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扉繋ぎのウォルト  作者: 三原雪
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4章-3 夜明けの硝子谷

 その後さらに幾つか扉を抜けて、セントルシアまでは本当に半日で着いた。

「この先だ」

 そう言ったラギェンに促され、ジェリオンは最後の扉を開ける。

 期待に胸が高鳴る。

 そこには――

 唖然とした。

 曇りのない硝子谷があるはずのそこには何もなかったのだ。

 ただ、焦げたように黒い剥き出しの大地と、その上に広がる明けかけの空。紺から朱への鮮烈なグラデーション。棚引く雲が紫に染まる。

 今までに見たことのない――感じたことのないスケール。

 それは確かに圧巻ではあったが、けれどこのどこに谷があるというのか。少しごつごつとした平原ばかりが続いている。

 振り向けば、今出てきた何かの観測台のような古い建物。その背後に続くのはやはり大地と空だった。

 それ以外は全くもって何もない。

 観測台の前に立つラギェンとウォルト。

 本当にここなのか――と非難を織り交ぜた困惑でジェリオンが問う前に。

「少し歩いてみたらどうだ」

 ラギェンにそう促された。

 歩いてみたところで何なのだとは思ったが、ひょっとしたらここから見えないだけで崖がどこかにあるのかもしれないので従うことにする。

 ジェリオンはとりあえず正面にまっすぐに歩き出し――

 ごんっ

 何かにぶつかった。

 ぶつかったのは爪先だったので大きな石にでも引っかかったのだろうと視線を足下にやったが、そんな大きい石は見当たらない。

 怪訝に思いつつ、何もなさそうなので再度足を踏み出そうとして、ジェリオンは足下にやったままの視線でそれをしっかりと認めた。

 爪先がぶつかっているのだ。

 何もない中空に。

「………………………」

 その爪先を少し引いて、つん、とその〝何か〟に当ててみる。爪先をずらし、その周囲にも〝何か〟があることを確かめる。そして目の前に手を伸ばしてみると、また〝何か〟に当たった。

 何も見えない。ただ手を伸ばせば、その掌は何かに遮られ、すべすべとした感触が手に伝わる。

 そこには確かに存在するのだ――見えない〝何か〟が。

 見えない透明な、一片の曇りのもない硝子が。

 硝子谷が!

 今立っているのは谷底。手が届く限り、体をぐっと伸ばし、高い位置に触れる。確かにある硝子の肌。一体どれほどの高さがあるというのだろう。

 そしてジェリオンが今見ているこの朝焼けは、硝子谷を通して見ているのだ。

 見えているのに見えていない。

 それが透明というものだろう。

 まさに自分が見たいと願って待ち続けたものではないか。

「は――はは。ははは――」

 ジェリオンは笑えてきた。

 こんな谷を想像していたわけではなかった。

 きっと自分はあのレグールの曇った硝子谷がそのまま透明になったものを思い描いていたのだろう。このセントルシアの硝子谷には風化した為か鋭利な切断面はない。こんなすべすべとした岩肌でなくレグールのようなごつごつとした岩肌であったなら、光の散乱やら反射やらで輪郭くらいは視認できたに違いない。

 けれど――こんなものも――あるのだと。

 ――来てよかった。

 と、俄かに後ろで声が上がった。

 何やら盛り上がっているようなのでジェリオンは振り向いてみる。

 観測所から少し離れたその場所にふたりはいて、

「?」

 遠近感が狂う。

 ラギェンとウォルトの頭が同じ高さにある。ウォルトのほうが背が低いからウォルトが手前に立っているということになるのだが、それならウォルトはもう少し大きく見えなければいけない気がする。

