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百年の眠り  作者: 水花
チカラノウタ
23/28

~十字路で~


 覚えていないはずの光景だ。記憶に残せないほど、あのとき自分は小さかった。それでも。

 その光景が、確かにあったはずだと、何の疑いもなく確信できた。

 彼女はいま、新しい命を、その腕に抱いている。


「もう産まれたかなあ・・・」

 最近シャールは何をしていても、ふとそんな事を呟いて、街の方・・・正確に言うなら、ヤツカの店の方角・・・を眺めてしまう。あまり何度も言うものだから、シャールの傍で何くれと働いてくれる双子の兄妹からは、いささか呆れられているようだ。

 今日も。彼ら・・・シャールと双子の兄妹は、湖を望む小高い丘を目指して歩いていた。その途中で街を振り返り、呟いたシャールに、妹の方が腰に手をあて笑った。

「まったく、お友達の子どもでそうなら、自分の子どもが生まれる時になれば、一体どんな様子になるんでしょうね」

 さあ、とシャールはそっと彼女から視線を逸らして言葉を濁す。

自分の子ども・・・に関しては、まるで想像も出来ない範疇の事だからして。まず産んでくれる“誰か”がいなければならない。そして、一度あの少女に言った事はあるけれど・・・少女自身が“産む”という選択肢は、彼女の頭に無かったようで。そのことを思うとまだ苦い味が口の中に広がる気がする。

「まだまだ先の事だし、想像も出来ないよ」

 大体、相手が居ないじゃないか。

そうですねと兄の方は答えたものの、きっと、と付け加えた。

「きっと、いざお産となればうろたえて、おろおろするんですよ。手を握ってやったり腰をさすってやったりとかしてても、痛がる様子に自分の方が青い顔するんですよ、きっと」

 絶対そうなりますよと兄の方は言う。妹は、それは兄さんの体験でしょ、義姉さん言ってたわよ~あのヒトったら、私より青い顔して、うろたえてたんですものって~あの人の方が倒れるんじゃないかって私の方が心配したくらいって。お前、何もばらさなくてもっ。

双子の兄妹は、賑やかに言い合いながら、どんどん先を歩いていく。夜色の髪、夜色の瞳を持つ彼らは、男女の双子であるのだが、とてもよく似ており、ふとした表情がそっくりで、何だか面白い。

けれど・・・うろたえて青い顔かあ・・それはあまり有り難くない予想だなあとシャールは苦笑いをして、もう一度街を振り返り、彼らの後をついていった。



 小高い丘に、風が湖を越えて吹いてくる。見下ろす湖面に太陽の光が反射して、きらきらと光っている。のどかで美しい様子に見えるが、ふと視線をこらせば、湖の縁やなだらかに広がる丘に、壊れた家の残骸が散らばっていた。人影は見えず、また家畜の姿も見えない。

多くの人の手助けで、この界が崩壊へと突き進むのは止められたけれど、課題はまだ沢山残っている。荒れた土地や壊れて人の住めなくなった家があちこちに残され、・・・そして、土地や家を捨てた人々は街へと流れ込んでいる。結果、街は人が溢れて、治安が急激に悪化していた。

 毒の水に汚染された土地も、雨で次第に清められ今では住むことが出来る。湖の水も飲める。

もう元の土地に戻っても、安心であると。

そう・・・街の有力者や、実際に行政を司る人たち、街へと逃げ込んだ人々に言っても、彼らは疑いの目を向けるばかりで、なかなか信じてはくれない。

 長く続いた酷い時代が、彼らの心を頑なにしているようだった。



「まあ、気長にやるしかないだろうねえ」

 いつだったか・・・あまりに変わらない状況に、思わず弱音を零したシャールに、まあちょっと座ってお茶でも飲んで、まわり見てごらんよとジルファはたまには息抜きも必要だよと、湖を望む小高い丘に彼を連れ出した。

