波濤(その1)
前半は目次に在る様に。主に日本人侍が如何にして朝鮮人の若者を部下にしたか、そして彼等の国内での活躍を描くと共に、彼等が何故?どのようにして渡欧したかの必然や、そこでの南蛮人(欧州フランス人)との関わり合い方を基本、史実に基づいて描いています。
(仙台にて)
(唐入り)
(ソウォン)
(大阪へ)
(江戸へ、目を開く)
(インドへ)
(ニハルとの出会い、欧州へ)
(湯屋)
【登場人物(その1)】
主人公:兼本甚八郎眞乘(藩主と直接目通りが適う召上・理論派、語学や理論に優れ拳法が出来る。体がデカイ、朝鮮語など各国語が使える、頭脳派)
主人公2:江藤三八郎儀輔(一番座で足軽・鉄砲組頭/武闘派、剣術と兵法(用兵)のに優れる。)
副主人公:金本宗右衛門(帰化朝鮮人で元白丁身分。ソウォン、眞乘の配下で士分となる)
村田仁八:伊達藩の眞乘麾下の足軽大将(剣や武術も達者で、料理や刀の修理もできる)
仙台の高僧(帰化朝鮮人で賎民階級出身・白丁) 早暁元三禅師 朝鮮渡来僧(虎哉宗乙高弟)
四分帰化農民(人参栽培で元白丁身分)
彼の妻は四派、娘は(四妓/金本紀野)シキと四阿
服部稲造(幕臣・伊賀者) 向井忠勝配下の元忍者
後藤又三(仙台藩士・朝鮮役経験者:後藤信康配下、江藤三八郎の上司)
片倉小十郎重長:兼本甚八郎眞乘の直属の上司
イエズス会宣教師ルイス・ソテロ
答礼使セバスティアン・ビスカイノ スペイン人メキシコ総督
イギリス人ウィリアム・アダムス(三浦安針)
ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(耶揚子)
東インド会社タワーソン(ムンバイを開拓しに来た初めての英国
服部稲造(人)
服部稲造麾下・伊賀者)
ミア(眞乘のフランス人妻)
モリスコ=ニハル (スペイン語morisco)キリスト教に改宗したイスラム教徒を指す名称。
領主ビュルシャール(ツールーズの領主)
リシリュー(後のフランス宰相ルイ13世の育ての親、カソリック司教から枢機卿になるがプラグマティスト)
フランス国王ルイ13世
支倉常長
シャルル・ダルベール・ド・リュイヌ(後にリュイヌ公)
(仙台にて)
輪玉寺は、僅か三世代一五〇年の間で伊達家の移転に伴い現在の陸前仙台に落ち着くまで、四箇所その場所を変えている、古刹で或るにも拘らず。しかも、そもそもの建立が足利将軍家により、その開闢を後押しした事もあり、住職や僧坊に勤める僧は、禅宗(臨済宗)の中でも優秀な人間が多く集められていた。それだけで宗家とのかかわりが深い古刹であった。今、その和尚の一人に渡来人の早暁禅師が居た。彼は、覚範寺の虎哉宗乙の推挙もあり、もっぱら伊達藩の、青年の指導教育を司り、その高弟は、伊達藩主で或る、正宗を今後補佐するであろう重臣になる若者が多く含まれていた。
早暁は元々、朝鮮の馬山にある寺から、数えで一四の時に、表向きの理由は、修行の為、琉球を経て、明に渡り、禅宗を極めた僧であった。しかし実体としては、当時の李氏朝鮮は、斥仏揚儒と云う、国策の下、仏教が迫害され、僧の身分は、奴隷並みか、それ以下の『白丁』と云われる階層で有り、彼自身、禅僧としての教育を当地では最低限しか受けられず、このままでは賎民階級のまま、無知に無益な儘、生涯を終える事を憂いた、住職の計らいによる、明(修)行であった。
為に、彼はこの馬山の寺に残る、由緒ある仏像や経典を数体、住職より託され、それらの宝物が、彼の居留地での留学費用となっていた。
彼の、殆どの仏教や、あらゆる哲学的知識は、明に渡り身につけたモノであったが、往路に於ける対馬や、明の少林寺での修行。
そして帰路の琉球で、拳法に磨きを掛けた事、更には、朝鮮人と云う事で、朱子学に関する(あえて理論的矛盾を研究する為の)知識も、得ていた事もあり、この寺では、若い武士階級の、禅師として適任であった。
彼の教育方法は、今までのそれとは“異なり”仏法以外の学問に関しては、若者一人ひとりの個性を見極め、その伸びる部分を伸ばし、不得手な部分は“敢えて”聞かれない限りは、教えないと言うモノで、自ずと、家臣団には多様性が担保され、知識に貪欲な、子弟の学究の間口を広げる様にように努めて接していた。要は、深い堀は、間口が広く、狭い間口のままで深い堀を掘れば、必ず崩落事故が起こる。これが彼の信条であった。
武術より言葉に長ける若者には、武士階級と云えども、武術を教える時間に、中国語や朝鮮語を教え、その出典に、孫氏の兵法書や、当時の朝鮮の主流であった朱子学を禅宗からの観点から『批判的』な視点で充てる。という具合で、拳法や武道を好む者には、トコトン時の少林寺や琉球仕込みの拳法。その奥義を伝えようと努めた。只、彼の日本語は、そもそも、修行が終わり、琉球から九州に寄り、故あって都の曹洞宗本山に入った時からであり―彼の頭には、九州にいれば故郷である慶尚南道・馬山の様子が、比較的入手し易いという打算が有った。しかし、その九州がキリスト教の汚染されている様を見て、京から道元由来の鎌倉の古刹で修業を始めた期間から―であったので“雅”で、非常に洗練された日本語であり、武道や拳法を”田舎武士“に教えるには、余りふさわしいモノでは、無かった。彼の、伊達藩の若者に対する、最初の手ほどきは、若者達の適性を見抜く為の日本語に拠る禅問答と、言葉の矯正からであり、田舎武士を中央の武士らしく改める事からであった。
その様な彼の弟子の中に、太刀上の身分であり一番座で足軽・鉄砲組頭の江藤三八郎儀輔と、その下位ではあるが、藩主と直接目通りが適う召上の兼本甚八郎眞乘と云う二人の若者が居た。彼等の仲は、その幼名からニッパチとも呼ばれ兄弟と見間違う程の仲であり且つ、お互いがお互いの至らぬ処を補う仲であった。腕っ節は、然程の者ではないが、剣術と兵法(用兵)の理解に優れた儀輔。既に元服の十五の齢で、実戦を経験し、かなりの大将首をせしめ、鉄砲組頭の父を大いに喜ばせた。帰還後の御前試合や道場でも既に、彼に剣で敵う藩士は、仙台藩には、数える程しかいない“状態”であった。
一方、同じ様に、初陣を飾ったが、腕っ節は、めっぽう強いので相撲や拳法には長けるが、体が大柄のせいか?身の熟しが柔らかくないので隙を見せがちで、大将首を上げるどころか、無傷の生還ながら、その凄惨な様に“驚き”しか感じ無かった、眞乘では、あった。
しかし、言葉に対する理解力に優れ、彼(眞乘)は、初陣前の春、教えを請うて二年目には、既に、師と中国語や朝鮮語で、会話ができるレベルに達していた。彼は儀輔とは違った観点で、兵法に関しての理解力を伸ばしていた。要するに、彼は、朱子学の自由度の低さを説く尊師の言葉に強く影響を受け、結果、戦闘より兵站や戦略的な面で儀輔に勝る見識を有する様になっていた。初陣の際も死者数や損害に関して、より味方の数を少なくするには、如何に、自身や伊達藩は、在るべきだったかを熟慮し、帰陣時には、死者の配置や陣形等を学んだ内容と証左、検証をしていた。
二人とも、当時には珍しい、ロジカルな若者で、理に適わない事、問答無用や理不尽な下命に関しては拒否感や、まず否定することから始める様な性格であった。
当時、主君である伊達正宗が、時の権力者である秀吉の覚えが悪い事もあり、“奥州仕置”と呼ばれる領地を半減された処置を受けた上に、そもそもの本拠地であった会津から、北方の仙台へ転封を命じられた。この時、多くの血気盛んな(いわばニッパチとは、真逆で感情的な)譜代の家臣は、その処置に怒り、秀吉や上杉家との一戦を欲した。
が、古くから早暁に教えを請うていた、重臣や家臣団は、此処は、一時の辛抱と克苦策を強く推し進め、正宗自身が、小田原攻めでの自身の経験、周囲、特に徳川やその譜代の重臣達から齎された情報や、虎哉宗乙を通して、早暁の教えに得心していたので。転封を諾々と受け入れた。
早暁は、早速、若き高弟たち。特に既に高弟(一番弟子)の立場にあった、眞乘と儀輔に、各々の性格とは真逆の立場に立たせた上で、秀吉からの命令でもある『唐入り』に対し、主君や伊達藩は、どう判断(対処)すべきか。そして、この仕置きに関しての問答を求めた。
禅師は、高弟二人に考えるべき時間を三日与えた。今日は、その三日目である。
「甚八(眞乘)ならば、この師の設えには、不満を持ちながらも、得意な兵法を持って、儂の言葉を論破、折伏してくるのは必定ならば…」
儀輔(江藤)は、自身が責め手ならば、一気呵成に、相手の体制が整わぬうちに、核心を突破するが、甚八ならば、そのような手は取るまい。と思案を繰り返した。片や攻め手である兼本(眞乘)は、既に答えを出していた。殿の判断は、正鵠を射たものなれど、それを翻すには、この手しかないと言う考えが有った。
「儀輔の持つ兵力、攻撃力を守りに徹すれば、これを簡単に打ち崩す事は、至難の業である事は、”前提”。ならば儀輔自身を調略する事が早道」
これが兼本の策の根本であった。しかし、そこまでは、江藤にも見破られていた。
「しかし相手は、天下を制した太閤秀吉、以下、ほぼ日本中の大名が相手。大藩で、武勇の誉れが高い我が藩でも、この命に逆らう事は“至難の業”である。その状況下で殿、以下、重臣。いや、藩士全員を“太閤に逆らう”方向に纏めるには」
このタクティクス(戦術)を考える事は、今風に言えば『非常に面白いブレーンストーミング』であった。
「馬鹿な連中を篭絡することは、いとも容易い、然し乍ら、奴等が前面に立てば、緒戦は、いざ知らず、早晩事は“頓挫”する事は、必定」
と言う事で、まずは、血気盛んな連中を事の参謀部から徹底排除する。
「これは徹底せねばならん。」
その上で、太閤以下、豊臣政権の諸将を感じ入らせ、この仕置きが、間違いであることを悟らせる事が肝要。では、為に、如何に動くべきかを考える事が肝要であった。
その為には、この仕置きが、大局的に見て、太閤殿下の政に、適わぬ、いや、不利益を講じる事を証明せねばならない。さすれば、頭の回転が誰よりも早いと聞き及ぶ、太閤殿下の事、案外この様な、仕置きは、容易く覆る。
武辺で片を付けること程、愚かなことはない。
無益な事と理解させ、それを諭す事ができる人物が現政権内にも、複数居る筈。でなければ、豊臣が今のような権勢を作り上げ、維持する事等、出来ぬ筈。と云うのが、彼が得た“世間の情報”からの結論であった。
篭絡すべき将の名も、幾つかは、既に彼の頭の中には挙がっていた。そう彼(眞乘)自身、師に『その様な立場で論戦を張れ』と指示は、されても、得心が行かぬ立場からの折伏は“無理筋”と云うのが、結論であった。
唯、その前段階として、この虎(伊達藩)を経済面だけで“甚振る(いたぶる)”事は、“容易く(たやすく)は、ない”事を示さねばならない。
為に彼は、豊臣政権が今、南蛮に対し採っている(南蛮特に、キリスト教排除)政策の盲点を突く事を考えていた、要は、鉄砲を初めとする武器は、残念ながら、日ノ本よりも彼国々から渡来のモノの方が優れている、乃至は斬新である?可能性が高かった。これらの中で、最も技術的な壁を感じていた、鋳造技術、その結晶である、大砲の確保を勧め、その大砲を活かす領内整備をまずは始め、その性能試験を広く世間に知らしめる事。
特に隣藩であり、我が藩の監視役として、旧領に転封された大藩である“上杉家”に知らしめるだけで、構わなかった。実際に、それを使うことは、当に、理に適わぬ事、故に、ありえなかった。さすれば、豊臣政権内で、どの様な反応が沸くかは、自明であった。
「さればでござる、太閤殿下が殿、及び我が藩を貴重と思召さるには、如何な、備えを設えればと言う事から、皆様には、お考え頂きたい」
眞乘は、大きな体を前屈みにして、師や儀輔の顔を覗き込んだ。
「ワシが思うに、今、太閤殿下の興味は、ご自身の御身内以外であれば、この春に思し召された唐入りであろう。そこで我が藩が、かの親藩や譜代、以上の働きを示す、いや実際、そのような無益な働きは、損じゃて、それらしく“振舞う”事で、伊達は“使える”と観られることが肝要じゃ」
そこで徐に、眞乘は、腰の小太刀(脇差)を抜いて見せた。これは鎌倉以来の、兼本の家に伝わる無名だが、名刀である事は、儀輔も知っていた。ただ、切っ先は、剃刀のように鋭く、使う人間が、愚鈍で、間違えれば、すれば直ぐに歯毀れをしてしまう様な業物であり、これを使いこなせる事が、兼本家の家伝とされていた。
「我々が、この様であれば、案ずるは“産むが寧”じゃ」
これが、眞乘の答えであった。そう。
「使える」
と思わせることが肝要であり、“威勢”とは、見世物で会って、使う事は、在っては“為ら無い(ない)”のである。
答えは明瞭。『唐入り』には、儀輔のような若者を藩内世論の筆頭に建て、率先して“参加”する事を大阪の政権に対して大ぴらに表明するが、実態は
「戦地に入っても、何もせず、極力、周囲の実力等の観察に徹し、自身は、汗をかいても、消耗が激しく、藩の実態と実力が、露見する戦働きは、絶対に採らずに済む“策”を採る」と言うモノであった。
儀輔は、己の答えを引用されつつも、実態を真っ向否定する“案”に対し、自案を引っ込めざるを得ず、禅師は、“我が意を得足り!”とばかりに我が膝をポンとたたいた!