「ジェリオン、こっちに来てみろ」

 ラギェンに呼ばれ、ジェリオンはふたりの方に寄っていき、そして先程の違和感の原因に気づいた。

 ウォルトが宙に浮いているのだ。

 いや、硝子の上に立っているだけなのだろう。

 自分もそこに立ってみたいと思いつつ正直まぁそれだけか――と思わなくはなかった。

 だがウォルトはさらにもう一歩足を上に踏み出したのだ。そしてしっかりと足場を確認するとその足に体重を乗せ換え一段上がる。またもう一段。一段、一段。

 ウォルトの体はどんどん空に上がっていく。

「どこまで続いてるんだろう――」

 ウォルトは空を――、いやそこにあるはずの硝子谷を見上げ、透明な声で呟く。

 そして靴を脱いで下に落とし、靴下も脱いで裸足になった。滑らかな硝子だ、その方が安全だろう。

「俺も行く!」

 危ないとか落ちたらどうするなど、このときは気にもかけなかった。

 ジェリオンは居ても立ってもいられなくなり、ウォルトに倣って靴を脱いで最初の一段に足をかけた。ひんやりとした滑らかな肌触りが高揚を煽る。次の一段に視線をやると、よく見ればうっすらと砂埃が溜まっている。ウォルトはこれを目印にしているのだろう。

 やれやれとばかりにラギェンが溜息をついた。

「気をつけろよ。足場が全く見えないんだ」

「わかってる」

 ウォルトは前を向いたままで短く了承する。その口振りにラギェンはついてこないのかと思ったら、彼も靴を脱ぎだした。ついてくるらしい。

 空の上を、上へ上へと登る。示し合わせたわけでもなく自然と言葉少なに黙々と階段を上っていく。

 左手を横に伸ばせば崖の感触があり、その崖に沿って階段は続く。ひとり通る分には狭くないがすれ違うのは厳しいほどの幅。硝子の上を足を滑らせないように、普段使わない足の筋肉まで使って慎重に進む。

 不意に先頭を歩くウォルトが小さく姿勢を崩した。左に体が傾ぐ。ジェリオンは冷やりとしたが、幸いにもウォルトはすぐに立て直した。深く安堵の溜息をつく。 そしてすぐに自分もウォルトが姿勢を崩した理由に気づいた。左手が崖に触れていた感触が無くなったのだ。

ウォルトはその場にしゃがみ込み、ぺたぺたと辺りを触って再び立ち上がった。視線の方位は元来た道、しかし角度は空の彼方。

「折り返してる」

 なるほど。だから折り返しに近づき壁がなくなったのか。

 ウォルトは慎重に階段を探って折り返し、今度は右手を崖について上りだした。ジェリオンもそれに続く。

 その後さらに二度折り返す。

 確固たる足場の硬い感触を不安を打ち消す拠り所として、落ちたらひとたまりもない高さまで登ってきた。

 ここまでくれば引き返そうという気持ちはもう消えた。いや、そんな気持ちははじめからない。

 登るのだ。

 最上段まで。

 こんな階段が自然にできるはずはない。

 誰かが削りだして作ったのだ。

 ――すでに登った誰かがいる。

 ならば自分たちが行けないはずはない。

 先頭を行くウォルトは後ろを行くこちらが引っ張られる程に、ただ上を目指し続ける。見えない階段の先頭を行くのだ、ただの階段とはわけが違う。一歩を踏み出す恐怖は後ろを行くジェリオンと段違いだろう。

 それでもウォルトは立ち止まりはしなかった。諦めはしなかった。あのよろめいた時でさえ弱音も前を替わってとも口にしなかった。

 そしてついに。

 先を行くウォルトが次の段を上がらずに平行に歩き続ける。

 着いたのだ。

 最上段、崖の上に。

 ジェリオンもその最後の一段に足をかける。さらに数歩、足場を確かめながら移動したところで、立ち止まって足下を見下ろした。

 自分の足の裏のはるか下に大地がある。観測台が小さい。

 空の上に立っている。

 太陽はいつの間にか地平線を超え、すっかり明るくなっていた。

 朝日に照らし出される世界。

 見下ろす世界はやはりまったく何もない世界だったけれど、それでも湧き上がってくる感慨。吊り上る頬。大地が太陽に照らされる、ただそれだけの光景がこうも溜息をつかせる。

 この視点に立った充足感はこの視点に立つ恐れを打ち消す。上がってきた疲労を心地良い達成感に変える。

 ジェリオンはその場に座り込んで、しばらくその世界を見下ろしていた。

 今、自分の視界には、足元には、一面に曇りのない硝子谷がある。


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