 そんな事してる間はないよと言いかけるシャールに、ジルファはばさりと羽を広げる。はい一呼吸置いてと。

「荒んだ人の心や、荒れた土地を元に戻すのは骨が折れるよ。働きかけも大事だけど、時間も要る。皆が落ち着いて周りを見回すだけの時間がね。だから、まあこれ以上酷くしないようにって気持ちで、ぼちぼちやればいいさ」

長丁場と腰を据えて、息切れしないようにやっていけばいいのさ。

「・・・それで、いいのかな」

「いいんだよ。急ぎすぎても、その反動が出るだけさ。何、もう少し落ち着いたら、街中の暮らしより元の土地での暮らしを望む人も出てくるだろうし、街中の長老たちだって、人口過密な現状を憂えていることに間違いはないのだからね」

「・・・長老たち、僕の話をとても胡散臭げに聞いてるんだけど」

「そりゃあ、ぽっと現れた子どもが、“銀の君”の血筋だと言っても簡単には信じないだろう。たとえ、君の母上の名前を出したとしてもね。疑ってその上で慎重に行動する。それはもう習い性だろうねえ。何せあんな酷い時代をそれでも強かに生き延びたんだもの。でも、彼らも君の話を全部嘘だと思ってるんじゃないんだろう。君の傍に人をつけたくらいだからね」

 うん、そうだねとシャールも頷く。

何度目かに会った時・・・長老は、ほう、と空気が抜けるような笑い声をもらして、言ったのだ。

 


お前さんの母御の事は、わしらも知っておる。あれは酷いことじゃったな。なれど。

わしらは、お前さんの話を全て信じたわけではない。


そう・・・胸まで届く長い白い髭と、真っ白い髪の長老は言った。長老会が開かれる・・・それは、かつて王妃がこの界を支配していた時は、そこで決定されたことの何一つとして力を持たなかったのだけど・・・公会堂の一室で。居並ぶ長老たちの内、最も高齢であろうと思われる人物は、重々しく口を開いた。

しかし、その後で。がらりと口調を変えて、こうも言ったのだ。

 わしらは、お前さんの話を、全て信じたわけではないが、まあお前さんの話がまるきりの出鱈目だと決め付けるだけの、材料も持たんな。

垂れ下がる白い眉の間から、覗くちいさな目が、きらりと光った。髪も肌も白茶けたように色を失う中で、瞳の色だけが若々しく、とても明るかった。

何をするにしても、人手は入り用だろうて。この者らを遣わそう。お前さんのいいように遣うがいいさ。

 枯れ木のような骨と皮ばかりの腕が示した方向に、人影が現れる。

 現れた彼らは、まるで鏡を見ているようにそっくりだった。夜空を切り取ったような黒い髪に黒い目。違いは髪の長さと、胸の膨らみと・・・朱を刷いたように赤い唇など、性別で異なる部分。よく似た形の唇が、高低が違う音を発した。


 はじめまして、よろしくお願いします、と。


 居並ぶ長老たちの、重みさえ感じられるような視線。それに怯むことなくシャールは彼らを見、そして長老たちをぐるりと見回した。そして、静かに頭を下げる。

「ありがとうございます。彼らをお借りします」と。

長老は、ほ、と空気が抜けるような笑い声をたてた。まあお前さんの思うとおりにやってみるがいいよ。


「まあね、彼らが居てくれて、とても助かっているよ」

何せこの界で暮らしたことが殆どないシャールだ。まだこの社会の仕組みもよくわかっていない。大事な少女を危険な目に合わせないため、それだけを思って、この界へ戻ってきたから。