この問答決着は皆が、得心が行くものであった。
(唐入り)
そして、この案は、早暁、虎哉禅師(宗乙)そして弟子の若者たちの、口伝もあって、藩主重臣藩内領民を含めた大勢的な意見になっていった。
太閤の目を引く衣裳揃えで、肥前名護屋に向かう。この方向で藩内が、上下の身分を度外視して天正一九年。領内の刈り取りが終了次第、邁進し、眞乘も儀輔も早暁迄もが!この作業に駆り出されていた。しかし理由が、藩内に浸透している故か?不平を言う不届き者は、誰もいなかったし、冬と云う隠れ蓑を纏い、領外に、この真意が漏れ出す事も無かった。天正一九(1591)年仙台地方は大雪の日が続いていた。
それは、当に大当たりで、冬の間に準備した3千人を超す、奇抜で派手な衣装をまとった、大行列の噂を都で立て、その様を肥前名護屋で目にした太閤の、政宗に対する対応は、この隊列披露の後、すぐに変った。
その上、九州地区の大名や直臣や旗本、身内にも劣らない、三千と云う陣容、この数を日ノ本の北辺の大名が揃えて参加表明した事は、彼の唐入りに措ける地位と格を大きく上げる事となる。
彼は、当初、名護屋滞在の総軍監徳川家の下に配置されたが、本軍である宇喜多秀家を総大将とする第2軍と共に、半数が渡韓する事を許された。
政宗にとって、又、政宗配下に取って、日本以外の異国を見て経験しておき、本邦との違いを経験しておく事は、重要であった。
ただ、釜山到着時には、既に1番隊が、首都京城にある漢城を陥落し終わる時期であった。伊達にとって幸運な事には、間もなく王宮は陥落し、朝鮮国王とその主従は、漢城を脱出したと言う戦況が報告されていた。政宗達と共に上陸した石田治部とその部隊は、その報を聞くや、そそくさと漢城に向かった。
残された正宗一行は、釜山付近の維持に“専ら傾注し”対馬経由の補給路の確保の任に、残った小早川家と共に、あたった。
まず彼らが、当地に赴いた際に、驚いたことは、その人民が余りに“貧しい”という点であった。しかも、彼等は、ほぼ文盲であった。勿論、日本、自身の領地も天候不順による飢饉などがあった際は、民百姓に餓死者が現れる事もあったが、彼等から食料を現地調達、要は、収奪する事は、出来ないと感じさせるには“十分な貧しさ”が、そこの現実であった。
一方、半島の富は、彼らの主君や、上級武士の宿舎として宛がわれた“家”の持ち主である“当地の識字できる”ごく少数の士大夫(両班)と呼称される階層が握っていた。が、そいつ等は、お互いに、お互いを“罵り合い”“責を押し付けあって”いた。その上、戦で負けているという現実を受け入れず、伊達を含め日本の侍を“野蛮人”として見下した態度をとっている事である。
所謂、合理的な“道徳観”が欠如し、道理(とは云え、彼等に“だけ”都合の良い)を説いても理解できない、兵隊階級を“野蛮人”扱いし、謙虚に“負け”を認める事をしない階層が、当地の支配階級である士大夫(両班)の姿であった。
眞乘らが統率する伊達の一隊は、所謂人民階層の持つ、富を彼らが“単に自身の為”のみに“強奪”すれば、この地の多くの文盲の人民は、瞬く間に、餓死するだろうことが、雑兵レベルに至るまで認識できていた。
特に、眞乘は、禅師から、既に朝鮮の内情をそして支配階級の実態と欠点をよく知ら占められており、若い彼等が、儀輔らと共に伊達の中核を成していたので、その事を、伊達の藩主以下全員が認識していたのである。
若く実行力のある彼等が、伊達の中心部に座っていることで、しかも、その身分の上下に関らず、この実態を改めて現地で知見し実感したことで、被支配階級だった現地の一般占領民の態度に、見た目、感情のまま対応する他藩と、伊達の態度は自ずと異なって行った。
当地の占領民は、着ている服には、柄も色もなく、身分の上下は汚れているか、否かで、すぐ識別ができた。
其の上、それ位、全体に於いて占拠するに値しない程“貧しい土地”であった事を予め知っている人間と、改めて驚き、知る人間とでは、態度に雲泥の差が生まれていた。
彼等には、味噌や醤と、言った、日本では“当たり前”の発酵調味料が無く、食べ物の味付けは、基本、塩のみであった。日本の戦場のように、その占領地で一般や、下級武士雑兵が寝泊まりできる、寺社仏閣等と言う宿坊もなく抵抗を示す現地の元支配階級(士大夫・両班階級)の家を手始めに、宿泊出来そうな場所を強制収奪する様な事は、無かった。
これは予め、伊達藩の侍は、知識として持っていたので狼狽も乱暴狼藉による強制収奪もなく、野営の準備を整えていたからであった。
それらの事態に予め対応できていた伊達が却って、当地の民の歓心を買うことになった。
当初太閤麾下の名護屋からは、潤沢に補給物資が届き雑兵に至る迄飢えると云う事はなかったが、伊達が始めた、そのお零れ(おこぼれ)を占領民にも味合わせる『策』は、非常に効果的で、当地の民は、その食べ物に“味”がある事に驚きを隠さなかった。
そう彼等は、荷駄や宿舎建設の労役を買って出た際、対価としての貨幣を渡されるより、食べ物を、しかも日本人が調理した“食べ物”に預かる事を選んだのだった。雑兵に至るまで日本人が寒さ対策で踏みしめていた唐辛子、それすら、食料として有難がった。
その様な環境下、若い眞乘と儀輔は、送られてくる食べ物に肉が無い事に少し苛立ちを覚えていた。海や川から採れる魚、これらは、彼等より年嵩の者が食すと、彼等レベルに迄、回って来る事は、ほぼ無かった。持ち込んだ武器、特に、鉄砲をむやみに、私的欲求の為使えば、鳥を撃つ事も出来たが、私欲の為に高価な火薬を使う事は、当時の彼等の道徳観では、憚られた。
しかし、当地の民が罠や弓矢で鳥撃ちをし、自身の食料としているように。我々も武芸の鍛錬の一環として、弓矢で鳥を撃つことには、比較的寛容に許しが、得られたので、早速、彼らは武家の嗜みとしての“鴨狩”に出かけた。
鴨は、ここは鴨場かと思える位に潤沢に居たので。4~5羽も仕留めれば、仲間に鴨をタラフク食わせる事が出来ると考えていた。しかも自身の持つ弓矢は、大柄なれど、故に当地の民の者が使う弓より高性能な事は、見て分かっていた。
彼等は、配下の雑兵を数人“勢子”として引き連れ、意気揚々と『鴨場』へ出向いた。
彼等の傍には、一人の朝鮮の若者、しかし文盲の者が付いて来ていた。名を『ソウォン』と仮にしておこう。
彼も、手には彼の弓矢を持っていた。眞乘と儀輔は彼の存在に気づいてはいたが、彼が、我々に何も出来ない事も、見抜いていた。もし我々に襲い掛かれば。眞乘に殴り倒されるか、下手をすれば儀輔に、一太刀にされる事は周囲の雑兵(勢子)に至る迄、分かっていた。
日本兵の鴨狩のスタイルは、彼の知る朝鮮の戦闘スタイルとは全く異なっていた、相手の身分や地位を考え、名乗りを上げて一騎打ちなどというスタイル。要は、弓の腕に、自信があるモノが、一羽ずつ狙いを定めて鴨を撃ち落とすスタイルでは無く、非常に実践的に、勢子が囮になり、飛び出た鴨を、風下に隠れていた弓隊が。一斉に撃ち落とすと言うモノで、瞬く間に数羽の鴨が射止められていった。
しかし、その時である。鴨を拾いに行った勢子の一人が叫び声をあげた。
そこには、灰色の毛を逆なでた、大柄な狼が、彼に正に襲い掛からんと対峙していた。
大声は、狼への威嚇の為、勢子が上げたモノであった。しかも彼も百戦錬磨の雑兵であった、腰を抜かすような無様な姿は、晒さなかった。脇差をすぐに抜き、片手に脇差、片手には獲物の鴨。というスタイルで対峙した。しかし、弓では、獲物を外したが、大刀を備えた儀輔は、その雑兵(勢子)前に立ち塞がった。
「これは儂の獲物。任せい」
その言葉を聞いて雑兵は、静かに後ずさりを始めた、と同時に、狼は、儀輔を無視し、その雑兵、いや雑兵の持つ鴨目掛けて飛んだ、が、儀輔の真上に差し掛かった時点で、彼により“一割き”にされ、着地前に絶命していた。それは、時間にして“ホンの数秒間”の出来事であったが、ソンウォンにとっては、衝撃的なシーンであった。しかし、おっとり刀で寄ってきた、日本人達には様在りなん、という光景であった。
「馬鹿な犬だ」
「この大きな野犬どうすべ?」
雑兵の各々が、こんな獣、食えないから困った、という風情で、皆に話しかけていた。
「こんな良い鴨場に現地人が、寄り付かないのは、こいつのせいだったのかもな?」
一人の年嵩の雑兵が、然も訳知り顔で講釈を垂れていた。
狼の返り血を浴びた儀輔は、川でその血糊を吹き、横に立った眞乘から、懐紙と手ぬぐいを渡されそれで、刀と顔や体の水気をふき取っていた。彼の刀に刃毀れは全く無かった。遠巻きにその光景を見ていたソンウォンは、急に母国語で。儀輔の横にいる眞乘に呼ばれた『この日本人、言葉が分かるのか?』率直な驚きであったが、彼に逆らうことは得策ではない事は、一目瞭然。おずおずと彼の前に出て行った。
「その方当地の者か?」
「はい」
「ソウォンと申します」
「そうかソンウォンだな?」
『少し言葉が訛っているが“良し”としよう』彼は、首を垂れて許諾の挨拶をした。
「その方、この犬の処理を任せられるか?」
「え!この獲物を頂ける?のですか」
「獲物?その方らは、この獣(犬)を食すと言うのか?」
眞乘は驚きを持って問い質した。
「はいオオカミは、毛皮が冬の着物として使えますし、肝は薬になります。肉は干してから食べます」
「左様か。良きに計らえ」それだけであった。
『夷狄(未開人)』文字さえロクに、書く事も、読む事も出来ず、御仏を蔑ろにしている、多くの現地人に対する率直な印象。それが、眞乘や儀輔達、日本の侍たちの間で、現地人に対する率直な定義になったのは、こんなことが繰り返されたからであろう。
ただ、当初、遠巻きに見ていた“だけ”であった、現地(占領地)の原住民は、皆、特に伊達藩士に対して好意的であった、日本人にとって当地の身分制度などは、眼中にはなく
『歯牙にも掛けなかった。』それが、予備知識を持って臨んだ伊達家中に執って功を奏していた、支配階級だった“両班(梁パン)”と呼ばれた地方役人は、彼等にとって単に言葉が理解できるだけの“いち”占領民であり、彼らの家財は、等しく、食料などを持ってくる当地の原住民(身分が低く文字を理解できない者たち)に、与える対価の持ち主に過ぎず、対価は、無償の戦利品なので、彼らの手から気前よく、働く者たちに渡された。又、最も下層階級に押し込められていた様に見えた僧侶たちは、一転して彼等に手厚く遇された。
そして、日本の武士に相当する武人階級が、戦闘開始当初は、ほぼ占領地にはおらず、一部の野盗化した彼等に対する措置(討伐)だけが、当初は、占領地の侍の役目であった。
禅師から聞かされていたこともあり、当地の知識人階級であり、被支配階級で会った儒者は、何の役にも立たない“ゴクツブシ”という扱いになり、収奪の対象以外の何物でもなかった。
原住民にとって、労役を提供すれば、正当な対価を払ってくれ、一切の収奪行為や理不尽な強制をしない日本人、伊達家中に、その行いを学んだ南部海岸守備隊の日本人の侍が、従来の支配階級とは、全く別の新たな支配者として受け入れられていった。その様な訳で、日本人に執って住み易く、補給物資の貯蔵に適した、守りが固い環境
「城(倭城)」
が、後半戦では、瞬く間に、彼等の労力を使い、日本からの窓口でもある、南部沿岸地域から建設が進んでいった。
朝鮮の民に対する基礎知識があるという事で、伊達の侍たちは、専らこの地元民の労役駆り出し業務を担っていた、結果、戦闘行為の切っ先に立つことは、目論見通り、巧妙に避ける事が出来た。
その手の作業(戦闘行為)は、豊臣譜代や、恩顧の九州地区の武士団の作業、交渉は関西(府内)の譜代家臣団と言う感じに、何時の間にか、区分けされていた。
そう伊達の思惑は、殿下に
「懸命に伊達は働いている」
と言う印象さえ残せれば、そして実害は、極力出さない。目立たないが、(目付連中に)悪くは言われない。であった。
