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こんな気持ちで銀の界へ来たのは・・・あの時以来、二度目だ。王妃の手からあたしを守るために、銀の界へと戻ったシャールを追って、初めて界を渡ったあの時以来。
こんな、重くて不安な気持ちを抱えて、この界へ来る事になるなんて。
スティールは拳を握り、湧き上がる不安を押しつぶそうとする。リルフィがしきりに頭をこすり付けて、自分の気持ちを軽くしてくれるのを、とても嬉しく思った。そばに温もりがある事で、とても安心できるから。
あの時も不安でたまらなかった。そしてそれ以上に、悲しかった。シャールと二度と会えないと思うと、涙が溢れてとまらなかった。彼が何処の誰でも構わないとすら思った。彼から告白された内容は、衝撃的だったけれど、それすら悲しみの前では霞んでしまった。
あの時は、彼にさよならを言うために界を渡った。そして・・・今日は。
長くて暗い廊下を館の主は歩いていく。彼女たちは主の後について歩いていた。さっき主からぶつけられた言葉は、スティールの心をざっくりと薙いだ。彼女が密かに疑問に思っていた事だったからだ。
何故、シャールはあたしを、好きでいてくれるの?
そして何故、“彼”はあたしを好きになってくれたの?
ある時、思い余って彼らに聞いたことがあるけど、シャールはとても困った様子で目を伏せ、“彼”は、うまく言えないな、一言で話せるような・・・ううん、言葉でレッテル貼れるようなものじゃあないんだよと答えられた。いまだ明確な答えは貰えず、少女の中で火種のように燻っていた・・・それを。
主は狙い済ましたかのように、突いてきた。
あたしが平凡でこれと言った特技もない人間だって、言われなくてもあたしが一番よく知っている。
特に美人じゃないってことも。それはわかってるわ。あたしが一番気にしてるのに。遣り取りを思い返して、今頃腹が立ってきたスティールだった。リルフィあたりが知れば、あんたってほんと・・・と呆れた顔でため息を零してくれたに違いない。
主への怒りのせいで、一時不安も吹き飛んだスティールだったが。
かつん、と前をゆく主の足が止まる。目を上げたスティールの視界に、大きく開いたままの重厚な扉が映る。
扉のそばで佇んでいる人影が、近寄る彼らに気がついて振り向いた。夜色の髪、夜色の瞳を持ち、よく似た顔だちの男女。すらりとした体に、黒い上着と黒いズボンを身につけている。
彼らは自分たちを見て、警戒するような視線を向けてきた。
ああ、彼らが、シャールが言っていた双子なんだと、スティールはすぐにわかった。いずれシャールに紹介してもらうつもりでいたのに、こんな形で会うことになるなんて。
「ご当主。こちらの方々は、一体?」
青年・・・ローレンスよりもいくらか年上だろうか・・・が、低い声で主に問う。
「そこで眠る“彼”に縁ある者との申し出だ。お前たちが知る顔か?」
「いいえ、初めて見る顔ですが・・・“彼”の事でやって来たと?」
「そうだ。なんでも、起こしにきたと言ったのだからな。私はこやつ等が何者でも構わんがな、精精高みの見物をさせてもらうさ」
さあ、お手並み拝見と行こうか。その主を射殺さんばかりの視線で主を睨むのは、女性・・・乱れた長い夜色の髪が、凄絶な印象を与える。
シャールが眠りについた原因は・・・主の暴言があると聞いた。彼の亡くなった母を酷い言葉で貶めたのだと。スティール自身も、先程心無い言葉に傷ついたばかりだ。何故、と思う。何故主は言葉の刃で人を傷つけるのだろう。何がそうさせるのだろう。翻る刃が、己を傷つけることだってあるのにと思う。
「そんな・・・“彼”の事は長老様にしか知らせていません。他の誰も知りようがないはずなのに」
スティールたちを見回して困惑したふうに呟く男性に、ジルファは苦笑交じりに話しかけた。