ひとまずこの界の危機は遠のき・・・これからこの界で生きていくんだと思ったとき、シャールは愕然とした。

自分はこの界の仕組みを何一つ知らない。

人の暮らしというものは、狭間の界の事くらいしか知らないし、ましてその間犬として過ごしている。

 この界で生きることを選び、傷ついたこの界の為に力になりたいと思っていても・・・何をどうすればいいのか、誰に働きかければいいのか、さっぱり見当もつかなかった。

今のところ、色んな相談をジルファに持ちかけてしまうのだけど、ジルファは本来金の界の者だ。その彼にずっと頼るわけにいかないし、また彼の力を借りると言うことは・・・彼を通じて金の君の力を借りることにもなり兼ねず、それは界の均衡を崩すことにもつながりかねない。

 また・・・これはスティールと離れて初めて知ったのだけど。シャールは他の人と上手く話をすることが出来ないで居た。それを彼、彼女に指摘されるまで、気付いてもいなかった。

 

銀の君の直接支配のみかと思われていた銀の界にも、いくつかの機構が存在した。

元は銀の君の統治を助けるためだったんだろうがな、とヤツカは少し遠い目をした。

ジルファ以外で銀の界の事をよく聞いたのは、幼い頃よくしてもらい、またこの界へ戻ってからも、何かと気遣ってくれたヤツカだった。君一人で界の隅々まで目を行き届かせる事は難しい。住民の様々な声を聞き、取りまとめ、君へと進言する。

また、日々の暮らしの中で起きる問題を調停し、時には裁きもする・・・そういう役目を担う人々が居たと。俺の親父がそうだったように、とヤツカは淡々と言った。シャールは何と答えていいかわからず目を伏せる。お前がそんな顔するこたないんだとヤツカはシャールの頭を乱暴にかき回す。何、親父は自分の仕事をしただけなんだ、それだけだったんだと。


王妃の支配の下では有名無実化していた長老会。長老から彼ら(彼らはやはり、双子の兄妹であるらしい)を借り受けた後、街の有力者に会いに行った時だった。土地も水も元通りだと何度言っても、またも信用されずけんもほろろに追い返された。邪険に追い払われ、閉じられた扉の前で立ち尽くすシャールに、双子の兄妹は呆れたように言ったものだ。

「あなた、今までずっと、こんな風にしてたんですか?」

「・・・こんな風って?」

「直球に莫迦正直に、もう安全ですよ信じて下さい、そればっかり言ってきたんですか?」

「・・・そうだけど、それが・・・?」

途端に彼ら兄妹は顔を見合わせて、信じられないと大きくため息をついた。そして、きょとんと首を傾げていたシャールが驚く勢いでまくしたてたのだ。まず一つ。奇妙に据わった目で彼は人差し指を立てた。

「あなたは交渉の基本がなってない。大丈夫です信じてください、そんな言葉だけで人が動くと思いますか?人を動かすには確かな証拠と、情報と、それ以上にその人が何を欲しがっているかを知ることが大事なんですよ」

 あなた、そんなことも知らずにいたでしょうと詰め寄られ、シャールはこくこくと頷いた。背後に扉があったため、それ以上下がれず扉に張り付いてしまう。

 考えた事もなかった。心をこめて本当の事を話せば、いつかわかってくれるとだけ思っていたから。

「たとえわかってくれたとしても~あなたの言葉を聞いてくれた人が居たとしても~その彼らが、あなたの望むように動くとは限らないでしょ~?」

 その二。指を二本立てて、彼女はシャールの顔を覗き込んだ。

シャールは彼らが何を言っているのかわからなかった。すると彼女は、たとえばね、と助け舟を出してくれた。

「例えば、もう土地は安全で、そこで暮らしていけるとわかっていても。街の暮らしに慣れた人は、もとの土地に帰らないかもしれない。そうすれば街は人で溢れたままで、治安も良くならないかもしれないわね~」

「だから。彼らが進んで帰りたくなるような話をするんです。例えば、街で暮らすよりも広い家に住めるとか、治安がいいとか。壊れた家を直すための補助を出すとか。暮らしが立ち行くまで税金を免除するとか。何か条件や確たる証拠、もしくは情報を出さなきゃ、人は動かないでしょうよ」

