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「御方様、大変ですっ」
「チェスミー、さっきから大変続きよ、今度はなあに?」
「それが・・・銀の界から、精霊たちが再び避難してきています・・・っ」
「彼らには、界が安定するまでの滞在を歓迎すると伝えなさい。他には?」
「銀と境を接する点の幾つかで、異常事態が起こってます!辺りの風景が歪み、違う場所の風景が見えるそうです!」
「あちらの界が映っているのね・・・下手すると、意識しないまま界渡りしてしまう者が出るわね・・・」
金の君は唇を噛む。まったく、あの男は何をやっているんだか!
「大方、リルと一緒に居られて、浮かれてたんでしょうけど・・・職務怠慢よ」
小さな呟きは、焦るチェスミーには聞こえなくて幸いだった。
「チェスミー、そういう場所には近づかないよう、院を通じて触れを出させて!住人たちの避難は、院に任せるわよ!私はしばらく、界の安定に力をふるうわ」
銀の“君”とはいえ・・・たった一人の力で、こうまで世界は不安定になるのか。それを思うと、金の君は不安になる。あの子の心次第で、界は容易く崩壊へと向かいかねない。
このまま・・・あの子一人に背負わせていいものかしら。このままでいいのかしら、と。
狭間の界は疾うに変わり、銀の界も変化した。そうして・・・再びの変化が、銀の界に訪れるのかもしれない。
「変わりゆくものに幸いあれ・・・さて、私は私の出来ることをしなきゃね」
ああ、リルフィとジルファにも、この事を伝えておかなければと、金の君は頭の隅で考えていた。
緑の茨は、緩やかな拍動を繰り返す。床を突き破り、天井まで達する茎は、大人の腕ほども太い。
時折茎の内部を、光が明滅しながらのぼって行く。
「まるで、呼吸しているみたいね」
妹のリン・・・リンドグレーンは、行く手を阻む茨と、その奥に出来た茨の繭を見ながら、呟いた。
夜色の瞳には、隠しきれない愁いと苛立ちとが、等分に含まれている。
ああ、と頷いて、レン・・・レンブラントも、茨の繭を見つめた。彼女も自分も、本当はこんな事を話したいんじゃない。それを二人とも、よくわかっていた。
茨の繭の中で・・・彼はどうしているのだろう。
あの時・・・無理やり押さえ込んだ力が暴走を始めたとき、彼は自らを茨で覆い隠した。恐らくは、これ以上の力の暴発を起こさないために。そうして、再び界の崩壊を招くことがないようにと。
茨の繭に自ら閉じこもり・・・彼は今、何を考えているのだろう。
眠っているのだろうか・・・それとも、幸せな夢を見ているのだろうか。
「出迎えもせず失礼」
低い声に、レンとリンは振り返る。氷の館の主にして・・・今は茨で覆われたこの部屋の持ち主が、うっそりと笑いながら立っていた。
「いいえ。我々のために、館の部屋をご提供いただき、感謝しています」
リンは、「あんな男と口をきくのは嫌!」と全ての対応をレンに任せてしまった。レンも、この状況の発端である館の主にいい感情を持たないが、シャールが此処に居る以上、主と交渉ないし最低限の挨拶はしないわけにはいかなかった。
「感謝など・・・原因を作ったのは私だろう。見え透いた言葉は不要だ。それより、茨姫は出てきたかね」
「・・・いいえ。繭を作って以来、何の変化もありません」
「そうか。いっそ、この世の終わりまで眠る気かもしれんぞ。そうすれば、見たくないものを見ずにすむ」
見たい夢だけ、見ていればいいのさ。暗い目をして嘯いた主に、レンは怒りの感情を押し殺す。
緑の・・・茨の繭を見て、彼は“まるで茨姫のようだ”と笑ったのだ。
茨で身を飾り、茨で身を守り、他の誰も近づけない。他の誰にも近づけない。
救い手が現れるまで眠り続ける、茨姫。茨で他の誰を傷つけても、己が傷つく事はないから。そう主は哂っているのだろう。
レンは沈黙を守った。口を開けば、どんな言葉が口をついて出るか、またそれを抑えられる自信がなかったからだ。
「・・・まあ、いい。それが居る限り、館の部屋は勝手に使うがいい。何か入用なものでもあれば、家令に言え」
そういい捨てると、主は長い上着の裾を翻し、部屋の前から立ち去った。
足音が完全に聞こえなくなった頃、リンは頬を紅潮させて、怒りも露に吐き捨てた。
「何よあれ!何が茨姫よっ!こうなった原因は、あんたでしょうっ」
聞くたび腹がたつったらっ。床を足で踏み鳴らさんばかりの怒りように、レンも気持ちは同じだ。
ただ・・・微かな違和感も、同時に感じていた。シャールが眠る緑の繭。レンもリンも、なんとかこの場からそれを動かせないものかと考えた。シャールを酷く傷つけた人間の傍には、置いておきたくなかったのだ。
けれど、茨は彼らが伸ばす手、触れようとする手を悉く拒んだ。見つめるだけならば、丈高い葦の原のように風にそよぐ如く緩やかに揺れている。しかし、触れようとするなら、鋭い棘をもった茨が、威嚇するようにうねり、空間を薙ぐのだ。
これでは・・・為す術が無い。レンは、リンに長老への報告と指示を仰ぎに行かせた。足ならば己が行く方が早いが、シャールに危害が加えられる恐れがある以上・・・何せ主の、彼と彼の母への侮蔑には、目に余るものがあった・・・ここへは自分が残っていた方がよいと判断したのだ。
館の主に、この繭は動かせそうに無いこと、彼のために、自分はしばらくこの館に留まりたいことなどを申し出ると、主は意外なほど淡々とその申し出を受け入れた。
「ソレが居る限り、そう言うだろうと思ってはいたさ。好きにするがいい。部屋をあけるゆえ、使い勝手のいいように、適当に使え。・・・ヨハン!」
「なんでしょうか、御館さま」
「客人がしばらくご滞在だ。部屋を整えてくれ」
「畏まりました」
それについてゆけと、主はレンを促す。レンは躊躇した。この場を離れた途端、主が茨の繭に危害を加えるのではと懸念したからだ。主はそれを見透かしたように・・・暗く哂う。
「茨姫に手をあげるつもりはない。たとえ、傷つけようとしてもだ・・・手酷い傷を負わされるのは、こちらであろう?」
そうして・・・茨の繭は、氷の館の、主の書斎に根をはり、茎を広げて息づいている。
「長老様がたは、何かおっしゃっていたか?」
「ううん・・・事態に変化があれば、すぐさま知らせるようにとだけ」
「そうか・・・」
茨を見上げ、レンはもう何度目かわからない、ため息をついた。何も出来ず、ただ見ているしか出来ないのですか・・・それは、何と辛いことでしょう、と。
私たちがあなたを呼ぶ声が、聞こえていますか。
私たちは、ここに居ます。
あなたの目が私たちを見ていなくても。
私たちは此処で、あなたを呼んでいるのです。
眠り姫・・・どうか。
百年のまどろみを、わたしにも下さい。そうしたら。
心から言えそうな気がするから。
あの子に。
「 」