「それでも、私は知ってるんだよ、レン。この姿では初めましてだね・・・私はジルファだよ」
私にもよんどころない事情があってねと片目をつぶったジルファに、レンと呼ばれた青年は目を剥いた。
「ジルファは・・・あの青い鳥では?」
「そう。あれは私の仮の姿なんだ。事情があって、“彼”の・・・シャールの傍にいたんだけどね。驚いたよ、ちょっと眼を離した隙に、こんなことになっていたんだからね。それで彼を起こすべく、彼の大事な人を連れてきたってわけさ。どう?君たちはこんな事、信じるかい?」
「普通だったら信じられないと言う所でしょうが・・・」
ジルファとはシャールが時折話しかけていた鳥の名前で、人語を解するのだろうと言うこともわかっていた。シャールの生い立ちや、銀の君や王妃が滅する前に起きた出来事も、いくらか自分たちは聞き及んでいた。
そして、その青い鳥ならば、茨の繭の周りを飛んでいる姿を見かけた。
レンは妹と顔を見合わせたあと、そう言った。
「その子の名前を教えてよ。あたしたちが知っている名前の通りなら、信じてもいいわ」
「お安い御用だよ、リン。この子はスティール。遠く狭間の界からやって来たんだよ・・・信じてくれるかい?」
リンは目を細めて、ジルファとスティールを見た。
「そういう事なら・・・信じざるをえないわね。シャールが大事に思っていた子の名前や、その子が何処に住んでいるかなんて、他の者には調べようがないもの。で?あなたたちは、彼の一大事に界を渡ってやって来た訳ね?」
「そういう事だね。話が早くて助かるよ」
「そういう事なら、ね。あたし、あなたに言いたいことがあるのよ」
リンはまっすぐにスティールを見て言った。敵意すら籠もった鋭い視線に、スティールはただ戸惑うばかりだ。この女性とは初対面で、スティールは何をしたわけでは、ないのに。
「この事態を引き起こした原因は、あなたにもあるんじゃない?」
「・・・え、それは一体、どういう事ですか」
「彼はずっと不安定だったわ。強く望みながらも、叶わない事があったから。それは、自分の望みよりも、相手の望みを優先させた結果だったけれど・・・あなたは、彼の望みが何だったか、知ってるはずよね」
スティールは頷いた。知っていた・・・もうずっと前に。彼に告げられた時から考えていたけれど、はっきり答えを言えないまま、ここまで来てしまった。もしかして、その事も。
「彼は悩んでいたわ。自分の望みがあなたの望みじゃなかったから・・・それ以上どうする事も出来ない。かと言って、一旦芽生えた気持ちを殺すことも出来ない。とても、不安定になっていたわ」
傍で見ていて、こちらが辛くなるくらいに。リンの言葉に、スティールは項垂れた。
「あたし、そんなにシャールのこと、傷つけていたのかなあ・・・」
もしかして、毎週会うのを止めようと言った裏には、そんな思いが隠されていたのかもしれない。
スティールが気付かなかっただけで。リンの言葉が胸に痛かった。ふいに、スティールの耳元で、リルフィが大声をあげた。
「ちょっと、黙って聞いてりゃ、よく知りもしないくせに、勝手なこと言わないでちょうだい!」
「ちょ、ちょっとリル、ね、落ち着いて、ね」
突然怒り出したリルフィに、スティールが慌てる。リルフィはあくまでただの鳥として振舞う予定だった。
魔法が一部の人間に占められていた銀の界では、忌避されかねないと思っていたからだったが。リルフィは当初の予定を綺麗さっぱり蹴り飛ばして、金の羽を大きく広げて、リンに据わった目を向ける。
「人の心の事なんて、まして、相手が要る事なんて、当事者同士にしかわからないものじゃない。傍で見ていて辛い?それはあくまであんたの感想でしょ?シャールのじゃ、ないわ。辛くても不安定でも、そういう道を選んだのは彼だもの」
他人が嘴を入れる事じゃないわ。違う?
