10 遂行
啓治は東京にある塚原久雄の家を数区間ほど離れたウィークリーマンションから監視していた。野田にもらった偽の履歴書がここで役に立ったのだ。一週間ほど監視を続けると塚原には一人娘がいることがわかった。彼女は近くの私立大学に通う女子大生であることもわかった。啓治は彼女を利用することにした。
街中で話しかけると意外と簡単に誘えた。彼女は背の高い啓治を同い年くらいに見たらしい。近くの喫茶店に入った。
彼女は名前を咲といった。啓治はわざと本名を名乗った。相手は何も反応を見せなかった。塚原は自分の娘に自分のしたことを言っていないのだろうか。いや、もしかすると、啓治の父を追い詰めたことは知らせていても息子である啓治の名、あるいは存在を知らないだけなのかもしれない。しばらく話したところで彼女は啓治に愚痴を漏らし始めた。啓治は我慢して聞いてあげることにした。なんとか彼女を伝いにして家まで行き、塚原久雄を抹殺しなければならない。もう、僕は引き返せないのだ、と啓治は思った。
「もう、うちのお父さん、いや、あのジジイはね――」
彼女は父が暴力を振るうことや愛人がいるらしく、母と仲たがいをしていることや、会社の経営が危ういことなどをはなした。啓治はあの男ならやりかねないと心底思った。あの男の娘に生まれた咲をかわいそうに思った。
それから、一週間ほど、喫茶店で話したり、買い物に付き合ったり、映画を見たりして、咲とはずいぶん親しくなった。次第に啓治は咲に好意をもって接するようになった。顔立ちはそれほど良いわけではないが、最近の女の子に見られる快活な性格に惹かれていた。それは、啓治がしばらくの間そのような振る舞いをせず、暗く、静かに、孤独ともに暮らしてきたからかもしれない。啓治は自分の持ちえない部分を咲という媒介を経て手に入れようとしたのかもしれない。そして、内心で塚原久雄を殺すことの意味の中に、彼女を自由にするというそれも見出していた。
咲と知り合ってから、初めて家に呼ばれた。まさかこのように事態が好転するとは啓治も思っても見なかった。距離を置き、警戒の目で見つめていた悪の城が目の前にある。啓治の胸は高鳴ってきた。門をくぐるとマンションからは見えなかった内装が視界に飛び込んできた。過去に想像していたように、家の中は塚原久雄の生み出した利益が存分につぎ込まれているようだった。家に入るためには洋風の庭をしばらく歩かなければならなかった。庭の端のほうで、庭師が植え込みの手入れをしているのが見え、反対側の隅では体のがっしりした黒く大きな犬を調教しているものも見えた。犬は五、六匹彼の周囲に腰を下ろしていた。
玄関で靴を脱ぎ、階段を上り、二階の大きな部屋に通された。部屋の両端には体の大きなボディガードらしき男たちが、西洋の騎士の鎧の置物のごとく佇み、部屋の中央には、ある男が立っていた。啓治の隣にいた咲は彼の元を離れ、中央の男のもとへ走って行き、男の影に隠れた。そう、塚原久雄の影から咲はこちらを睨んでいた。久雄は口を開いた。
「ようこそ、忌々しき男の息子君」
啓治は体の中から噴出す何か気持ちの悪いものを感じたが、なんとか自分の体のうちに抑えた。そして、久雄のことを観察した。べっとりと彼の頭から足の指先まで、恨みを塗りつぶすように観察した。少し毛の薄くなった頭に、目は大きく見開き、ひげを整え、若干黄ばんだ顔に中年太りし、全体的に寸胴な体つきで、指にはいくつか指輪をはめて、こちらを見つめ汚い微笑を見せていた。啓治は見ているのが億劫になり、顔を背けて言い放った。
「咲、どうして、そいつのほうに行くんだ」
咲が口を開きかけたが、久雄がそれを制し、説明しだした。
「すべて、こちらの作戦通りだ。君はここで死ぬのだよ。君が事件を起こしているのは警察から聞いている。ある一人の刑事から漏れた情報だそうだが。そして、君の行方がつかめないと聞いて、私は思ったのだよ、あの男の敵討ちに来るだろうとね。そこで、咲に君を家に連れてこさせようとして、一週間ほどデートさせてあげたわけだ。もしかして、自分の力だと思ったかね?咲ほどの子が君なんぞに振り向くと思ったか」
啓治の鼓動は自分が死ぬという話以上に咲に裏切られたことに早くなっていた。
「本当なのか?咲さん」
咲は久雄の影から言った。しかも、啓治が今までに見たことのない顔で言った。
「当たり前でしょ。あんたなんかと一日でも一緒にいるだけで勘弁して欲しいぐらいだったのに、一週間は正直つらかったわ。でも、一週間も嘘つきっぱなしだったのは初めてだから楽しかったかも」
啓治はこらえてもうひとつ、久雄に向けてたずねた。
「それに、どうしてお前なんかに警察が情報を流す?僕をおびき寄せて殺して何の意味がある?」
「会社の為だよ。そろそろ警察にもコネが欲しいと思ってね。この計画が成功して、お前の死体を警察に引き渡せば今後いろいろ役に立つんでね。ウチのような一流の会社は警察ともかかわりぐらいあるのだよ」
啓治は両手を前に突き出し、意識を集中させた。その瞬間両手から啓治の身長ほどの音のない光が瞬きだした。その大部屋にいた者たちは目を見開きその光に見入った。
「消えてくれ」
啓治が言い放った時、久雄と啓治以外の人間は部屋にはいなかった。その代わりに大量の灰が床を覆いつくしていた。啓治はしりもちをついて震えている久雄のほうへ歩み寄った。「それはなんなんだ?」
久雄は震える声で言った。
「よくも、父さんを殺したな」
啓治は久雄に雷を突きつけた。久雄は光を目の前にして、言った。
「なに?やつは自殺していないはずだ。部下に監視させているが、どこかの公園でホームレスをし……」
「だまれ!」
啓治は久雄を灰にした。
「わかったわ」
二人は喫茶店を後にした。