これが三つ目。三本の指を立て、彼は言う。嘘や、誇張をしてはならないけど、何故いかにしてそうするのか、またそうすることによって何を得られるのか。先の見通しがないままでは、人は動きませんよと彼は言った。

「・・・そんなこと、考えた事もなかったよ・・・」

 半ば茫然と呟くシャールに、彼らはまたも大きくため息をつく。言葉が頭の中に染みとおるとと共に、シャールは頭を抱えてしゃがみこんだ。一つ一つ言われると、いかに自分の行動が考えなしで子どもっぽいものであったか思い至り、とても恥ずかしくなった。

だから皆、呆れた顔をして笑っていたのかな。だから最後にはもういい加減帰れと怒って追い返したのかな。でも白い髭の長老は・・・笑っていたけど、とても優しい顔で笑ってくれたんだけど。

頭の中で色んな情景、色んな顔がぐるぐると巡り、ううと唸りながら頭を抱えこみ・・・次第に胸の奥に、重いものが溜まっていく気分になる。

僕は何をしていたんだろう。何一つ出来ないまま、時間だけが無駄に過ぎていたんじゃないだろうか。


双子の兄妹はよく似た顔を見合わせる。よくそんな調子で、今まで無事に過ごせていたものだと半ば呆れ半ば感心した。何しろこの少年、見目は大変よろしいので、悪心あるものに引っかかりでもしたら何処かへ売り飛ばされていたかもしれない。

また、よくそんな調子で、彼らの長老が話を聞く気になったものだとも思った。

 彼らの長老は、言葉だけで動かされるような、甘い人じゃないはずだけど。

 彼らの前で、銀の髪の少年は力なく項垂れている。さながら雨に打たれて途方にくれる犬のようだ。

 仕方ないな、仕方ないよねと彼らは目で会話して。

 

「まあ、あなたがどんな条件を出した所で、今のあなたでは空手形にしかならなかったでしょうけど」

「でも、長老たちも、今の人口過密状態と治安を何とかしたいとは思ってるんでしょう。だからあたしたちを遣いに出したのよ。猫の手よりはマシとか思ったんじゃない?もしくは、あまりに莫迦正直だから呆れて心を動かしたのかも」

「猫の手ねえ・・・でも、猫って言うより」

 彼らはマジマジとシャールの顔を見て、それから言った。

「犬ね」

「犬だな」

 納得して頷く仕草が、それこそ犬か猫の兄弟みたいにそっくりで、シャールは何だか笑えてしまった。怒りもせず、ただ笑うシャールを不思議なものでも見るような目で彼らは見、それから彼は言った。

「言いたい放題言いましたが。まだ私たちの手が要りますか?」

「もちろん。手を貸してくれる気があるなら」

「わかりました。あなたが望むなら、私たちは力を貸しましょう。交渉でも調査でも、何でもこなしますよ」

 あらためて、初めまして。そう彼らは、各々の手を胸の辺りに添え、優雅に礼をする。

「私の名はレンブラント。どうぞレンと呼んでください」

「あたしの名前はリンドグレーン。リン、って呼んでね」

ありがとう、頭を下げたシャールに、彼らは笑って答えた。

「何、あなたの傍にいると、面白いものが見られそうですしね」


 リンとレンの兄妹と初めて会った頃のことを思い出しながら・・・シャールは内緒だけどねとジルファに言った。

「なんだかね・・・年の近い友達ってこんな感じかなあって思ったりするんだ。ふざけた事言ったり、仕様も無い事したり。楽しいって思ってて、いいのかな?」

「もちろん、それでいいんだよ」

 いつになく優しい声に、シャールはとても安心したのだった。



 風が吹いている。湖面を渡る風はひんやりと冷たい。双子の兄弟の力を借りて、少しずつであるが街の有力者たちのとの交渉も進んでいる。焦らず気長に行きましょう。そして機会を捉えたらそれを逃さず一気に畳み込む。