こんな土地は、せいぜい、ここ釜山あたりで東北程度、以北は、自領以下の地味しかない。事は、伊達家中の皆が心得ていた。ここに領地を与えられる様な『戦働き』をする事は、却って損な事であった。そう時間を経ずに、半島根本、大陸奥地も、所謂、大陸の東北部は加藤により、半島南部よりもっと悲惨な地味(農業不適格地)で在る実態が、日本軍全員に共有され、分かっていった。華南や華北を制しなければ“意味がない”戦であり、それ迄に、どれ位時間が掛かるのか?が専らの関心事項であった。
ソウォンは、いつの間にか言葉が通じる、眞乘や儀輔の“しっかり手下”の中に組み込まれていた。
彼を介して、現地人との交渉を進める事で、作業が捗った。基本的に彼は、知識は無くとも“健康で力のある素直な若者”を選んできた。
女に関しても、金の掛かる、その道のプロ的な女では無く、“素朴で従順で且つ向学心に溢れた者”から、許諾を得て提供された。
彼女達は、日本兵の褥の供をするだけではなく、武士や、そこに侍る日本人僧侶を含む僧侶階層から、読み書きや一般的な教養や調理(味付け)を学ぶ代わりに、飯炊きなど、一般的な家事労働を彼等に代わって、担って行った。
又、徴用の選択権(どの両班や儒者が、どれだけの”モノ“を蓄えているかと言った情報)も、彼等を介して齎され(もたらされ)、その情報は、正確で、効率が、高かった。
しかし、この彼の動きは、現地の旧支配者、しかも旧百済と呼ばれた方面から赴任して来た(持てる)者たちを狙い撃ちにするような傾向があったので、彼らからの、個人的な恨みを強く買う結果を招く事になった。
この現地旧支配者階級は、程なく、最も目立っていた、ソウォンを抹殺する計画を立てる事は、疑いようも無かったが、その様な情報は、基本“文盲”の現地で雇用している朝鮮人から、彼らの耳に、入る事は一切なかった。
ソウォン自身の生活も、日本軍が征服に来る前と後では、大きく様変わりしていた。そもそも屋根のある家で、暖を取れる事など、彼には、想像もできなかったが、今や屋根どころか、全てが、揃った家に家族(とは言っても拾って来た飯炊き女)迄、居る。身なりも、ソウォンだけでなく、彼の周囲に居る者は皆、眞乘や儀輔から、拝領した反物をアレンジして着こなしている。最も異なったのは、体臭を『香』を焚き染める事で、誤魔化す習慣しかなかった現地に対し、温泉が、あちこちにあり、既に風呂に入り身を“清潔に保つ”と共に、体調を整える“習慣”があった日本の侍の姿が、彼ら日本に協力する下層階級に浸透して行った事である。
武装こそしていないモノの、元々は白かった着衣が“殆ど”で、体臭が“臭い”非協力的、現地人(旧支配階級)と一見して異なっていた。
(要は、色や柄の付いた服をソウォンだけではなく、彼の周囲に居る者は、皆、身に纏い、小奇麗でさっぱりしていた)故に刺客は。彼等を特定する事は、容易かった。
刺客の第一番目は、元々日本人の占領を快く思っておらず、恨みを抱く、武班出身の者が担った。
彼は裏切り者一人を倒すのではなく、日本人も倒して名を挙げる気持ちがあった。
しかし、その考えが彼の仇となった。そもそも、彼ら、長らく当地で“支配階級”として居られた“階層”は、コテンパン且つ悉く、日本の被征服者に、虐げられる結果が、今回の戦の実相で、元々被支配階級で、実際に、日本人に協力的だった者は、初期段階で、立場が、完全に逆転した。故の誤解である。ただ、後々、遺恨として残ったのは、記録に残せ、伝達方法を持つ“階級”を虐げた事であったのだろう。
事実、朝鮮国王以下、旧支配階級を援助に来た。と、錯覚していた『明の軍隊』の狼藉は、冊封国である朝鮮国を助けに来てやった、と言う増長を生み、結果、現地の一般民は、搾取し、虐待されるだけで、何ら恩恵の無い、特にソウォンの属する階級には、明の軍隊を忌み嫌う結果しか生まなかった。
(ソウォン)
ソウォンは、彼の部下、実体としては、取り巻きと共に、眞乘や、儀輔を妓生の居る妓楼に招待しようと考えていた。
それくらい、一介の賎民に過ぎなかった、自分が、この立場まで来られる事を日本人に見せたかったのかも知れない?彼の胸中は、いざ知らず、眞乘と儀輔は、妓楼と言うモノを、日本国内(藩内)でも、未だ、経験した事が無い、初心な若者だったので、この申し出を快く受けた。
二人の日本人の侍(若者)は、さしたる銭も持たず、今日は、ソウォンの“おごり”だ。位の感覚で、非常に軽装で、そこへ向かっていた。そこに一人の巨漢の完全武装?した、見た目だけは、『剛の者』が立ちはだかったのだ。
この光景で周囲の人々は、糸を引くように屋内に隠れ、そこへは、ソオゥンの取り巻きも隠れおおせた。
眞乘、儀輔とソウォン三人に対し一人の武人らしき現地人、しかも武人らしき体の者は、胴回りの下着には、鉄鋲の様な物が刺さった綿襖甲の様な、よく見る、朝鮮式の甲冑を身に纏い、背格好も、少なくとも儀輔より、遥かに大柄で、眞乘と同程度、見るからに腕っ節は、一枚も二枚も上と言う形で、三人を睥睨している。
眞乘や儀輔も一応は、嗜みとして脇差程度は、差してはいたが、身に纏うのは、単なる着物(軽装)だけであった。ソウォンに至っては、小刀すら身に着けてはいなかった。
しかし眞乘と儀輔は、お互いを見やり、どっちが相手をするか?算段をつけているようにも見える。ここは、言葉の出来る眞乘が、ソウォンに
「後ろに回れ」
と指示したので、結果、矢面に立ったのは、武人より小柄な、儀輔という事になった。
これは、二人には理解できたが、敵が生きていられる時間が、短くなることを意味した。
そこで眞乘は、儀輔に
「生かしておけよ!誰に頼まれたか、吐かせる必要がある」
と大声で怒鳴った。が、時、既に遅かった。
大刀を振りかざして突進してきた敵の体は、あっという間に、儀輔の脇差で二つに割かれていた。まさにソウォンが初めて儀輔を見た時の、オオカミを屠った際と“全く”同じ、シーンが再現された、大きく違うのは上に飛んだ狼に対し、横から、朝鮮式の甲冑の隙間にある、胴部分を払われた結果、儀輔は返り血をほとんど浴びる事が無かった事である。今回も脇差には、刃毀れ一つなく、彼の抜刀術は、益々冴えていた。
脇差の抜刀故、完璧に真っ二つには、出来なかったので、少しピクついていた大柄の男の喉に、止めの一刺しをして、彼は、完璧に動かなくなっていた。
この間僅かに、ソウォンが瞬きを三度する程度の“間”で在った。
この状況は瞬く間に釜山の街で噂になった。『儀輔に逆らえば、体が二つになる。』
考えが回る、眞乘の気持は複雑であった。我々は当地で目立ってはいけない。と云う自身の策略が、今や、殿様の命令にまで成長し、自身に重くのしかかっていた。
また、現地ガイドでもあるソウォンは刺客に狙われている事も、この件で、はっきりした。
その狙わせている主体は、誰か?と言う目星は、ソウォンとの話で、あらかた見当はついている。ただ確たる証拠も無いので、ここは、炙り出す意味で、そこを徹底的に収奪の目標に定めた。
そこに、儀輔を連れて行くことは余計、目立つ行為であるが、効果と効率は、抜群で有った。
しかして、日本人、特に伊達家中の意に逆らう、当地の現地人は、程なく皆無になった。
その様な事態が、ますます眞乘の気を重くしていった。
とにかくソウォンを一人で出歩かせない。目立たせない事から始めた、彼の家には、眞乘とその郎党が同宿し、たまに儀輔も泊まった。
故に、飯炊き女以外の現地女性も、宿泊するようになっていったが、それらが、十分宿泊できる部屋数が、そこにはあった。
眞乘は、儀輔とも図って、ソウォンと、その取り巻きに、最低限の読み書きと、護身術を教え込むことを決めた。
そして彼もその意味(意義)が理解できたので、真綿が水を吸うように眞乘の教えを乞うた。
眞乘の護身術は、儀輔のそれとは異なり、刀を使用しない武術が基本だった。
唯、人に教えるという行為は、自身の知識の深さを問う行為でもあり、彼は、ソウォンに教えを述べるにつけ、今後の占領地政策の進め方や、結果としての伊達藩の在り様にまで思いを巡らせるようになって行った。
ただその苦悩は、非占領民の一人でもあるソウォンには、伝えず、おくびにも出さなかった。
そんなポーカーフェイスの眞乘の教える護身術は、ソウォンには、いささか不安があった。
儀輔の様な一撃による戦闘こそが、自分には必要な技術ではないか?と考えていた。街のチンピラに対応するには十分な武術でも、武器を持った刺客に対応するには“いささか”と言うのが“本音”で在った。
そんな彼が、木刀を上段に構えている姿を眞乘は、たまたま目撃した。
「ソウォンよ、その方、ワシが教える武術だけでは不安か?」
眞乘は、全く怒った素振を見せず静かに質した。
ソウォンは、旦那(眞乘)の気分を害したと忖度し、畏まって、首を横に振った。
「嘘を申すな、儂は怒ってはいない、何故其の方が、その様な気持ちになるのかも理解できる」
「ただ、其の方が、儂が当地にいる間、儂に支える。と言うならば、儂とて、其の方に
“道理”を授けねばなるまい」
と、言うと眞乘は、ソウォンの前に静かに腰かけ、ソウォンの目をじっと見据えた。
「良いか、儀輔の剣術は一撃必殺の剣である。然るに、これは、相手からの情報を得て、我が方が、諸々を考える“暇”が無い。よって、死地では、役に立つ手技じゃ。しかし、ここは戦場ではない、市井の民の暮らす場ぞ。」
「よくよく考えい」
最後の言葉には、気迫が籠っていた。そして少し声のトーンを聞き取れる限界まで落とし、
「まぁ良い、その方、その木剣で、わしに一太刀浴びせてみよ。遠慮は、要らんぞ!」
ソウォンは、恐る恐る大上段に振りかぶって見せた。が瞬く間に、彼は、組み伏せられていた。
「本気を出せ!このチャンコロ!」
眞乘は、わざと感情的な侮蔑の言葉を彼に投げつけ“挑発”した。
しかし結果は、もっと早く、彼は、地面に叩きつけられる結果を招くだけであった。
「良いか、この武術は、遠くは明国の少林寺の拳法や琉球と我国古来の武術を融合して、我が“師“が体得した物じゃ」
「徒や疎か(おろそか)な、モノではない。この信義を極めるには、言葉の力も大切じゃ。しかるに言葉の勉強も怠るな」
眞乘は、こう言い残して、彼の元を去った。翌日からは、眞乘に代わり、もう少し年嵩の行った、侍(とはいっても実践経験豊かな下級武士)が彼らの教練と勉学の師としてやってきた。
しかも彼は、全く朝鮮語を理解しなかった。
彼も、眞乘に比べ儀輔程度に無学であった、故に、日本語を教える為の勉学に対しては、絶えず上から目線で在り、厳しく、結果、学びに来ている朝鮮人の優劣の振り分けが、一層、激しくなっていった。
最終的に、残った朝鮮の若者=生徒の学びの深さは一段上がった。が、眞乘と儀輔が戻って来た時に、残っていた若者(朝鮮人)の数は、半減以下に減っていた。
しかし、彼らが拠点に戻って来た時には、皆、日本語で挨拶は、確実にできる様になっていたし、儀輔も、眞乘の助け無しに彼ら若者に指示を出せる様になっていた。(日本語の指示が判るようになっていた)その中には、しっかり、リーダー然として、ソウォンも残っていた。
眞乘と儀輔は、支倉の通便兼、間諜として、京城府の小西行長の元へ赴いた。日本軍は、朝鮮・明との和議の準備に入っていたという知らせを聞き、真偽のほどを調べるのが役目であった。
小西により第一次遠征の明軍も瞬く間に退けられ、オランカイと当時呼ばれていた、女真人(満州人)の居住地も、加藤により制圧されて、二人の李朝の皇子までその土産の中にはいた。
到着から半年を待たず、ほぼ、軍事的に半島全土を制圧したに近い戦果を挙げた日本軍の中で、さしたる軍功も上げず、もっぱら、兵站の努力しか、出来なかった(しなかった)伊達としては、そろそろ、引き揚げの潮時を探していた。そのための京城行きでもあった。
当地の仕切りは、九州と中国の侍(大名)に任せ、東北の田舎大名は、田舎に引っ込む。と云う体での申し出は、すぐさま小西や石田らの評定衆に認められた。
その前に、日本軍一方の総大将である小西らの命令の下、八月には、半島南西部の完全、確保を主たる目的とした、残党朝鮮軍の掃討作戦が始まり、当地(普州城)に派遣されて、始めて、伊達の軍は、実戦らしい実戦に遭遇し、約十日ばかり攻城戦に参加。実体としては“見学”し、儀輔や、眞乘だけでなく、伊達の派遣軍各将は、この激しい戦いで、派遣されている各大名の実力や事態の捉え方、考え方を判定する事が出来た。
