5章-1 緑の井戸
「誰も住んでいなそうな森だって?
ああ、あそこのことかい」
酒場の店主はまるで近所の見知ったコンフィチュール屋への道を聞かれたかのように答えたので、ウォルトはまた外れかと変わらない表情で内心溜息をついたのだった。
それほどあっさり答えられる場所ならもう見つけていてもいいと思う。
ウォルトは山羊の店主から視線を下ろし、目の前に出されたじゃがいものバターのせを切り崩す作業に意識を向けた。
一方カウンターに並んで隣に腰掛けるラギはと言えば、その答えに十分興味を引かれたようだった。
「この街にある扉はヴェスタ、ルグルー、バルクレギスタンに繋がる三つだと記憶しているが、それ以外にもあるのか?」
麦酒のマグを片手に期待の眼差しで店主に問いかける。
既にアドリヴェルテの森よりも自分の知らない扉に意識が向いている。
ウォルトはむしろその様子にほっとするのだった。
アドリヴェルテの森を探しているのはウォルトの方だ。ラギはそれに付き合ってくれているだけ。記憶のないウォルトにとってそれがどれほど有難いことか。
だからこうしてこの旅でラギにも得るものがあれば、ウォルトも自分の為だけにと気負わずに済む。
そんなことを言えば、高名な魔術師にして有名な扉案内屋、ラギにしてラギェンである彼は、魔術と扉の知識を集めるついでだと大したこともなさそうに言うのだった。
「あるぞ」
店主が事も無げに答える。
ラギ――ラギェンが知らない扉とは珍しい。久々ではないだろうか。
私有で秘匿されている扉の情報はなかなか表に出てこないものだが、その扉は特に秘匿もされていないようである。人びとの意識に登らない程の使い道のない扉らしい。
ラギは機嫌よく麦酒を飲み干すと、小気味よく音を立ててマグをカウンターに戻した。
「その場所を教えてくれ」
「いいが、本当に何もない場所だぞ? 使える資源もなけりゃ扉も行き止まり。お陰で公有にも私有にもならず放置されている始末さ。知ったところで役に立たんと思うがな」
「それでもいい。扉というだけで価値があるのさ」
「お前さん、扉案内屋かい」
マグを拭く手を止めて物珍しそうに店主は尋ねた。
「兼業でね」
「ならなおの事もっと有用な扉を覚えた方がいいだろうに。
――まぁ話の種にはなるだろう」
そう言いながら店主は肩を竦め、こぢんまりとした店内を見回した。兼業というよりは趣味の延長と思われたのかもしれない。
夕食時だというのに明るい店内。それもそのはず、外の日はまだ高いのだ。この街は真昼の街アドミラ、日が沈むことがないのである。こんな明るい店内で酒の賑わいをみせているというのもなかなか新鮮な光景だ。すでにもう出来上がっている客もちらほら。
店主はその中のひとりが目当てだったらしい。
「おいニック、そこまで飲んだくれてるからにはどうせ明日も暇なんだろう?
このお客を明日あのボロ家の扉に案内してやってくれ」
「ああ?」
ぐでんとした酔っぱらった挙動付きでその言葉に応じたのは、クリーム色の耳が垂れた犬だった。青年と呼べるほどの若さだろう。ちょうど仲間の犬たちと何やら盛り上がっているところだった。
「お前はよくあの森の方まで行ってたじゃないか。案内してやっちゃどうだ」
「働き先から帰省ってつまりは暇ってことだろ。休暇だ休暇、うらやましーなぁおい」
アルコール故か仲間の方は調子よく乗ってくる。ニックの方は仲間の言葉でようやく頼み事の内容を理解したようで、理解するなり驚きに目を瞠った。そして途端に酔いが醒めたらしく、ずれ落ちかけていた椅子に座りなおしてウォルトとラギの方を見やる。
「旅びとか? 旅びとがわざわざあの森まで観光に行くってかい?」
「そうだが」
ラギが答える。
するとぶんぶんと手を振るニック。
「やめときなやめときな。ああそうだ行くなら隣のルグルーがいい。運河の街ルグルー、観光名所じゃないか。すぐそこに良い場所があるってのに、わざわざあんな森に行って時間を費やすまでもないだろ」
「ルグルーから扉を抜けてきたところだ」
「なら思い出は綺麗なままで終わらせるのがいい、何事もそうなんだ。見てもがっかりする。残念だ。あんなところやめとけって」
「――――――――」
酔って思考が鈍っているのかそれとも素か。あからさまである。
どうにもニックは扉まで案内したくないらしい。
まぁ急に頼まれても相手も都合というものがあるだろう。
ラギはカウンターの正面に向き直って店主に声をかけた。
「どうやら彼は都合が悪いようだな。扉の場所だけ教えてくれないか」
「そうかい。なら――」
と、店主の言葉を遮るようにニックと一緒に飲んでいた仲間たちが声を上げて笑い出した。隣で飲んでいた犬がニックの背をばしばしと叩いて言う。
「こいつは何かあるとすぐあの扉まで行ってひとりになってクヨクヨしてんのさ。昔っからそう。
なのにそれが旅びとなんてきて観光名所みたいになったらたまんないもんなぁ」
また揶揄する笑い声が一段と上がる。
「どうせあんなとこお前以外に何度も行こうと思わないさ」
「そうそう一度は皆行くんだけどな、一度は」
「そう気になるから」
そこからその行ってもつまらない扉で話は勝手に盛り上がる。やたらと大したことないと言われているのでこれは逆に何かあると勘繰ったら本当に大したことなくて肩透かしを食らっただのちょっとは変わってるからおぉっと思うがそれで終わりだ何だのと、扉としては有用でなくともいい酒の肴にはなるようだ。
ニックは気まずそうに小さくなって頼りない顔で視線をそらしていたが、
「あーもう! 連れて行けばいいんだろ!」
盛り上がる仲間たちの声を遮って投げやりにそう叫ぶ。
ここでそれは悪いと断るのもそれこそニックに悪いのだろう。
そういう訳でウォルトとラギは、翌日ニックにボロ家の扉の向こうの大したことない森まで案内してもらうことになったのだった。