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館の中は、外よりもなお暗い。長い廊下のあちこちに蜀台が設けられていたが、灯された明かりは僅かだった。
動かない空気、人の気配の感じられない館。閉じられたままの多くの部屋。おそらく・・・時間の経過と共に埃が澱のように積もっているに違いない。かつては大勢の人で賑わっていた館であったろうにと、埃で覆われ退色した調度品から、それは推し量られた。
家令の後ろを、シャールは歩いていた。銀の髪が、僅かな灯りをうつし朱の色に輝いている。
レンは何故長老の真意をいまだ測りかねていた。長老から全てを知らされないのは、自分たち兄妹も同じだった。
何のために、その形のいい頭はついているんだね。
答えを請うても、それが容易く与えられた事は無い。その点では、自分たちも前を行く少年も大差なかった。
ただ、自分たちの方が経験のお陰で、また少年があまりに世慣れてないため・・・手助けできる事が多い、それだけだ。
長老たちからしてみれば、彼も自分たちもそう変わらないのだろう。
思考を巡らせながらも、レンは抜かりなく逃げ道を頭に叩き込んでいる。それは彼の隣を歩く妹も同じだろう。時折後ろを振り返りながら、来た道を確認している。何かあったときのための、用心は欠かせない。
そうして・・・長い廊下を何度も曲がり、回廊を抜け、階段を上り・・・家令はようやく足を止めた。
「こちらで主がお待ちでございます」
家令が扉を叩き、客人の到着を告げた。内側から、入れと低い男の声がした。
まず目に入ったのは、意匠の凝らされた大きな机だった。ペンや羽箒が幾本も立てられ、紙の束がうず高く積まれている。部屋の両脇は天井に届くほどの棚が作られ、本でぎっしり埋まっていた。本の匂い、インクの匂い、そして・・・澱んだ、おそらくこの館に染み付いた匂いが鼻孔をくすぐった。
廊下とは異なり、主の部屋には灯りが煌々と灯されている。机の背後は大きな窓が作られていたが、鬱蒼と茂った木々のせいで、日の光は殆ど射さないようにみえた。
館の主は、椅子に腰かけ、なにやら一通の手紙に目を通していた。
「お館さま、客人をお通ししました。他に何か御用はございますか」
主は顔も上げず、手を振って答えた。それは犬でも追い払うような仕草に見えた。
「無い。わたしが呼ぶまで来るな」
「畏まりました」
家令は主の言動に慣れているのだろう。顔色ひとつ変えず、言いつけどおり部屋を去った。
扉が閉まってから、さて、と主は手紙から視線を上げた。主は黒いシャツとズボンを身につけ、袖口や襟に銀糸で刺繍された黒い上着を羽織っている。
両の手を組み、その上に顎を乗せ、値踏みするような視線で自分たちを見た。あからさまで見下すような・・・まるで蔑むような視線にレンは内心眉を潜める。
街の有力者たちは、確かに己の私腹を肥やすことに腐心している者も多いが・・・そして、彼らからは己の得になるかどうか、値踏みする視線を向けられた事は数知れないが・・・それでも。
これほどの、冷ややかな怒りすら感じるような、目で見られた事は無い。
横に立つ妹もそれは感じたようで、紅い唇は笑いの形を作っているものの、きつく拳を握っている。自分より沸点の低い彼女が暴走するのも心配であるが、何よりシャールの事が気がかりだった。
彼も対面する相手から、冷たい怒りのような・・・身の竦むような感情を感じているのだろう。ただでさえ硬かった顔が強張っている。精一杯笑みを浮かべようと笑顔を作るが、返ってそれは痛々しく映った。
それでも・・・この場は自分たちが手を出してはならないと理解している。努めて無表情を装い、何故主がそのような振る舞いをするのか、すこしでもわかればよいと、言動を残らず記憶する、それより出来る事はなさそうに思えた。
「初めまして、シャールと言います。突然の訪問を許して下さり、ありがとうございます」
主は何も答えない。ただ、視線で言葉の先を促してきた。言ってみろ、もし気に入れば聞いてやる、そんな尊大な視線に、すぐ傍で、ぎりっと嫌な音がした。横を見なくてもわかる、リンが歯を噛みしめたのだろう。
頼むから暴走してくれるなよと思いながらも、レンは主の様子とシャールの様子に気を配っていた。
シャールは訥々と街の現状を主に訴える。水に呑まれた土地から逃げた住人が、街へ流入していること。