西国の各藩も、伊達と同程度、引率して来た兵全体の半数の入れ替えが、戦勝後の評定で“評決”され、表向きは、来るべき明国本土への侵攻の準備に余念はなかった。
問題は、半島は占領した。しかし、その割に見返りが、ほぼ無い様な、痩せた地味の無い国状である。と云う認識が、全日本軍の中で常識化している事である。もしか?すれば、地下から金や、何らかの価値ある鉱物が、採れる事もあるのだろうが、占領軍にとっては、近視眼的に、自領との比較が全てであった。特に北部は、加藤軍の報告の結果、自領と比較して“何もない”程度に、貧しい耕作物しか得られない山ばかりの土地と云う事が、はっきり判っていた。
戦利品が、人間以外ない、のである。そして、唯一の資源である彼等は、単に、自身を虐げ、搾取するだけの李朝とその役人に代わる“己を導いてくれる”リーダーを欲しいていた。
ただ無闇に自領に、その様な、占領民を連れて帰る、しかも、ほぼ等しく、文盲で何の特技も無い、無学で奴隷状態に甘んじていた、人間達を連れて帰る事は、それだけ、自領の食い扶持が増える(領民や家臣一人当たりの食い扶持が減る)事を意味する。ここでは、僅かな書籍と人参、そして磁器職人以外の人間は、彼等にとって、役立たずの“存在”であり報奨や戦利品とは呼べなかった。
また、有能な磁器職人は、僅かであり、彼らは高額な報酬を持って最初に、戦地に投入された西国諸侯に、戦利品として迎え入れられていれた。
特産品と考えられていた“人参”も、野生のものを見つけるのは、至難の業で在り、栽培されている人参は、ほぼ無いに等しかった。
書籍も今の日本では到底受け入れられない、幾ら装丁や文字が美しく読み易く書かれていたとしても、読み易いが故に、実学的ではない、内容が、はっきりと理解でき、仁義や忠義等を熱心に説いている“朱子学的”な道徳観を説いただけの、彼等に執っては
「役には立たない」
書籍は、実力で、のし上がっていった、豊臣恩顧や戦乱に明け暮れて来た戦国気質の残る武士達には執って、価値を見出す事は、出来なかった。
故に、己に内省を求めない、他の“せい”にする事で、己の無能を省みず、自出や身分などに縛られる事を由とし、実力や能力に重きを置かない様な価値観に支配されていた、朱子学の儒者に洗脳されている高位の者(両班階級)の者と話しても、
「なかなか“埒が明かず」
当方の意図を汲めない。徐々に、当地の支配階級を例外なく“愚か者”として、日本軍は、遠ざけ排斥していった。それが彼ら、旧来の朝鮮王朝支配階級の反感を益々募らせて行った事は、仕方が無い帰結であった。
反物と言える価値のある布は、支配階級が秘匿していた。しかし、渡来品(明製の絹織物)を除き、現地で生産されたものは、非常に粗末であり、全く価値を見いだせなかった。
むしろ武具などの工業製品の整備や、食料生産の知識や調理法に関しては、現地人(ただし被支配階級)に教える事の方が多かった。彼等は、出自故、素直に、その教えを吸い取っていった。
美術品的、仏像や仏具は、時の現地政府の弾圧のせいで“皆無”であった、唯一、美術的、または、実利的価値のある陶磁器を焼ける職人は、今風の言葉で言えば“スカウト”されていて、彼らも当地の、奴隷に近い待遇より
「あらゆる面で待遇が良くなる」
このスカウトに進んで応じていた。
しかし、伊達は、これらの戦利品(職人)を得ることは、全くできなかった、故に、全員帰朝が、速やかに許された。とも考えられている。
江藤様、兼本様、宿舎に戻ると、ソウォンの少しアクセントが微妙だが、改まった日本語での出迎え、に儀輔は、面食らったが、眞乘は、配下の、足軽組頭の仁八に
「でかした」
と、後から“褒美”を取らせたが、仁八に執っては、さもありなん。と言う風情であった。
「この半年の間、よう精進したな“ソウォン”よ」
眞乘は、ソウォンに、そう日本語で言葉をかけ、仁八と儀輔に目配せをした。首を垂れてかしこまっているソウォンの背後に、かすかな気配がした、ソウォンは、その気配を見逃さなかった。仁八は
「ちゃんと鍛えましたよ!」
と、さも得意げに主人を見上げた。儀輔は、手にした木剣を構えることもなく、満足そうな、表情を浮かべ、眞乘と同じ様に
「よう精進した。」
とソウォンに声を掛けた。
後方の気配の主であった、足軽の一人は
「殿様、わしも鍛える側に回ったで」
と主である眞乘に、褒美を強請る節を見せ、首を垂れたが、眞乘は、その言葉、態度には一顧だにしなかった。
そして一言
「その方に委ねた仕儀の進捗や如何?」
と尋ねた。
そう彼には、刀などの武器に対する整備法を教える事も、眞乘は、仁八に命じていた。
「抜かりなく」
再び、この足軽頭は、深々と首を垂れた。
「左様か」
とその言葉と同時に、先の普州城で使われた(刃毀れの出来た)刀を、眞乘に恭しく差し出した。
「おお!」
「左様で」
この言葉のやり取りだけで。眞乘とこの足軽頭(仁八)は、意志が通じていた。
周囲には“然も在りなん”風景ではあったが、ソウォンには、これで互いの意思が通じる日本語の不思議さに驚きを隠せなかった。
眞乘はソウォンが、どの程度役に立つかを早速試したいと考えていた。
「どうだ?巻き狩りでもするか?」
眞乘の心根を察していたかのように、儀輔は、話しかけた。
「うむ其れは良い!」
眞乘に、異論はなかった。
しかし何の大義名分を持って、巻き狩りを挙行するかが?問題であった。
「巻き狩りとは?」
ソウォンは、その言葉の意味を小声で仁八に問うた。
「うむ、“巻き狩り”とは、武芸の嗜みの一環として、この辺りに生息する鹿や猪を狩る事じゃ」
「それはいかん!」
ソウォンは、大声で答えてしまった。
「なぜじゃ?」
儀輔が問うた。
「はい、鹿や兎は、この地では、重要な食糧です。狩りをなさるなら虎や狼と言った、人を襲う獣を狙って頂ければ、この地の人々の役に立ちます」
単純明快な、答えだった。
「しかし虎は、この地に表れる事は珍しく、狼は、この前退治して以来、この地で被害が出た。という噂は、出ておらんが?」
儀輔は続けた。
「メッテジ(猪)や野生の山羊の肉は、好まれますが、この地では、猪や山羊被害が大きく、且つ、捕獲が難しい生き物です。これを大量に捕獲頂ければ、この地の民は皆さまを敬います」
「左様か」
此のやり取りで猪狩りは決まった。
(帰国)
儀輔も眞乘もつい数か月前、文禄の役でも、激戦と呼ばれている普州城の戦いの戦勝宴席で起こった事件を忘れてはいなかった。明らかな逆恨みでは、あったが、論介と称した、一介の妓生が、この宴席で、加藤家の高位にいた武将を狙って、刺し違え、宴席裏手の大河に諸共飛び込んで果てた。しかし清正は自身の配下でありながら、以下、参加武将は、誰一人、それを押し止めたり、阻止は、しなかった。要は、酒席の上とは言え、妓生如きに、殺められるような武将は、幾ら加藤家の家臣であろうと
『ここには“要らない。”その様な“腑抜けた侍”とは、語らいたくは“ない”』
と言う空気が、この座を支配していた。
その為に、加藤を始め、主だった武将は、己自身を守るために、腰のモノ(脇差)に、手は、やっていたが、静観を決め込んでいた。唯、この様が、後の、国内最大の戦の遠因の一つでもあった。
そして、何らかの事情があるにせよ、ここ迄、辿り着いた女の、その最後の姿勢に対する“称賛”の意味も含まれていた。今迄戦って来た、自己保身しか考えない、腑抜けた、明・朝鮮の武将と比較しても
「敵ながら見上げた女子じゃ」
というのが、その時の雰囲気であった。
秋、刈入れが始まる前の猪狩り、ここで害獣でもある猪や山羊を大量に捕獲できれば。この支配下住民の歓心を買い、離反の心を遠ざける事が出来る。と云う共通認識で、許可は宇喜田家を通し、京城の加藤から、すぐに下った。
小西や石田では無く、加藤経由で本国へ具申したのは、宇喜田も実は、伊達家中と同じ、思いがあったからであった。具体的に、眞乘はソウォン儀輔、そして足軽頭の仁八が話し合い、綿密な下図を描き、上司(片倉)に、その旨を伝えた、上司は、殿にその旨を伝え、結局は、その上司の功績となるのだが、その手筈は裁可された。
台風が来る前に、帰朝の日程も決まり、伊達にとって、かさばるモノ(鉄砲用の鉛玉や火薬)は、この巻き狩りで、ほぼ消費してしまおうという意図から、勢子の役の足軽を除き、皆、大小は腰にしていても、弓矢の武装は、していなかった。
ソウォンを始めとする現地人は、あのような鉄の棒でどのように猪を駆除するのか?最初、理解は出来なかった。
しかも、多くの村人の見学は、弓矢とは、段違いに射程距離の長い鉄砲を使うという性格上、許されなかったので、
色取り取りの、美しい出で立ちの侍たちの巻き狩り。その出立時の行進を遠巻きに眺めるだけで終わった。
そこで、市井の人々には、果たして十分な「成果」が挙がるのか、想像も理解も出来なかった。
しかし巻き狩りが始まると、あちこちで、稲妻のような轟音が西方の山側、田畑のある方向から轟いていた。
予め、派手な衣装を着た、仁八など足軽は、同じ衣装を着たソウォン達、日本語が出来る現地人(生徒)を介し、猪のよく出没する場所や、その山林の地形を把握していた。
その風上側から、大きく山頂へと迂回してから、大声を立て、獣たちを風下側の田畑方向へ追い込んでいった。
稲原に身を隠し風上の山側からは、その姿を見せない“銃を構えた、仁八など、銃の扱える侍や足軽”は、各々の位置を目視されぬよう完璧に隠し、稲村に姿勢を低く隠れている。しかし、彼等は、驚いて風上の山から下ってくる“獣”に狙いを定めていた。
皆が皆、派手な衣装を着ているのは、人と獣を間違えぬ為、と言う事が、此処で理解できた。
次々と、田畑に侵入(脱出)を試みる猪を始めとする獣たちは、面白いように、この銃の餌食となっていった。
まだ戦う意欲の残る獣は、傍に寄って行った勢子の小刀により、次々と止めを刺されていった。
ソウォンも唯一、現地人として、その勢子の仲間に加えられ、眞乘拝領で、普州城の戦で刃毀れをし、彼が仁八や配下の足軽に習いそれを直した脇差を腰に刺し大きな猪に跨って止めを刺した。その際の感触は、今まで、自分が使っていた、現地の刃物とは別物で有った。ソウォンは、自らが直した物とは言え、その切れ味の鋭さに恐れおののいた。
僅か一時(二時間)の間に、猪の親子が合わせて十頭。そして最初は、止められていたが、田畑に侵入を試みた鹿も五頭、そして、これらを追いかけていた狼の親子が三頭、仕留められていた。残念ながら山羊は、見つからなかったが、これらは在来種では無く、倭寇などが食用として持ち込んだ個体なので、釜山周辺に出没が確認されていたが、今回は見つからなかった。
これらの獲物は、等しく市井の人々に振舞われたが、伊達の殿様を始めとする家中の者も等しくその相伴に預かった。この際、料理を一方で指揮したのは、ソウォンの家にいた飯炊き女であり(共に準備に勤しんだ日本の僧侶や足軽は、その飯炊き女の働きの良さに、目を見張った)、彼女は、眞乘や儀輔配下の足軽頭(仁八)から日本流の調理法の手解きを受けていたので、仙台から運ばれていた味噌仕立てで、釜山の浜で採れる海藻を使い出汁を取って、現地で初めて採取された、大豆で仕立てた豆腐やネギ大根の入った猪鍋が、家中の者の胃袋へと消えて行った。現地の者は、伊達の家中や日本兵が、防寒用に足袋の中に仕込んで残して行った唐辛子を飯炊き女の指示により、その鍋に砕いて投入し、塩仕立て(海藻を使い)で食していたが、これも案外、行けたのに一同は驚いていた。
現地の人間は邪魔モノとして取り合わなかった、海のモノから、塩味以外に、このような味が出せる事をこの時、学んでいた。
用意した日本の酒以外に当地の白酒も、そろそろ底をつき始め、宴席が、ひと段落着く頃になって、集落の長らしき身なりを正した老人が、恭しく朝鮮式の礼儀作法に則り、伊達の殿様の前にお礼の言上に出向いてきた。