 彼らから色んな事を教わるのは、ジルファから教えてもらうのとは違った意味で楽しかった。

「さ、そろそろ戻りましょうか・・・おや?」

 彼は額に手を翳し、空を見上げる。シャールもつられて同じ方向を見上げた。空は何処までも青く高く・・・雲ひとつ浮いていない。そこへぽつんと点が浮かんだかと思うと・・・見る間に近づいてきた。

 空の青より青い羽持つ鳥・・・ジルファだった。

 ジルファはシャールの頭上で優雅に旋回した後、ふわりと肩に舞い降りた。

「ジルファさん、何かあった?」

 彼も彼女も、ジルファの事をシャールの使い鳥と思っているようで、シャールが話しかけていても気にはしないようだった。それでもジルファは用心のため、と言って、他の人の前では喋らない。シャールにのみ聞こえる声で会話していた。

『君が今一番気にしている知らせを持ってきたよ』

 笑いを含んだ声に、シャールの顔がぱっと輝く。

「産まれたの?」

『ああ、ついさっきね。元気な女の子だったよ』

 ユキさんも勿論元気さ。

「そうか・・・よかった。ねえ、お祝い何がいいかな?いつ顔見に行こうかな」

 うきうきと矢継ぎ早に話すシャールに、青い鳥と彼は、苦笑気味に視線を交わしたのだった。



「おう、よく来たな。ま、上がれや」

 いつも入る店側とは反対側。通りの奥、住居側からシャールは扉を叩いた。しばらくしてヤツカが顔を覗かせ、にやりと笑う。扉をくぐり、ヤツカの後について歩きながら、シャールは祝いの言葉を口にした。

「おめでとう、女の子だってね」

「おうよ。ユキに似て、将来美人になるぜ」

 ヤツカの足取りも声も、羽が生えたように軽くて、嬉しそうだ。新しく生まれた命を・・・家族を、心から歓迎している様子に微笑ましくなり、シャールはこっそりと笑う。

そして、奥まった静かな部屋の前で立ち止まると、ヤツカはドアをそっと叩いた。

「シャールが来たぜ。今いいか?」

 どうぞ、とユキの声が聞こえて・・・シャールはヤツカに促され、扉をくぐった。


 柔らかそうな白い布を抱えたユキが居る。シャールがまず見たのはそれだった。

 

「いらっしゃい、よく来てくれたわね、ありがとう」

「ううん・・・おめでとう。女の子だってね」

「そうよ~。この人ったら、今から“何処にも嫁にやらん”なんて言っちゃって」

「娘はやらんぞ」

「これだもの~年頃になったら嫌われるわよ」

 くすくすと笑いながら、ユキは腕の中の小さな赤ん坊を抱いている。赤い顔をして、目を閉じている赤ん坊。

 顔を見ても、ユキとヤツカ、どちらに似ているかは、シャールにはわからない。

「ユキに似て美人だろう?」

 シャールは曖昧に、可愛いねと答えるよりなかった。シャールの困惑を知ってか、ユキは笑っている。

「ああそうだ、コレお祝い。よかったら使って」

「あら、ありがとう。子どものおもちゃね?」

 握ると音が鳴る、布製のおもちゃ。祝いに何がいいか双子の兄弟に相談したところ、そういう物がいいんじゃないかと言われたのだ。優しい桃色のそれは、大人の手のひら大の大きさで、生まれたての赤ん坊の手には余りあるようだった。