いきなり人語を話し出した金の鳥に、一瞬目を丸くしたものの、リンはすぐさま立ち直った。
「そうかしら?傍から見ているからこそ、分かることもあるんじゃない?あたしにはその子が、彼の思いに胡坐をかいているようにしか思えないわ」
「言うに事欠いて、何ですって~?」
そのまま女二人の舌戦に突入するかと思われたのだが。こほん、と控えめな咳払いが聞こえ、そちらの方向を見て・・・彼女らは同時に顔を引きつらせた。
ああ、鳥でも顔が引きつるのねと、スティールは一瞬、場違いなことを考えてしまった。それほど、怖かったのだ。笑っているのに、目だけが笑っていない、ジルファの視線が。
「各自言い分もあるだろうけどね、分かっていると思うけど、今は非常事態だからね。取り合えず棚上げして後回しにしてくれないか。今はこの状況を打開することが先だよ」
皆、状況見えてるよね、何のために此処に居るのかな?あくまでにこやかな様子が尚更恐怖を誘う。ジルファさんて、怒らせるととっても怖いんだ・・・気をつけようとスティールは思った。
あのリルフィですら、悪かったわと謝罪しているではないか。
双子の兄妹も、ジルファから立ち上る何やら不穏な気配を感じてか、口を噤んでいる。館の主は言葉どおり高みの見物を決め込んでいるのか、鳥のリルフィがしゃべっても、また話の内容についても何も言わない。他人事のように、ほう、と声をあげるばかりだ。
それもかえって不気味なんだけど・・・。
スティールがこっそり考えていると、そうですね、ここで私達が争っていても彼のためにはなりませんねとレンが言い、こちらへ、と彼女たちを促した。
あれを見てください。そうして彼が示した先を見て・・・スティールは言葉を失う。
広いはずの・・・館の主の、書斎。そこに、空間を埋め尽くす異常なほど太い茨の茎が生えている。階上の部屋の床を突き破り、更に天井まで伸びている、茨。茎にびっしりと棘を生やし、茎の太さに対し葉は異常に小さい。床の上を這い回りうねる様子は、一面緑の海のようだった。
そして、茨の向こうに・・・大きな卵状の物体があった。茨で形作られた、その中に。
「・・・あの茨の繭の中に、シャールが居るの?」
予想以上の光景に、声が掠れていた。
「そうです。わたしたちが何度声を嗄らして呼んでも、彼の元に届くことはありませんでした」
この二月の間、彼から返事は返りませんでした。私達はただ、見ているしか出来なかった。
「それなのに。あんたの声なら、届くっていうの?そんな事が出来るの?」
何の力もない、普通の人間にとリンの目が言っていた。スティールはその時気がついた。疲労の濃い顔に、悲しげな表情を浮かべているレンと、挑むような視線で見返すリン。
ああ、この人たち、シャールのことをとても心配してくれているんだ。声を嗄らすほどシャールを呼び続けてくれた。何も出来なかったのを、とても悔しく思っているんだ、と。
スティールは少しだけ未来の事を想像した。もし・・・シャールが、いつか自分じゃなく、他の人をもっとも大切だと思うようになったとしたら。その時は少し切ないかもしれない。シャールが何処か遠いところへ行くような気がして。でも、それ以上に、シャールのことを他の誰かが大事に思ってくれることを嬉しく思うはずだ。
今、こんな時なのに、嬉しさがこみあげてくるみたいに。
出来るかと言われれば、わからない。でも、出来ないとは言いたくない。ねえ、シャール、ここに、あなたを待っている人たちが居るんだよ。
スティールはお腹に力を入れて、レンとリンに笑いかけた。
「出来るかどうかなんて、わからないよ。でも、あたしの声が届く可能性があるなら、あたしはそれに賭ける。たとえ、それがどんなに少ない可能性でも・・・諦めるわけにはいかないの。リル、あたし、行くよ」
気をつけてねと声を残し、リルフィが肩から飛び立つ。そしてとても不本意だけどと前置きをして、ジルファの肩に止まった。
双子の兄妹、リルフィとジルファ、そして館の主が見守る中、スティールは茨がうねる室内に、足を踏み入れたのだ。