眞乘配下と看られていたソウォンは、眞乘と共に、仁八に習った『日本式の作法』に則り、伊達の殿様の目を見上げず。傍らに着いた(勿論、儀輔の指示が、そこにはあった)彼(長)の手の中にある篭には、日本では、莫大な金額になるだろう“人参”が、収められていた。曰く
「今回のお殿様の狩りのおかげ様で、今年の収穫は、村人が獣に襲われる心配なく出来そうです。又、毛皮や肝、食べ切れなかった肉は、干し肉として冬に向けて貯蔵が出来るのも、全て伊達の殿様の“おかげ”である旨、お礼を申し上げます。これは、裏山の畑で、我が一族が丹精を込めて育て上げた五年物の人参で、この度のお礼として殿様に献上したくお持ちしました」
ソウォンと眞乘の通訳を介し“伊達の殿様”と呼ばれたその人物は、長々とした村の長老の口上に対し
「大儀」
と一言だけ発し、傍の用人(見るからに“身なり”が立派な、武士の一人)が、この長の献上した人参を引き取った。
そして他の用人らしき人物が、伊達の殿様の耳打ちを聞き、この長に尋ねた
「この人参は、その方が育てた、と申したが、資かと間違いは、あるまいな?」
ソウォンが訳すと、長は、深く首を地面にこすりつけ
「間違いございません」
と答えた。
伊達の殿様と呼ばれた人物は、横に目配せをし、三方に乗った金をこの長に与えた。まだ貨幣経済が無かった当時の朝鮮でも、金の価値が高い事は解っていたので、長は益々驚愕し、ひれ伏した。
「その方ら、この人参を育てた。と申すが、栽培法を知っているのか?」
ソウォンが再び訳し“長”に伝えると、長は目配せをし、後ろに控えていた“身なりのかなり汚い”農民らしき白丁階級の者が、列のかなり後ろで、長の真似をして“三跪九叩頭の礼”で殿様と呼ばれる侍を中心とした伊達藩士の前で、佇んだ。
「近こう」
伊達の殿様が、小声で発したのを聞き取り、眞乘が大声で、この白丁を呼んだ。
彼は、どうして良いか分からずにいたので、ソウォンが、列をかき分け傍に寄り、もう少し近くに来るように促した。
伊達家中としては、陶磁器職人は入手できなかったが、この農民は人的資源として持ち帰る価値があるか?を値踏みしていたのだった。
その魂胆が、すぐさま理解できた眞乘は、後を引き取り、この農民の情報収集と、この農民が属する集落の長との交渉に当たった。
勿論そこには、ソウォンが付いていた、その頃には、ソウォンは、眞乘の配下と家中の誰もが認識していた。
上杉家に旧領である会津地方を奪われ、そこで生産していた人参の栽培農民共々、上杉家に奪われて以降、伊達にとって人参の栽培復活は、悲願であった。この事実は、眞乘や儀輔でなくても、ある程度、殿様に目通りが適う家中の藩士にとっては、常識であった。
帰国迄の僅かな時間だが、この農民(名が無かったので)は、栽培経験が“ある事”が、分かったので、伊達は、人的資源として、連れて帰る事を決めた。その為、ソウォンにより四分と名付けられ、彼の妻は四派、娘は(四妓)シキと四阿と呼ばれるようになった(名付けられた)この家族は、全員ソウォンの家に移り、風呂に入れられ、仁八達による教育を受ける事となった。
妻と娘たちは、それ以外にも、ソウォンの家の飯炊き女から、日本流の調理法や雑事を仕込まれる事となった。
結局、若く日本語も朝鮮語も解せる様になってきた、ソウォンは、飯炊き女共々、眞乘の配下という形になった。
そして四分(シフン親子)は、儀輔預かりという形で日本に行く事となった。
最初、飯炊き女を連れて帰る事に“抵抗”を示した眞乘だが、儀輔に
「その方の家内には、年老いた母上以外女手は無かろう」
という一言で、この三十過ぎの老婆(当時は)を連れて帰る事になった。
最も大きな要因は、この儀輔の言葉であったが、ソウォンを通し、この女も、ある程度の日本語を話し、理解出来るようになっていた事も大きかった。
そして彼等には、共通して身寄りが、いなかった事も大きかった。当地に残るより、眞乘配下で居続ける方が、あらゆる面で、安心感が、彼等にはあった。
帰路は、日本に到着するまでよりも、伊達の藩内(仙台)に到着するまでが大変であった。時は、台風に襲われる懸念の無くなった、冬の初めであったが、内海である瀬戸内以降は、海が荒れ、海路を使うのが難しかった。
しかし朝鮮から来た一行は、結果、初めて今までの日本式の風呂とは異なる、日本の温泉と言うモノを経験した。又身なりも、名護屋到着と共に、朝鮮(釜山)に居た時に比べ格段に良いものが選べ、身に纏う事が出来た。
何よりシキとシアの十代になろうか?という若い娘達は、仙台に到達するまでの、見るもの全てが新鮮であり、ほぼ日本語の、仮名による読み書きが出来る、一方で朝鮮の言葉(漢文)は全く読めない様になっていた。
長い行程で、下級の侍達は、彼女達を我が子の様に可愛がり、色々と知識を授けていた事が、それには大きく寄与していた。又、飯炊き女とシハも貪欲に、日本式の生活の知識を吸収していた。
(大阪へ)
それから7年の月日が過ぎた。ソウォン殊、今や眞乘の右腕として日本名を与えられた、金本宗右衛門は、輪王寺に早暁禅師を訪ねていた。気軽に母国語で会話が出来る唯一の知識人でもあり、主人である兼本眞乘の師でもあり、自身とっても、教えを乞う大切な人であった。
そろそろ『身を固めねばならない』と主人には、言われていたが、その主人の眞乘も未だ、朝鮮から連れてきている年増の飯炊き女がいるので、衣食に関し“何不自由の無い”独り身の気楽さを謳歌していた。
これは、煙たい自分を屋敷から追い出す算段であり、眞乘は、宗右衛門が同じ帰化人である四妓と良い仲であることを眞乘は、知っていた。と云うより、家中では、公然の仲であったので、四妓も間もなく十八。とっととケリを付けてしまえ。という意味もあった。
今日は、その判断をつけるべく禅師の下を訪ねて来たのであった。
シフン(四分)は、江藤三八郎儀輔の所領地である、仙台の北陸前と、陸中の山間地で北上川に面した北側斜面を農地として開墾に勤しんでいた。この地は、朝鮮の故郷に、風土が近く人参の栽培に適している?と考えたからである。
しかし、もう少し瘦せた土地か?と考えていたが、この地は、地味が豊かで、人参の栽培よりも、簡単に商品価値が高く、安定的かつ安易に収穫出来る“作物”が、多く取れた。従って、商品にするために6年も待つ必要も無く、毎年順調に、且つ、日持ちが良いために、江戸や地方でも売れ、結果、利益の上がる“菌類”その中でも椎茸が作物の主流と、何時しかなっていた。
領主である、儀輔配下の足軽侍(農民兵)達も、朝鮮以来の関係であり、この収益だったので、朝鮮時代とは比較にならない位の豊かさを享受できた。シフン(四分)の指導の下、春の菜、夏の野菜、秋の米と菌類という季節毎の収穫物の量が、目に見えて増えていく事態は、周囲をして、彼をこの村の惣領に押し上げるのに充分であったが、彼自身が、渡来帰化人という自覚と、自身の自出から、表立つことを極端に嫌い、周囲を立てる。
その姿勢が、却って周囲の信頼を増幅していった。
その娘が、今恋をしている。儀輔の親友の配下である渡来人の娘と、帰化し眞乘配下の侍。村は、この恋を温かく応援していた。勿論、四分と四派夫婦の耳に、この関係が入るのに、時間は、要らなかったし、彼等にも何の異論も無かった。
その様な時に大阪での戦が始まった。会津国境を守護する後藤又三配下で、江藤組の鉄砲組頭である儀輔の配下でもある四分は、狩猟の役立つ道具でもある鉄砲の使い方に、直ぐ習熟して行ったので、彼を含む村の若者が、江藤家配下の鉄砲足軽として、後藤麾下の伊達軍団の一翼を支えていた。
一方目通りが適う召上から、勘定方に抜擢されていた片倉家配下の中心をなす、兼本眞乘は、既に伊達軍団の兵站の役を仰せつかっていた。この時(俗にいう大坂冬の陣の時)も寒さに強く、関ヶ原で駒姫の件から、石田に恨みを持つ伊達軍は、今回も、徳川方についた。
西から来た大名や、元々、温暖な駿遠地区の徳川配下に比べ動きは、俊敏で、朝鮮で採った姿勢そのままの手筈で、豊臣方と徳川方の勢力の懐深くにまで『潜り込み』、両者勢力の値踏みに“励む”事が出来た。その核心を成したのが、兼本眞乘配下の部隊であった。個人的な恨みや、利害関係のない豊臣方の中でも、最強と謳われた真田への浸透は、思わぬ収穫であった。
金本宗右衛門と禅師が、個人的な相談で話し込んでいる処へ、眞乘が加わった。
結果、宗右衛門は、自身の事を話すのを止め、夏の戦支度の話に変わった。禅師は
「朝鮮と同じ構えで行くのか?」
と眞乘に質した。
「実に」
そっけない答えで会ったが、禅師には、得心が行っていた。
しかし宗右衛門は、意味がつかめない顔をしたので禅師が、砕いて、しかも朝鮮語で話をし始めた。
「要は、戦う振りをして、再び戦わぬ。という事じゃ」
まず、禅宗(臨済宗)の僧侶らしく答えから先に話すのが禅師の話し方の特徴である。
しかし、宗右衛門は、故に、益々意味が理解できなかった。眞乘は、含み笑いをして、宗右衛門の顔を覗き込むばかりであった。
「殿様」
この若者は、上司である眞乘を何時しか、そのように呼ぶ様になっていた。
泣きそうな顔つきになっていた。
この当時、国際情勢などという言葉は、無かったが、伊達藩は、今風に言えば、国際情勢と云う概念の下、世の中の分析が、徳川と共に最も進んでいる、俯瞰して大局を見計らう事の出来る藩(勢力)であった。太閤の命で朝鮮に出兵したのは、彼の意思に
「従った」
のではなく、まして
「隣の大国である」
明国を占領する為でもない。
ポルトガル、イスパニアを始めとする、遠く離れた南蛮国家が、耶蘇教(カソリック・キリスト教)という隠れ蓑を身に纏い、天竺沿岸部やルソンの様に、本邦を植民地化する事を阻止する為の橋頭保として、明国迄を勢力圏に収める、という、伊達に奥州仕置きを納得させる際に説いた“太閤の言葉”その意義(大局観)に、深く感銘し
「得心をする」
振りをして、単に、当時の権力者に目を付けられ無駄な国力の浪費を避けるための“最良のポーズ”が、今までの、伊達の態度であり、ついでに、日本の東の端に位置する“我々”が、内戦が終わり、今や具体的には、解り難かった日本の西の端に位置する、軍事強国の(薩摩と、それ以外の西国に布陣する豊臣や徳川恩顧の譜代領主と兵団の)力量と言うモノを冷静に判断する為の場が、朝鮮であった。
そして、この遠征で導き出した答えは
「豊太閤亡き後、我々に勝る事が出来る勢力は、徳川勢以外にはない」
と云う君臣の共通した意識であった。伊達政宗自身が強く、その点を強調していたし、眞乘以下、早暁禅師門下の若者も、その答えには、得心していた。
従って端から、秀吉亡き後、豊臣の後継者が未熟、また。豊太閤恩顧の武力こそある“譜代親藩”や“重臣”が、近視眼的な観点しか持たない“藩(地方勢力)”でしかなく、大きな抑えが、亡くなれば、豊臣家内の譜代親藩間で、大勢力を中心にした“内紛”は、必ず起こる。と断じ、関が原で、その判断は、確信に変わり、以降、後継者や譜代の重臣が家康に対する忠誠心に溢れ、充実している上に、深謀遠慮が効く、徳川家康以外に加担する意思などは、政宗のみならず、伊達家中では、皆無であった。
が、一方で、豊太閤の言葉の中で、南蛮が、我々を他のアジア人とは異なり“特別視”するのは、我々にそれだけ魅力(財力と武力)があるからだ。
という考えが、漠然として伊達家中では、共有されていた。
『ただ彼等には、我々には“無い”技術力がある事も、はっきりしている。』
結果、藩内での議論の中心は、現在の南蛮(欧州)内で、最も戦に役立つ(軍事)技術と財力を持つ勢力は誰か?そして、その力を有効に自軍に引き入れるには、どのような対策と対応を取るべきか?と言う形に、家中では、上も下も考え方が収斂されていった。
従って、単なる内戦である“大坂の陣”で国費の消耗をする事など
「在っては、ならないのである」
伊達の金庫番であり、知恵袋である片倉家。その中で鍛えられていた眞乘や、禅師に教えを叩き込まれている、若い伊達家中の次世代は、このコンセンサスの下、機動的に動いていた。
この考え方を宗右衛門にも、そろそろ、嚙んで、含んで、教えなければならない。眞乘は意を決した。
