11
やめて、スティールに酷いことをしないで、何故僕はこんなことをするの。
硝子ごしの世界を見ているようだった。握った拳の皮が破れるほど強く叩いても、割れない硝子の壁。
声の限り叫んでも、“自分”の行いを止める力にはならなかった。
スティールと一緒に眠る・・・二人だけの世界に閉じこもって。甘美な誘惑だけど、僕はそんなこと、望んじゃいない。いや・・・心の奥底で望んでいたのかもしれないけど、けしてスティールを傷つけたくはない。
それなのに・・・“僕”はスティールの心と体を傷つけていく。やめてくれと僕は悲鳴をあげた。
犬の姿の僕が、“僕”に飛び掛り・・・スティールが涙交じりの声で叫んだ時。僕は澄んだ鈴の音を確かに聞いたと思った。
スズ。
レン、リン、長老さま、ヤツカ、ユキさん、そして、スズ。
ああ・・・そうだね。世界は、もう。
どんなに叩いても割れなかった、硝子の壁が、粉々に砕け始める。歪んだ笑みを浮かべていた“僕”は、静かに笑っていた。
同じだけの思いを返してもらえないからと言って、それで彼女を傷つけていいはずが無い。彼女には、笑っていて欲しいんだ。
それが・・・心の中をさらって、最後に残った願い。
心の奥底に隠した望みの・・・さらに奥にあったもの。一番初めに思ったことと、最後に願うものが・・・同じであった。
“僕”は静かに呟く。
思いが重ならなくてもいいじゃないか。酷く傷つけてしまったのに、何度も彼女は手を伸ばしてくれた。
その思いだけで十分じゃないか。確かに、僕は彼女に大事にされているのだから・・・と。
“僕”は僕に手を差し出す。僕も手を差し出した。鏡を見るように僕たちは向かい合うと、“僕”は曇りのない表情で笑った。
後の事はよろしく。・・・スティールのことも、頼むよ。
ごめんねと呟きを残し、“僕”は僕の中に戻ってゆく。そして、走り寄ってきた犬の僕も。
分かたれていた僕は、一人の僕に戻ることが出来たのだ。その瞬間、光が弾けて・・・目の前が白く白く、眩いばかりの光で満ちてゆく。
僕たちは、僕たちを待つ人がいる世界へ戻る。
そうだ、二人だけで世界は完結してくれないのだ・・・それは、きっととても幸いなこと、だった。
「ちょっと、大変よっ、すぐ来てっ」
リルフィの叫び声に、ジルファ、レン、リンはすぐさま主の書斎へ駆けつけた。スティールが茨の繭に取り込まれて、三日が経過していた。事態の異変に備えて、レンに加えリンやジルファ、もちろんリルフィも氷の館に留まっていた。主は好きにすればいい、用向きは家令に伝えるようにとだけ言い、あっさりと彼らの滞在を許した。身のうちを焼く焦りと戦いながら、彼らは待った。何か・・・少しでも起きないかと、起きてくれればよいと願いながら。異変に気付いたのは、丁度書斎を見守っていたリルフィだった。茨の茎には鼓動するように光が明滅していた。その拍動が止んだのだ。そして、急速に高まる力の波動。何かが起きようとしていた。
書斎に皆と・・・主まで駆けつけ、そうして・・・皆が見守る中、茨に繁った葉の間から、するすると蕾が現れた。いくつも、幾つもい、数え切れないほど。
「いったい、何が起きるの・・・?」
リンが呟く。くすんだ緑の茨は、たちまち鮮やかな新緑に色を変えてゆく。
「あれを見て・・・」
ジルファが茨の繭を指した。硬く硬く閉じられた繭から、光が零れ始めていた。光は次第に強く、眩くなってゆき、彼らは思わず目を細めた。
「繭が開いてゆくわ・・・!」
リルフィが声を上げた。繭の中に、二人の人影を見つけたのだ。そして光でしろく満たされる。あまりの光の洪水に、彼らは目を閉じた。
次に目を開けた瞬間・・・彼らは信じられない光景を見たと思った。
柔らかそうな新緑の中、咲き誇る、花、花、花・・・様々な色の花で、満たされていたのだ。
茫然としたのは僅かのこと。すぐさまリルフィは繭のあった辺りへと飛ぶ。繭は剥がれ落ち、残骸と思われる茨が転がっていた。それにも・・・まるで棘の代わりのように、花が咲いていた。
少年の声がする。必死に呼ぶ声が聞こえる。
「スティール!目を覚ましてっ」
目を閉じた少女を抱きかかえ、シャールが必死に呼んでいた。
「スティールっ」
ぴくり、と少女の睫が動いた。そして、ゆるゆると瞼が開いてゆく。ぼんやりとした目で辺りを見回し、泣きそうな顔で少女を見つめる少年に気付き・・・言った。
「おかえり、シャール」
「・・・ただいま」
シャールは泣きそうな顔で笑い、スティールを抱きしめたのだった。
「最長老さまっ、もはや何らかの手を打たねば、一刻の猶予もありませんぞっ」
「そうです、この際災いの芽は摘むべきではありませんかっ」
長老会は紛糾していた。暦上は春が来たというのに、すこしも暖かくならず、このままでは種を蒔いても作物は実らないだろう・・・凶作になるのではという恐れが拡がっていた。
そして、時を同じくして、突如眠りこんだという銀の君の血筋の少年。
彼がその原因ではと長老たちは思い至ったのだ。その少年は何度も長老会を訪れては、愚直にもう毒の水の脅威は去ったのだと訴えていた。だから街を出て、湖の近くに住むことが出来る、作物もとれる、動物だって戻ってきたと。
長老たちは彼の話を相手にしなかった。たとえそれが本当だとしても・・・一度覚えた街の暮らしを手放して、村の暮らしに戻る住人がいるだろうか。彼らは全てを失っているというのに。
街へ流入した彼らは、長老たちにとって頭の痛い問題ではあったが。
だから・・・少年が何度来ても、彼らは相手をしなかったが。何の酔狂か、最長老は少年を呼び寄せ、あまつさえ人材を貸し出しもした。少年の何処に動かされたのか、長老たちにはさっぱりわからなかった。
まあ、最長老さまは物好きなお方だからな。彼らはそう自分たちを納得させ、少年が自分たちを煩わせない限りは、その行動を見ないふりをする事に決めたのだ。
けれど。
「最長老さま、あなたが一番あの少年に目をかけておいででしたね!何かおっしゃって下さい」
他の長老たちに詰め寄られても、最長老は、はて、と空気の抜けるような笑い声をもらした。
「何かとはな・・・まあ、しばし待つがいい。待つことも実りには必要じゃろ?」
「そうおっしゃられても!蒔き時を逃せば、芽は出ませんぞ!それではいくら待った所で、実りは期待できませぬっ」
「そう焦るな・・・おや、今春の風が吹いたぞ」
「最長老さまっ」
「ほれ、お前たちは感じぬか?この柔らかい、心が浮き立つような風を」
「確かに・・・」
長老たちは口々に言い、窓の外を見た。通りをゆく人々も皆立ち止まり、何処からか吹いてくる風を・・・目には映らぬそれを見上げていた。一吹きごとに満ちていく・・・冬から春へと、塗り変わってゆく空気。
長老たちは茫然として呟いた。
「一体、何が起こったんだ・・・?」
最長老は、ほう、いい風じゃわいと目を細めていた。