ジュウガツザクラ ~続・crack moon~
庭で遊ぶ娘は、三歳の誕生日を過ぎた。
柔らかな頬と細い髪を感じるたび、大きくなったと思う。
ひとりで子供を育てる負担や不安より、喜びのほうが遥かに大きく、私は充足した生活を送っていた。
昼間預かってもらう保育園にも機嫌良く通い、最近では私からの働きかけよりも、自分はこんなことが好きなのだと自己主張するようになった娘が愛しい。
最近、自分には父親が居ないのだと気がついたらしく、パパは居ないの、と聞かれた。
ええ、のんちゃんは、ママとお月様の子供なの。だから、パパはお月様。
納得はしなかったろうけれど、その後聞かれることはなくなった。
朝起きて娘を保育園に送った後、洗濯物を干して自分の仕事をする。
繰り返しの毎日は、穏やかに優しく過ぎていく。
涼太は、二十四になった筈だ。
仕事にも慣れ、忙しい毎日を送っているだろう。
今の恋人と、結婚の話がでても不思議じゃない年回りだ。
なんでだよ。
写真など一枚も持たず、メールも残さなかったのに、時々声や気配が蘇る。
娘の笑顔の中に、涼太の面影を見ることがある。
自分の選択を後悔したことは一度もなくとも、夜の庭のフェンスの向こう側に、記憶の影が通り過ぎることはある。
私にとって、最初で最後の激しい恋だったのかもしれない。
夜の早い時間に娘を寝かしつけ、しばらく仕事をした後に、庭に出る。
紅茶の銘柄は以前と変わらず、月を見上げる習慣も変わらない。
立ち木に隠され、切り取った空から届く光を見れば、将来への不安は現在を生きる糧に変わる。
静かな住宅街で、道を通る足音は滅多に聞こえない。
庭の十月桜は、今を盛りと咲き誇っている。
闇の中に、淡い靄のような桜が浮かんで見える。
この花が落ちたら、剪定を頼まなくては。
フェンスの向こうから、早足な足音が聞こえた。
何事かと顔を向けて、カップを落とした。
「……なんで、そこに居るの?」
記憶の声が、直に鼓膜に響いた。
フェンスをまわりこみ、走って庭に入ってくる人影が見えた。
「なんで、居るんだ」
声は、怒りを帯びて震えていた。
「私の家だもの。何故、来たの?」
記憶よりも厚くなった肩と、変わらないまっすぐな視線の涼太が、そこに立っていた。
「先週、友達の家に行く途中に、この道を迂回したんだ。庭に洗濯物が干してあった」
「生活していれば、洗濯物くらい干すわ」
少し落ち着いて、言葉を返した。
「表札を確認したんだ。前は男の人の名前だったのに、坂口柊子と、希望」
「きぼうではなく、のぞみと読むの。私の娘よ」
「結婚、したんじゃなかったのか。誰か大切にしたい人と生活するって」
ああ、そんな風に涼太を退けたのだ。
誰かと生活するという表現を、誤解させるために使った。
「間違ってないわ。娘と一緒に生活してるのよ」
涼太は、私の顔から視線を外さなかった。
「結婚は」
「してないわ」
「しゅーこさんが本当にここに住んでいるなら、必ず夜中に庭に出るはずだからと思って」
間違ってはいない。私は庭に居る。
「そう思ったら、たまらなかった。夜の庭にしゅーこさんが立ってるところを、夢に見た」
「三年以上、経っているのよ。忘れてしまえば良かったのよ。私はもう、四十を越したわ」
四十を越した。自分の大切なものを手にした。
これ以上、望むものはないのだ。
「しゅーこさん」
涼太の声は、幾分不安を纏っていた。
「子供、何歳?」
「三歳になったところ」
「誰の、子供?」
「私の子供よ。それ以上でもそれ以下でもなく、私の子」
「俺の?」
「いいえ、私の子供。涼太君には、何の関わりもないの」
話を続けそうな涼太を、庭から外に押し出した。
「子供の居る母親が、夜中に若い男を庭に入れているなんて、ご近所に知られたくないの」
「しゅーこさん」
「少し大人になったわね、涼太君。あの時、ちゃんとお別れの言葉が言えなかったのは、心残りだったわ」
「しゅーこさん」
有無を言わせず、フェンスの扉を閉じて、家の中に入った。
胸が痛いのは、私が涼太を忘れていなかったからか。
十月桜の花が、夜の風にはらはらと舞う。
あの花が散り終えれば、秋が深くなる。
冬の澄んだ空気の中、ひときわ冴える月を楽しみにしよう。
大人になった涼太が、また庭を訪れるかどうかは、考えても詮のない話だ。
「ママ、どこ?」
隣の布団に私が寝ていないことに気がついた娘が、居間に入ってくる。
「あらあら、起きちゃったの?ママも寝るから、もう一回一緒に寝ようね」
娘を抱いて、寝室に向かう。
希望は今、私の腕の中に居る。
fin.