「禅師、もう少し嚙み砕いて、此奴には、事の次第を教えましょう」
禅問答は、この一言で終わった。
宗右衛門は、生まれ故郷の自身の『上に立っていた』人間と『殿様』そして禅師の考えや、我々、下々に対する考え方の違いに、改めて感じ入っていた。理を諭し、得心させて、従わせるやり方は、頭ごなしで済崩し。
且つ、力尽くで、やたら、慣例や“仕来り(きたり)”に重きを置き、既得権益に拘泥し、停滞を安定と勘違いしていた『勢力』が、我が殿の様な考え方を持つ武士(日本の侍)に勝てないのは、道理だ。と、再び得心していった。
能力があれば、能力を示す場が用意されている、出身や、身分など固定されず、地位が上がり、官位が得られる。
この時代の日本。そう、弱小の一辺境の領主だった織田、農民最下層出身の豊臣に、身分違いを『盾』に、最後まで抗った勢力の末路は、確実に、能力ある彼等の前に、圧倒されるか、滅ぼされ、その『ささやかな』尊厳に拘泥する勢力は、木端微塵、且つ、完膚無き迄に、否定され、末路が、悲惨極まりない結果、生まれた、“真の実力者集団”階層が、今の侍であり武士階級である事を禅師や、眞乘から口を酸っぱく諭されていた。その事実を改めて思い出していた。
「となるとじゃ」
眞乘は宗右衛門に指示を下す段階に入って行った。
片倉の家臣団、宗右衛門以下、眞乘の配下は、真田配下の武士団の専属の武器の整備を専ら受け持つ事で、いずれにも加担していない、出入りの“職人”という体裁で、昨年の秋以来、かなり大阪城内に食い込んでいた。彼らの救出と麾下への調略(篭絡)。これが、今回の指令の中心であった。勿論、真田信繁以下、彼の重臣の助命は、端から無理であったが、彼達に義理を売り、有能な家臣を引き抜くことが、今回の使命である。その有力者の選別が、宗右衛門以下、眞乘の配下に与えられた命令であった。
少し言葉が微妙な、宗右衛門は、その様な眞乘配下の『刀研ぎ集』の中で、腕の確かさと、控え目な態度から、後世で“冬の陣”と呼ばれた、大規模な戦闘が終わり、後に道明寺合戦と呼ばれる春、桜が散る頃から始まる大坂夏の陣の初戦頃までには、真田家の有力な家臣の、高梨内記の刀を始めとする、武具の整備を任されるようになっていた。
結果、直後に起こった豊臣勢による堺への焼き討ち事件に遭遇しても、飛び火が、伊達の宿営地に迄、及ぶ事は、無かった。
彼等は、武器整備に必要な水の便を考慮している。と云う名目で、集団で、堺の手前、西成の名水地でもある、天下茶屋付近に、集落を構えていた。
今の西成とは違い、そこは鬱蒼とした森林地帯でもあり、武具装備を隠し置くには、もってこいの場所でもあったので、最終的に夏の陣で、伊達が本陣を整えた場所でもあった。
その様な邑に、身のこなしの軽い一人の男が訪ねて来たのは、まだ雨期になる少し前、そろそろ暑くなりかけてくる、旧暦4月の中頃であった、此処には、男しか?おらんのか?昼間の邑は、女子供の気配が全く無く『非常に静か』であり、彼が、何件かある、昼間は無人の小屋の中から、宗右衛門の住処を探し出すことは、容易かった。
夕闇が迫るまで、彼は、人気のない、辺りをくまなく探索し、この一帯が、唯の邑ではない事も掴んでいた。この男の名は横谷庄八郎重氏と言い、真田の忍びの者の頭領格の人間であった。
彼は、暫し、この村を観察する事を決め込み、彼の連れ着てきた、配下の一人を呼び寄せ大阪城中に走らせた。
そう彼の配下だけで、この邑を殲滅できる程度の頭数は、用意しているのである。そうとは知らぬ、仁八を頭とする、この邑の男達は、少し酔った風情で小屋への帰路についていた。
彼等は、自給自足が原則故、普段は、大坂府内の街で、各々の特技を生かして、生きていくには、十二分のシノギを得ていた。
勿論、食事には、当時、既に太閤殿下のお膝元でもある大坂。困る事は、無かったのだ。この数日の観察で、横谷は、この村を実質的に管理している者が、仁八。そして宗右衛門のこの村に於ける立ち位置などを完璧に把握した。
そんな新月の夜であった。残念だが、酒がからっきし弱い宗右衛門が、寝酒を嗜み、床に就こうとしている時に、不意に、横谷が、彼の背後に表れた。そう宗右衛門が、全く気付く事なく彼の背後に、横谷は居た。
「言葉は解るな?」
少し信州訛りだが宗右衛門には、その意味が、はっきり理解できた。
「へい」
そう答えるしか術は無かった
「その方、実体は、どこの家中の者じゃ」
横谷の質問には、忖度も、容赦も、無かった。
正直に答えなければ消される。それだけは、宗右衛門にもはっきり分かった。
「片倉の配下です」
「片倉だと!すると其の方は伊達の者か?」
「へい」
「当地の当目の名は、何という?」
「兼本甚八郎眞乘様配下の村田仁八様です」
「では、その方の名は?」
「へい、金本宗右衛門と申します」
「侍か?」
「サムライ?いえ、朝鮮からの帰化人です」
宗右衛門は“侍”ではない。そして使命を果たせず殺される事は、無意味。
武士の持つ美徳や死生観等は、全く持ち合わせてはいない。然るに、ここで無駄に殺されては、眞乘を主君として仕えていく事が、適わない。それは真っ平御免だ。
という気持ちでいるに過ぎなかった。
故に、自身の助命の為に、頭はフル回転していた、結論として、出した答えが、この者に逆らわず、『聞かれた事は、正しく素直に話す』で在った。そしてベラベラと、仙台での事を話し始めた。
「ホウ。その方らは、儂らの助命をしたいと申すのか?」
「へい、命をかけて守るべきではない、有意な人間をむざむざ殺すのは、よくはない。それならば有意有用な人間は、生かして活かしたい。と言うのが我が伊達。片倉様や兼本様のお考えでございます。」
「ほう、では秀頼公や我が主君は、命を懸けて守るべき人間ではない。と申すのか?」
「いいえ、それは違います。儂らは、城中に入り、ご存じの通り、私は、城中で皆様をよく観察してまいりました。私をご贔屓にして下さっている高梨様など、無駄死にすべき“お人ではない”と判断いたしました。」
「しかし、高梨様や真田様のお立場上、そうも行きますまい。という事は、私や上の者も理解しております。」
「唯々、残念ですが、我が、伊達を始めとする徳川方に、どう足掻いても、大阪方は、勝てますまい。というのが、正直な、我が方の見立てでございます。我々も、朝鮮の戦をつぶさに経験して来ておりますので、この見立てに、狂いは“ない”と存じます。」
宗右衛門は、いつも以上にゆっくりとした口調で答えた。
「ホウ、朝鮮の戦とな?どう云う事じゃ?」
「はい、明、朝鮮が、日本に、武力で負けたのは当然だった。という事です。特に朝鮮には、守るべき頭が、居なかった。」
「儂等を支配し、儂等に命令を下す階級は、儂等から、如何にして搾取するか?そして自身の、自身の血族のみの“繁栄”のみ、考えていました。国として、集団集落としての繁栄を全く考慮していませんでした。その様な国、それを治める国王や、階級は、儂等、下々の手足足るべきモノが『損得勘定』の下、見放して当然、結果、武力で負けて“当然”なのです。幾許かの、個人的な、又は、身近な恨みで、日本に相対した人間もおりましたが、儂等、伊達様の下、眞乘様や、片倉様から、多くを学んだ者から見れば、そいつらも、相手の事(実力)を知らぬ、無知から来る、利己的で、近視眼的な考え方の延長しか持たぬ“愚か者”と考えております。」
「今の大阪方の頭目は、秀頼様では無く、客観的な状況や体制が、把握出来ない面目だけを大切にしている“同じ穴の狢”で、愚か者でございましょう。故に真田様たちの意見を聞かぬ、取り入れぬ。然るに、儂らの経験則が、そのまま当て嵌まるのでございます」
「ほほう!その方に、その様な、目と知恵を授けるとは、兼本氏とは、相当な人物じゃなぁ」
横谷は、すっかり、宗右衛門の言葉に、感心していた。
「いいえ眞乘様だけでなく、伊達の殿様、禅師様、片倉様から、私は、多くの事を学んでおります。勿論、仁八様からも、です。これらの御仁の、戦に対する見立ては、伊達家中では、皆が、共有して居る考えでございます」
少しだけ、宗右衛門は、気が大きくなっていた。
この忍び込んできた横谷という人物は、どうやら自分を誅しに来た人間ではない。という事が解ってきたからであろう。
「お、侍様」
宗右衛門は、続けた
「宜しければ、明日にでも、仁八様とも、お話を成されては如何でしょう?」
宗右衛門は、横谷が納得して帰ると踏んでいた。
「私が、明日朝一番に、仁八様には、話を付けておきます」
「左様か、では、しかと頼む。」
と言って、燈明の火が消えたと同時に、横谷の姿は消えていた。
夜が明けた時間を当時は“朝”と呼んでいた。今ならば朝5時過ぎ、横谷は、一人で宗右衛門の小屋の前に立っていた。
しかし、横谷が小屋の前に立つと同時に、仁八以下、邑の総勢は、横谷を囲っていた。
しかし横谷は、怯んだ素振りも見せてはいない。そう邑の周囲は、横谷の配下が遠巻きに弓を構えていたのだった。
そこへ、仁八や、宗右衛門の陰に隠れていた彼等とは、一段身形が違う侍が、はだかった。
「申し遅れました。この村を差配する、伊達家家中の兼本甚八郎眞乘と申します。差し障りが無ければ、其許の御名をお授け頂けませぬか?」
「おお、其許が兼本殿か、拙者、真田家家臣横谷庄八郎重氏と申す」
「おお!あの真田家に、その人在りと謳われた御高名な横谷様とは、其許で御座ったか。これは有難い」
「宗右衛門!」
眞乘は、宗右衛門を呼びつけた。
「愚か者!儂達とは、格が違う!殿様を読んで参れ!」
「へい!」
宗右衛門は“格”という言葉の意味は理解できなかったが、畏まって、眞乘の命に従い、馬を走らせた。
「あの帰化人、馬も扱うのか?」
横谷が呟くのを、眞乘は聞き漏らさなかった。
「はい拙者が、あの者を連れて帰ったのは、その物覚えの良さ、その正確さ、からでございます。抜刀術こそ、未だ教えておりませぬが」
「ほう!」
横谷は、右手を上げ、配下の武装を解いた。
「むさ苦しい小屋ではございますが、こちらへ。」
と言うと、眞乘は、仁八の居住する、最も、まともな小屋へ横谷を導いた。
眞乘配下の足軽たちは、仁八の指揮下、湯を沸かし、茶や、朝餉の準備をし、横谷配下の家人達を手招きした。
半時も経つと、両家の家人同士は、和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気を醸し出していた。その様な中、宗右衛門と共に、若い片倉小十郎重長が、やってきた。
「おお!片倉と言えば、伊達家の軍師たる御家柄。これは、これは、痛み入る」
横谷は、遜る口調ではなく、心から礼を述べた。それは、若い片倉にも通じ。
「いいえ此方こそ」
と自然に会話の意図が互いに伝わって行った。
此処で、具体的に、真田家人の中の、大阪城内に居る、加冠や裳着(成人に達してない)を済ませていない若い子供達を全員生かす。その手順が、ほぼ、決められた。そこには、後に片倉小十郎の嫁となる真田信繁の息女も、そして、真田家を伊達家中で再興する次男大八が含まれていた。
真田の戦いは見事であった。当時、大御所と呼ばれていた徳川家康本陣に切り込む事が出来た。が、それまでで、在った。
真田の別動隊、眞乘や片倉と相対した横谷庄八郎重氏の忍びを中心とする隊列も見事で、家康の跡継ぎでもある、現将軍徳川秀忠本陣も、彼等によって切り刻まれた。が、そこまでで、在った。
数と、装備に勝る徳川は、前の戦(冬の陣)での“汚名返上”を図る事に躍起になっていた、松平忠直の側面からの攻撃により、壊滅した。
最初の攻撃で、真田の前面に立ちはだかった伊達本体は、手向かう者には、容赦は、無かったが、そうでない者(事前に話し合いがついている者達)を後方の松平や浅野、右側面に居る徳川方に、諮られぬように海側へ逃がし、隠し続けた。
(江戸へ、目を開く)
論功行賞が終わり、良く言えば伊達の勢力は、増殖した。が、実際のところは、二つの勢力に分割された。
古参でも、忠義心の熱い者、故に、考えが古い剛の物は、政宗の配慮から、庶子ではあったが、実績に文句のない長男である、兵五郎秀宗に付けられ、加増され、“四国宇和島”に移り、新たな伊達藩を興す事となった。
