踊るというものだ、まだ筆は取っていないけれど。絵筆はまだ手に提げた道具箱の中だ。
ルジェールはちょうどここ砂漠の街イルハンについたところで、背中にはまだ旅荷物がある。今すぐにでも予てから決めている絵描き場所に行って画架を立てたいという逸る気持ちはあるが、着いたばかりだ、焦ることもない。
誰もが頷くほど有名ではないが、食うに困るほどの無名でもない。ルジェールはその程度の絵描きである。
――もっと自分の絵と名をこの世に!
などという大いなる野望もなければ、
――自らの内から迸る創造の奔流をこの世に!
などという芸術への偏執もない。
のんびり気ままに、描きたいときに描きたい絵を描く。それがルジェールの生き方であり、それで贅沢はできなくとも細々とでも暮らしていけるのだから、彼は芸術家としては成功していると言えた。
ルジェールは砂でできた建物の影を縫って街の露店通りを機嫌よく歩く。イルハンは砂だらけで名所もなく交通の要所からも外れる。オアシスもなく水は井戸だけが頼り。同じ砂漠の街でも大きなバザールを持つサハリンドのような豊かな賑やかさも活気もなければ、コルイドのような荒々しい砂の川も流れていない。 何の変哲もない砂漠の街。けれどだからこそ、そこには砂漠に暮らすひとびとの飾り気のない日々の営みがあった。
それもまた絵になるのだ。
ルジェール。彼は砂漠に魅せられた風景画家。その題材は果て無く砂丘が続く光景だけでなく砂漠にある街や村の中にも及ぶ。
扉を抜けて砂漠から砂漠へ、いくつもの砂漠を訪れて絵にしてきた。イルハンに来たのもこれがはじめてではない。ルジェールは歩きながら真っ青な空を見上げる。久々に見上げるイルハンの空。乾いた空気。風に混ざる砂。一口に砂漠と言っても場所が違えば違う砂漠だ。空も空気も風も、砂だって違う。
けれど――このイルハンの砂漠は、空は。
――絵を描いてみれば分かるだろうか。
絵筆はまだ道具箱の中。足が向かう先は馴染みの宿屋で駆け足でもない。それでもその心は既にこれから描く絵の中にあった。
露天商が並ぶ通りを歩いてほどなく目的の宿屋に到着する。案内板を目印に通りに面した門をくぐると、その向こうには大きな館があった。屋根だけは青いタイルで装飾されて立派だが、木の柱や砂煉瓦の壁は大した彫刻もなく質素、いかにもこの街らしい。これでも昔は資産家の家だったらしいが、いろいろあって資産家家族は別に引っ越し、今はこうして部屋数があるのを利用してこの街唯一の宿屋として使われている。
宿屋は扉の近くにあることが多く、ここもそうなので扉を抜けてから大して歩いてもいない。おかげで久々だったが看板を頼りにさほど労せずに見つけることができた。
開けたままのドアから中に入ると、受付に腰掛けていた短毛の犬が顔を上げる。この宿屋の主である。
「こんにちは。お泊りかい?」
何泊の予定で――と定型句が続いたところで、宿屋の主は驚きそして笑み崩れた。立ち上がってカウンターの外に出てルジェールを出迎える。尻尾が抜けそうなほどに振られていた。
「ルジェール先生じゃないですか、お久しぶりです。またイルハンに来ていただけて光栄ですよ」
ルジェールもにっこりと笑った。
「こちらこそ覚えていてくれて嬉しいな。前に来たのはもう何年も前だから」
「えぇ、えぇ、もちろん覚えていますよ。この街を先生に描いてもらえるなんて街の住民として誇らしいことです」
「いやいや。それは大げさに過ぎるよ。ボクは無名のしがない絵描きさ」
「それこそ謙遜に過ぎます。先生の描く砂漠の風景画は、その手の蒐集家には高く評価されているじゃありませんか。
――今回もまたこの街の絵を描きにいらしてくださったんですよね。こんな何もない街ですから部屋はいつでも空いています。絵を描き終わるまで、どうぞごゆっくり滞在ください」
「ありがとう。
ところで前に教えてくれたあの場所はまだ行ける? 出入り禁止とかなっていない?」
宿屋の主はすぐにはその場所とやらが思い当たらないようで怪訝な顔をした。
前に泊まった時に、宿屋の食堂で朝食を食べている時だったかに世間話として教えてもらったのだ。その時はもう絵もほとんど描き終わっていたので、結局その場所には行くだけ行って絵は描かなかった。一つの街で続けて絵を描くことはしないのだ。
宿屋の主はルジェールがさらに言葉を補足する前に思い当たってくれた。
「出入り禁止、となると、ああ、あの場所ですね。はい、出入り禁止の話は聞いたことがないです。けれどもともと街の住民はあまり近寄りたがらない場所ですから……」
もどかしそうに心配する宿屋の主に、ルジェールは陽気に――あるいは呑気に返す。
「大丈夫、十分気を付ける」
――遠くに行きすぎないように。