そのため街が人口過密になり、十分な家がなく、また働き口もなく、治安が悪化していること。
毒で汚染された土地や水は、今では清められていること。草が生え始め、動物もちらほら姿を現していること。
土地の住人がもとの場所へ帰りたいと言うなら・・・家を建て直し家畜を飼ったり、畑を作り直すための費用の補助は、長老会が負担するとの言質をとっていること。
「・・・ですから、あなたから住民に言って欲しいんです。元の土地に戻るようにと」
あなたの言葉なら、住民たちも聞くでしょうから。そうシャールは締めくくり、そうだ、と手にした布袋から、土のついたままの花を取り出した。
薄桃色の、幾重にも重なる花弁が特徴的な、ちいさな花を。ここで来る途中見つけた花だ。この界でも、この森近辺でしか咲かないそれを、主に見せようと彼は土ごと掘り出し、ここへ運んだのだ。
それを主に差し出す。主は差し出された花を冷ややかに見つめ、やおら立ち上がった。大股で机を回り、部屋の中央で立つシャールに近寄った。灯りを受けて、主のくすんだ銀色の髪が光る。年の頃はレンと大差ないように見え、館の主の年若さに驚く。
主はレンと同じくらい背が高く、膝まである長い上着の裾が、歩みにつればさりと広がった。
驚き目を瞠るシャールに構わず、主はおもむろにシャールの顎に手をかけ、くいと上を向かせて、口元を歪めた。いやな笑い方だと、レンは思った。
「その顔と体で、長老を誑かしたのか?さすがあの女の子どもだな・・・あの女によく似ている」
わたしも誑し込んでみるかと・・・毒のように主は囁いた。侮蔑を隠しもせず。
「あなた、何を言っているのっ」
とうとう我慢の限界を超えたリンが叫ぶ。主は彼女を一顧だにせず、シャールの差し出した花に目を落とし、鼻で笑った。
「このような花など・・・要らぬわ」
奪い取り、床へ投げ捨てる。更に何度も何度も踏みにじった。薄い花弁は無残に千切れ、見る影もなかった。
主の言葉と、行動がようやく理解出来たのだろう・・・シャールの白い頬に血が上る。主から飛び退ると怒りも露に叫んだ。
「あなたは、一体何を言うんです。なんて酷い事を・・・っ」
過ぎる怒りのためか、彼の声は震えていた。
「あなたは、僕の母の何を知っていると言うんですかっ。あなたに、母を貶める権利なんか、ないっ」
「権利?・・・ほう、そんなもの、関係ない」
主は目を細めて、再び笑いの形に唇を歪める。嫌な笑い方だとレンは再び思った。猫が鼠をいたぶる様な、力を嵩に来て弱者を弄ぶもの特有の笑みだとレンは気がついた。
止めなくては。この館の主の助力が望めなくとも、いい。それよりも、彼の心の平穏の方が、ずっと大事だったから。
「あの女のした事のせいで、どれほど迷惑を蒙った者がいたか・・・考えた事はあるのか?まあでも、あの女は死んだな。当然の報いじゃないか」
あの女に相応しい末期だったそうだな?
シャールの母の最期を、レンもリンも聞き及んでいる。それを館の主は当然だと言い放った。あまりに酷い言葉に、喉の奥が凍りついた。
これ以上シャールに無残な言葉を聞かせてはならない。この館を出ようとレンとリンは目配せをして、気がついた。頬に風が触れている。窓も扉も閉められている室内で、何故風が吹くのか?
「母さんのした事は・・・確かに周りの人にも迷惑をかけた。命を落とした人だって居る。でも・・・母さんの死に方が、その報いだと言うなら」
低くシャールが呟く。みしみしと部屋の建材が嫌な音を立て、壁に大きな亀裂が走った。風が渦を巻き、紙束や墨壷や、ペンを天井へと巻き上げてゆく。怒りのため、シャールの力が暴走しようとしていた。
「母さんが死んだ今、最早誰にも、母さんを貶める権利なんてない・・・僕が」
許さないよ。
重い本棚の中身が、風に巻き上げられる。窓硝子が粉々に砕け散り、外に飛散していく。主は茫然と目の前で吹き荒れる異常な風に立ち竦んでいた。
「シャール!もういいでしょう、ここから出ましょう!この男には、あなたが力を揮う価値すらない!」
「シャール!ねえ、聞こえてる?あなたの力は、そんなことの為にあるんじゃ、ないでしょう?」
レンはリンと共に声の限り叫んだが、怒りに満ちたシャールには届かない。ますます力の暴走は拡大していた。
このまま報復をとげたとして、きっとシャールは後悔する。そんな思いをさせるくらいなら、今なんとしてでも止めなければとレンは声を振り絞る。
「シャール、聞こえていますかっ」