この措置は一見、伊達に対する『加増』には見えるが、日本の端と端。しかも一方は、四国と言う島に領地を与える事になるので、実質的な、伊達勢力の分割政策であることは、誰の目にも明らかであったが、それだけ、伊達と云う外様の家系が強大に成った“証”でもあった。伊達の新たな知恵袋と、その頃は呼ばれていた、片倉配下の兼本眞乘は、親友、江藤儀輔と共に仙台に残り、この人事の一切を片倉、しいては、伊達政宗に任されていた。
この人事の『肝』は、大御所以下幕府中枢に、当方の意図を気取られない事。
の一点に尽きた。それほど、大坂の陣で徳川側が見せた“南蛮由来の軍事技術”は、凄まじい物であった。
伊達は、同様、同程度の技術と、能力を得る為には、再び雌伏しなければならない。これが政宗以下、家中首脳の一致した意見であった。
旧来の武力武功に優れた者、そして忠義心の熱い、頭の固い小回りが利き難い者が、宇和島の基礎を作る役へ抜擢される。という事は、仙台は、江戸(駿府)には、歯向かう気持ち等毛頭ない。と具体的に示す必要があったのだ。
しかし、この判断が、二年後、宇和島の悲劇を招く人事に至る事迄は、想像できなかった。早暁禅師門下の人材は、押しなべて、この論功から(自ら進んで)外れ、実力は、好きに行使できても、確実に、年長者より低い役職や加増に甘んじる事で、宇和島に行く者から、仙台に残る事に、異議が出ない様、配慮した。
政宗以下、仙台に残った者は、新し物好きの『屁理屈捏ね』の若造と言う『体』を徹頭徹尾通したし、政宗自身、この頃、爺の色ボケと言う態度を大ぴらにしていた。
所謂、正妻を亡くした正宗の妾は、金髪碧眼の北狄か南蛮の紅毛人を据え、それを、徳川の幕閣や、有力諸将の前で、見せびらかせ、幕府の猜疑心を失わせる事に、傾注していた。
その様な経緯の中、時間経過を経て、幕府からの許諾の下、南蛮人ソロテの“言に乗る”振りをして、遣欧使節団の許諾を得る事に、成功し、一方で、家康の秘蔵っ子でもあり、南蛮の敵でもあった、イギリス人、三浦按針と、政宗の右腕が期待する若者でもあった、兼本らは、江戸の大改造の折に、親しく会話をする機会を得た。
要は、亡き豊太閤以降、家康以外で、国際情勢の重要性を認識し、大局的な“バランス感覚”を唯一持っていたのは、豊太閤の教えを直接聞いていた伊達政宗、及び仙台の伊達家中だけであった。
三浦は、勿論、日本人と妻帯した事も大きいが、前年同僚のオランダ人耶揚子と袂を分かち、彼のみが対外交易に従事できたのに対し、幕府の外交顧問と言う事と、彼を現在の身分にまで引き立てていた、大御所が、主に駿府に引き籠った事で、徐々に、江戸(幕府)に於ける、自身の権威と反比例して、その立場が弱くなっていたので、比較的自由に時間が持てた。
その様な事情もあり、居を構えていた江戸日本橋に、有力な外様の身内ではあっても、家中の跳ねっ返りの若造と見做されていた、眞乘以下の早暁禅師門下の若者は、ちょくちょく伺候して話を伺う事が出来た。
この頃、各藩、特に外様は、幕府に対し、その忠義の深さを示すべく、率先して江戸の大改造に着手し、屋敷も、江戸に構えていた。伊達家中の次世代を担う若者が、その様な環境下で、得た知識は、殿(正宗)から聞いていた、南蛮(主としてカトリックのスペイン人)の考え方。即ち、我々と同じ人種に対し、彼等(南蛮人種)が執ってきた政策が、亡き太閤が懸念し、大阪で殿(正宗)に話した内容と合致している事。
彼等、紅毛人(プロテスタントである英国やオランダ人)も、彼等と、貿易問題で対峙している事の確認作業から話は、始まっていた。
彼等は、彼等で、彼等の本拠(欧州)で、未だ戦国の世を戦っている事、その理由内容も、かなり“驚き”であった。
故に、南蛮渡来の武器には進歩が在った。しかし三浦の個人的感想では、日本の小型武器は、南蛮、紅毛のそれよりも、進んでおり、しかも戦士(武士)の戦闘能力に至っては、体格差を考慮しても、日本の方が遥かに勝っていると捉えていた。しかし、今迄の征服の経験から、本国に居る南蛮人や紅毛人は、その様な報告や、事実を認知していない。要は、大陸、半島に於ける先頃の戦いで、朝鮮は基より、実態として、彼等を震撼させた蒙古の末裔と捉えられていた女真人や、明国(漢人)の国軍が事実上、日本の軍閥の軍勢に負けた事は、非常に大きな衝撃として、征服した地域の、南蛮、紅毛人の首脳部間(本国から任地して実態を知る南蛮紅毛人)には受け止められている。
しかし、南蛮本国(欧州)では、彼等が征服したアジアやアメリカ地域の人種と日本人の戦闘力や武力は、変わらない。と言う、考えがまだ支配的であろう。と言う見解だった。
故に、日本に対し、心底惧れを持たず、敬意も無く、キリスト教の文化を未だ知らない野蛮人と捉えている。
本国の人々の事を『愚かだ!』と最後は、吐き捨てるように断じていた。
また、実は、彼には英国にも、妻子がいる事。そして南蛮と英国やオランダは、この本国から遠く離れた東方の地で、覇権を争っていて、自身も、若き日に、欧州の海域で、実際にあった、対スペイン(イスパニアではなく、スペインと彼は、呼んだ)との大きな海戦に従軍し、南蛮(スペイン・ポルトガル連合)海軍を打ち負かしていた戦士であった事。
オランダは、その間で、所謂『漁夫の利』を貪る狡猾な人種であるとも、伝表していた。これは、友人だと思っていたオランダ人でもある、耶揚子の裏切りが、言わしめた言葉ではないかと、その時、眞乘も儀輔も感じていた。
しかしその様な話の中で、彼等に最も響いた三浦の話は、特に原理主義的なカトリック教徒と言う者は、往々にして『まぁまぁ』とか、『そこそこ』と言う概念が無く、白黒をはっきり、旗幟鮮明とする事を求める事、自身も、その点に苦慮しているという事であった。彼が日本に来て最初の頃、徳川大夫の傍で伺候していた際、敵方の将(石田や小西等を指していた)の多くが、この白黒をはっきりさせる事を求めた。故に、家康様が勝ったのだ、柔軟な考え、物事の捉え方に中庸の概念を欠く組織は、必ず敗れるという事をこの時、異国の地でも思い知った。それなのに、親友と思っていたオランダ人で貿易商人の出であった耶揚子と、元々英国の兵士であった自身の決定的な差は『その認識の甘さ』にあった。と、彼は、今になって後悔していた。
三浦等の、元々兵隊上がりの英国人やカソリック教徒と、その兵士の仲では、『白か黒』『是か非か』と言う概念が“未だ”支配的であり、その中間で妥協し、折り合いをつけ、結果としての実利を採る。と言う概念が“決定的”に欠如している点に、往々として留意すべきと強く示唆された。
耶揚子の様なオランダ人や日本人、特に畿内の中心を成す、堺や近江の商人等は、利に適えば、信念と異なる場合でも、妥協をする。いや、妥協し納得した様に見える。殿である伊達政宗公のみならず、眞乘レベルでも幾度となく理不尽でも諾々と相応し、しぶとく生き残りを図った経験があった事をこの示唆は、思い起こさせた。
その様な理不尽を許容出来ずに、自ら進んで死を選ぶ事こそ“愚かな事”
日本人の名誉の為の切腹や殉死と、彼等の是非や観念の差から来る“自死”の違い、主義に捕らわれず、生き延びる事を図り、待望を達成する。日本の一方の死生観の差(矛盾)を彼等、紅毛の一部や南蛮人は、理解できない。眞乘の心に、この示唆は深く刻まれた。
二年前に起きた、大津波に伴う被害により、当時の仙台は、コメの栽培に適した平野部が、酷い塩害にあいコメの採れない地域が広がった。この事態は、都合よく当地を訪れていた“スペイン人”からの情報により、裏打ちされたので、表面上の石高の割に幕府からの賦役義務は、低く抑えられていた。
しかし、家康以下、カソリックの伸長を怖れ、また豊臣以外や豊臣恩顧の大大名の勢力を減退させる事をいまだ命題に置いていた幕府にとっては、政宗の功名心をうまく逆手に取り、当時スペイン王からの親書に対する、答礼の為の遣欧使節を仙台が主体で行うように命じる事で、仙台の体力を奪う事を図った。
ただ、これはある意味では名誉な事であり、南蛮の最新技術を入手する手段を得るチャンスではあった。が、一方で、確実に江戸城や街の整備賦役よりも重い、金銭的な負債を抱える事でもあった。
暦が元和(1615年)に改元された、その2年前、遣欧使節が、月の浦を出港したが、2年経って、この伊達の遣欧使節団の中で、軍事力の中心でもある、雑兵を主体とした表向きは商業使節が、なんと、行きの倍の行程、即ちルソン経由で、平戸から仙台に引き返してきた。これは支倉以下10数名程度の正史(上級武士)以外の日本人は、スペイン(欧州に)に行けていない事を意味していた。
仔細を訪ねると、途中のアカプルコから中心都市のメキシコシティーに於いて、一行が、当地の現地人に混ざっていたキリスト教徒の日本人と、当地の征服者であるスペイン人の争いに巻き込まれ、人種的に近かった(しかも、通訳の日本人がその中に居た)インディオ側に着いた商人を含む伊達勢が引率した日本人の戦力の“凄まじさ”に、恐れをなした、総督府(副王)が、答礼使でもあり、彼の後任にもなる、セバスティアン・ビスカイノを通して、支倉と通訳のソロテに、(仲介)のとりなしを依頼し、その結果、スペイン本国への渡航人数を伊達藩の正史(上級武士)のみに制限した結果らしかった。しかしその為、この商人(雑兵)団の中に紛れ込んでいた、幕府側の密偵も、支倉達、仙台藩の中心メンバーに、体よく追い返される結果になった。これが月の浦出港後半年の間に起こった事件の、大凡の顛末であった。
この頃になると、(1615年)5月で滅びた大阪方(旧豊臣)の残存勢力は、無視して良い程度になっており、徳川の世は盤石なものとなっていた。伊達政宗自身、家康以下、徳川体制に逆らう意思を遠に捨てていて、その事は、二代将軍秀忠以下幕臣も認識していた。そこに、この情報がもたらされた。
家康の意向を汲んでおり、秀吉の薫陶も頭にしっかり残っていた、伊達政宗は、既に秀忠や幕臣とも協議し、スペイン以下、カソリックの侵略に対する処方箋を考えていた。勿論、この政宗の考えは、三浦に薫陶を受けた、眞乘以下、片倉の“頭脳”と呼ばれた若者達の考えが下敷きとして在った。
伊達の首脳部は、幕閣との間で、腹蔵ない話し合いが出来る間柄を既に構築していた。
故に、支倉以下、遣欧使節団がローマやスペインに行き、カソリックの布教を伊達の名で、日本国内に認めてしまう事態を何としても避けるべき。と言う結論、その責任は“伊達”にある事で、話し合いは、収斂されていった。
片倉は、当時幕府のインテリジェンスの統括者である、二代目服部半蔵と協議の上、彼の手下であり、優秀な“伊賀者”でもある若者“服部稲造”を同行させる事。勿論、片倉に、依存などあるはずも無く、片倉は、伊達家中の選抜である彼の秘蔵っ子でもある眞乘、そして彼等のボディーガードとしての儀輔をこの平戸派遣団に選出し両者を服部の麹町にあった屋敷内で対面させた。
平戸のオランダ商館長でもあり、三浦から、よく話を聞いていた、耶揚子に、幕府や伊達家中が白羽の矢を立てるのは、この話の流れでは、当然であった。
大きな国内の戦は終わった。とは言っても、そこには毛利や黒田、島津と言った有力外様大名の領地や領海を通過しなければならない事は、明らか、又、行く手段は、スペインと敵対する、オランダ、イギリスの便を使う行程になるので、儀輔の参加を下命し、更に、腕に覚えのある服部が加わって貰う事は、眞乘には心強かった。
実際、国内での移動は、移動速度(時間)と、危険回避の為、瀬戸内の航路の使用が多かったが。九州大分から平戸までは、陸路をどうしても通らねばならず、その際、宗右衛門が感じた安心感は、平戸に居た、耶揚子にも十分伝わっていた。
事実、全ての関所や山間で、歴戦の勇士でもある“猛者”の彼等を疑ったり、襲う“愚か者”は、皆無であった。