「・・・赤ん坊って、こんなに小さいんだなあ・・・」

 目を閉じた赤ん坊をまじまじと覗き込むシャールに、ユキは笑う。

「そうよ。でもこんなに小さいのに、泣くときは何処からこんな力が出るのかと思うくらい、びっくりするくらい大きな声で泣くのよ」

「そうなんだ・・・」

 ユキは優しい顔で赤ん坊を抱いている。いつまで見ていても飽きないというように、顔を覗き込んで。

 母さん。シャールはふと思った。母さんも・・・あんな風に僕を抱いていたのだろう。柔らかな眼差しと声を、僕にくれたのだろう。あなたが此処に居てくれて嬉しいわ。そんな思いが目に見えるような・・・顔で。

 記憶の中に残っていなくても・・・それがあったはずだと、シャールは疑いなく思う。

「それで、この子の名前はなんていうの?」

 生まれる前に、男の子でも女の子でも、名前は決めているとユキは言った。内緒だからと、いくら聞いても教えてもらえなかったのだけど。ユキさんはふふと笑って、答えた。

「スズ、よ。・・・悪いものを祓う金属の名前。そして綺麗な鈴の音の名前。この音も可愛いわね」

 ユキさんは僕が持ってきたおもちゃを振る。からんころんと中に入った鈴が、音をたてる。

 意味の込められた名前。どうか幸せになりますように、無事に育ちますように。

思いをこめて、付けられた名前。

 名前など・・・いつか自分で選び付けるのでなければ、誰かから与えられるものの一つだ。初めから自分では選べないものだ。惜しげもなく思いをかけて・・・こめて、与える。

 母さんも、僕に名前を付けるとき・・・色んな事を考えてくれたんだろう。

「抱いてみる?」

 ユキさんは赤ん坊を僕に差し出す。どうしようこんな小さいの落としてもしたら大変だしと慌ててヤツカを振り返っても、面白そうに笑うだけで助けてはくれない。覚悟を決めてそっと抱いた。

「そうそう、首の後ろを支えてね・・・そう、上手ね」

 ユキさんはそう褒めてくれるけど、僕は生きた心地がしない。こわごわ抱いているせいで居心地が悪いのか、赤ん坊が身じろぎした。

「名前を呼んであげて」

「・・・スズ?」

 初めて口にした名前は可愛らしい女の子の名前だ。ユキさんは“男の子でも”と言っていたけれど・・・もしかしたら初めから気が付いていたんじゃないだろうか。生まれるのは女の子だって。

 聞いても答えてくれなさそうだけど。

「スズ」

 名前を呼ぶたび、腕の中の子どもの輪郭がはっきりしてくる気がする。

 赤ん坊から・・・ユキさんとヤツカの子どもって事から・・・スズって名前の女の子へ。

「スズ」

 眠る赤ん坊の名前を何度も呼んだ。その目がこちらを見なくても関係なかった。ユキさんもただ・・・柔らかな笑顔を浮かべて僕たちを見ている。とても幸せそうに。

 与えるばかりで、何も返らなくても・・・とても幸せそうに。

 

『シャール』

『ねえ、シャール、今日ね・・・』


 耳の奥で、少女の声がふいに蘇った。犬だった時の僕に、彼女は何度も僕の名前を呼んで、色んな話を聞かせてくれた。歌うように話すそれに、僕はとても楽しくなったものだった。

『大好きだよ』

 その好きの意味が、たとえ僕が思うものと違っていても。彼女が僕を大事にしてくれてるのは・・・疑いもない真実だ。

 そう・・・ユキさんがスズをとても大切に思っているのにも、似て。


「・・・あれ・・・?」

 ユキさんがふと指を伸ばして僕の頬に触れた。なんだろうと首をかしげていると、ユキさんの白い指についた透明な液体と・・・溢れて頬を伝う、もの。

「あれ?」

 ユキさんは笑っている。ヤツカも、仕方ないなあと僕の頭を鳥の巣のように掻き回して・・・でも何も言わなかった。

 腕の中のスズは眠ったままで・・・とても温かくて。僕は溢れてくる涙を止めることが出来なかった。


 胸の中でどろどろに溶けて・・・冷えて凝り固まったモノが、すこし溶けた気がした。



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