支倉以下遣欧使節団は既に、欧州の地に到着しているだろう、只、平戸の商館長でもあり、日本とオランダの窓口でもある、耶揚子が。既に得た最新の情報では、彼等は1年近く経っても未だ、スペインに留め置かれており、耶揚子の目利きにより、この屈強な若者であれば、最短コースである、当時オスマン朝に支配されている地域であった、エジプト経由の陸路で地中海に出る事が可能で、それならば通常の航海の半分の日程で、イタリア(欧州)に到着する事が、可能であろう。と言う見立てであった。耶揚子は、全ての旅程の段取りを既にしていた。
最初の停泊地である、琉球を経た後は、十日間に渡る航海で、時のオランダ領バタビア(インドネシア)に一行は到着した。耶揚子は、幕府から、日蘭貿易の進捗を図る別名を受けていたので、オランダに、先に行く事を強く希望したが、日本側の眞乘、儀輔そして彼等の付き人として選抜されたのが(金本)宗右衛門と(村田)仁八そして、幕閣の服部の総勢5名の目的は、支倉一行のローマ到着前に合流し、現在の内外事情の仔細を伝え、特に仙台側の四名にとっては、支倉達の考えを改めた後、無事本領に帰還させる事であった。
勿論、支倉一行が、残念な事にカソリックからの転向を断った場合は、全員切り捨て、帰国を許さない。と言う別命も、最終手段として在った。故に腕に覚えも、ある人間が選択された。
従って、彼等侍達は、地中海沿岸のスペインとイタリアの中間地での下船に拘った。
プロテスタントでも在る耶揚子は、敵対するカトリック教国である、その地(フランス南岸)に、オランダ船が寄港する事は、命懸けの“危険な”な行程になるので、トルコ領内の通過と言う、ハイリスクな事態に次ぐ、より、ハイリスクな事態が“連続”する事を彼は“強く避けたい”と願っていた。オランダに、先に行き、国王の勅書を奉じてフランスや、スペインと交渉する方が、一見時間が掛かる様でも、結局は早い。と何度も彼等を説き伏せようとした。
しかし、何度も戦(死地)を経験し、特に、言葉の通じぬ異国での戦でもあった朝鮮の役の経験者でもあった服部や儀輔、仁八そして眞乘、この腕に覚えのある四名と、彼等を信じる若者である宗右衛門。この壮年の五名は、その様な危険を想像だに出来なかったし、既に、欧州の地図を頭に叩き込んでいた眞乘は、フランス国内で、彼等を足止めし、北上して、オランダ領のフランドルに向かう方が“早い”と踏んでいた。
九州への出立の数か月前、数日前に麹町で服部との面談(段取りの最終確認)を終え、いよいよ九州から南蛮に旅立つ前の支度の準備を汐留の伊達下屋敷で始めるに当り、仙台からは、各々の女が江戸に下向していた。宗右衛門には、四妓の母である、四派と四妓が、村田仁八の息女と妻と共に来ていた、眞乘と儀輔の持ち物の世話は、眞乘の家の年増女が、既に甲斐甲斐しく整えていて、それを江藤家家中の者(侍)が、持参していた。彼は、今回の江戸下向に際し、荷足と、女性達のボディーガードを兼ねていた。
その様な渦中、片倉が、この度、彼の家人でもある彼等に、因果と最終的な目的確認の為に、わざわざ汐留の伊達下屋敷迄やって来た。本来、全ての支度が揃った後、上屋敷で、片倉以下、伊達重臣と殿様に、彼等が言上するのが仕来りであったが、片倉の性格上、微に入り細に入り、確認を事前に取って、全体を把握しておかねば済まぬ性格なのは。上司を知り抜いている眞乘、儀輔には、十分理解できていた。彼等もその縁には、抜かりなく。仙台に居る眞乘の(飯炊き)女も、その辺の心得は、既にできており―眞乘は、彼女を半島から連れて帰る際、当初、躊躇が、あったが、その一を聞いて十を熟す、呑み込みの速さと、機転の利き方、文字の読解も含めた頭の良さ、今や家の事から身の回り一切を取り仕切る彼女の能力に惚れていたし、周囲も勿論、儀輔も、彼女を仇や疎かには『扱えぬ様』に、むしろ彼女に、諸々を依頼する様に、なっていた。―此の年増女が用意し、持たせた、眞乘と儀輔の準備は、十二分と言う体であった。彼女の揃えた、荷物の中には、儀輔用には、実戦で使う小ぶりの打刀が、もうひと振り、それに備える(しつらえる)笄が二〇本認められていた。眞乘の物には、十分さび止めが施された、目の細かい鎖帷子以外に、早暁元三禅師が、認めた手紙が、通常の火事装束を含む旅支度とは別に、同梱されていた。儀輔は、其の準備内容に、程々感心し、謝意を四派に、言づけた。
眞乘は、片倉に相談し、金本宗右衛門の片倉配下への正式な許諾。それに伴い、四妓との正式な婚姻を認める旨を両名に言い渡した。母の四派は泣き。媒酌の労は、村田仁八夫妻が採る事となった。金本は、片倉配下という事で、正式な士分となったので、その大小(打刀と脇差)を片倉と江藤儀輔より拝領した。
宗右衛門は、この日より“儀輔門下生”として正式な抜刀術を剣術全般と、その手入れに関しては、仲人でもある、一刀流をたしなむ、仁八の下で修行に入った。
しかし、彼等の新婚としての時間は、両名が江戸に居た僅か1週間足らずであった。
しかも、四妓は、武家の奥として、相応しく改名し、且つ仙台に家屋を構える手間一切を基本、一人で賄わねばならなかった。宗右衛門は、徐々に、その現実を心苦しく感じていた。元和元年(1615年)の秋の夜は、その様に、素早く過ぎて行った。
(インドへ)
インドネシアのバタビアに二日程、滞在し、出港してから、最後の泊地は。イギリスならばインドのゴア辺りで、その行程も、インド湾岸に沿って行く安全なルートを選ぶ事が出来たが、オランダ人である彼(耶)は、ベンガル湾を最短距離で突っ切り、その手前のオランダが支配する、セイロン島のコロンボを紅海に入る前の最後の停泊地に決めていた。しかし彼は、この行程にある、ベンガル湾で悲劇に遭遇する事を想像しては居なかった。日本ならば季節は、早くも冬、しかし、この海域では台風の渦中に突入してしまった。先を急ぐ一行は、バタビアで、現地の船乗りや漁民がした注意を無視したのである。
ベンガル湾を無事超えられれば、イギリスとオランダの支配が交錯し、未だ地方藩閥の支配が強いインド西岸に沿って紅海に出られるので、この様な荒々しい自然現象と遭遇する事は無い。しかも、この風は、巧くすると行程の短縮にも繋がる事を耶揚子は、知っていた。しかし、その選択が、彼の命取りになった。この船の船長でもあった彼は矢面に立って、船の操船に励んだ結果、彼自身が、此処で消息不明となってしまった。
難破船と見紛うばかりに朽ち果てた、一行を乗せたオランダ船は、幸か不幸かムンバイの港まで辿り着く事が出来た。
しかし、すでに船頭と言える存在は、僅かで、船長すらいない、しかも、現地人の言葉を彼等は、誰も理解できなかった。現地人から見れば妙な格好をした支那人か、何か?が、幽霊船から降りてきた。位の体タラクであったが、眞乘は、ラテン語に関しては、三浦からの薫陶で、ある程度自在に使い熟せる様になっていた。
儀輔も、にわか仕込みではあるが、平戸に着く前、江戸に滞在している時分から、三浦に貰った英語とオランダ語の手引書や、耶揚子の勧めもあって、当時の欧州の教養人の教養の度を図る言葉であるラテン語を多少なりとも解する様になっていた。
両名は、江戸の三浦より預かった、彼の英国の妻子宛ての言伝を伝える為に、英語の習得にも励んでいた。
また仁八と儀輔に船上でも鍛えられていた宗右衛門は、オランダ船員にとっても『興味の対象』であり。自ずと彼等船員達は、耶揚子を介してオランダ語で宗右衛門らに話しかけていたので、この数か月間である程度のオランダ語を理解するようになっていた。
この時間が、後々彼等を救う事となった。
上陸したに五人は、最初、物珍しさから現地人から、所謂『弄られる』事となるのだが。体格の大きな眞乘以外、服部以下全員、体格で勝る現地人の誰よりも強い事が、そう時間を経ず、判った。
幸運な事に、彼等には、マスケット銃はなく、ある武器は、同じ刃物(とは言え出来が彼等の持つ日本刀とは比べ物に成らぬ位、粗悪な物であった)と弓であった。
故に、彼等の武器は、悉くこの五人に跳ね返されたのである。服部や儀輔、眞乘の眼力は、彼等が放った『虎』すら委縮させ、儀輔にとっては、朝鮮で適わなかった虎狩を当地で試す機会にすらなった。
彼の前で真二つに切り裂かれたベンガル虎の骸は、現地人を恐怖させるには、十分な設えであった。彼の前に、道は無く。彼の後ろに道は出来る。当にその様な事態が、上陸後半日も経たずに出来ていた。
この情報は、当地を領有する藩王。そして彼の元に滞在していたイギリス人の耳にも、その日のうちに入った。当地に胡椒の買い付けの為に滞在していた東インド会社のタワーソンは、マスケット銃で武装した東インド会社の英国人傭兵の貸し出しを藩王に申し出た。
彼等の実力を現地人に強烈に示す事が出来た結果、彼等は、空腹を満たすことが簡単にできた。
このインドでは、少々癖は、あるが、米を主食としていたので、彼等にとっては、久々の温かい米食に、ありつける事が出来た。また宗右衛門にとって、この辛い香辛料は、いやな味付けでは無かった。
日が傾きかけ、夕方になり、英国人の傭兵を連れた、藩王と東インド会社の英国人タワーソン一行は、この日本人の前に現れた。彼等は、この五人の若者が引き連れている(様に見えた)船員全てが、彼と敵対するオランダ人である事を見逃さなかった。
故に彼は、傭兵に銃を構え火蓋を切る指示を出した。が、その前に、服部と儀輔に手から笄が、素早く放たれ、五人の銃を構える傭兵の内、四人が倒された。残る一人も素早く眞乘により倒されていた。全員死んではいなかったが、身動きは完璧に封じ込まれていた。五人の日本人の強さの前に、傭兵達は、須らく戦意を喪失していた。
当然、藩王と英国人も同様であった。眞乘は、片言のラテン語で彼等に話しかけた。
これは英国人には脅威であった『この異国から来た若者はラテン語を話す!』彼等の態度は、この若い教養の高い人に対して一八〇度変わった。
よくよく見れば、彼等の服装や身形も、オランダ人の船員たちのそれとは、全く違い、長い航海と嵐で草臥れていたとは云え、上等な設えである事が見て取れた。残念な事に、この英国商人はラテン語を自由に操れる程の教養は、持ち合わせては居なかった。
結果、彼は、彼の目の前にいる日本人を彼の上位者と捉えた。
仕方が無いので眞乘が、極力ゆっくりと英語で、オランダ語を解する人間が居ないのかを尋ね、周辺事情も、尋ねる事を試みた。そうした処
「何と!この若者の中のリーダー格と思われる人物達(眞乘・儀輔)が、部分的ではあったが、英語を解し、その他の日本人も、同程度にオランダ語を解するのか!」
とタワーソンを驚かせた。
インド人のムンバイ藩王は、彼等の言い分は、このベンガル語を話す英国人を通して、でないと解らなかったが、彼等の武人や教養人としての能力の高さは、直ぐに理解した。
この夜、彼等は訳が分からぬままに、インド人と英国人の歓待を受け、湯あみも出来て、この航海中に延び切っていた、無精髭を笄で剃り落す事で、さっぱりとした風体で、久々に新しい着物に袖を通し、揺れぬ柔らかい床に就くことが出来た。連れのオランダ人船員達も、難破しかけの船から、日本人の物を含む全ての荷物の陸揚げを率先して担い、その所有権に関して一切の主張をしなかったこともあり、眞乘らに比べ、かなり待遇は悪かったが、殺される心配をせずに、空腹を満たし、夜を迎える事が出来た。
勿論、眞乘等の僅かな荷物を奪おうなどと考える、命知らずの輩は、ここには誰もいなかった。
彼等の供してくれる食べ物の内、コメは、本邦の物とは異なりバサバサしたものだが、味付けが、そのバサバサ感を殺していた。ただ鶏肉は良かったが、山羊か何かのもう一種類の肉と、その乳らしき飲み物は臭くて、彼等の口には合わなかった。
勢いイギリス人の提供する酒と、当地の茶を飲む以外に、口に合う飲み物は無かった。生水は、誰もが飲んでおらず、水は沸かして、茶にして、そこに温めた乳を入れて飲むのが当地の流儀で在った。
眞乘一行は、当地で三日間の逗留を強いられたが、それには訳があり、又、それは彼等の最大限の配慮でもあった事が、後になって分かった。この三日間で彼等の着物は、全て藩王の手で綺麗に洗濯されていたが、その畳方は、彼等が畳直さねばならない感じで“当地流”であり、しっかり持参の香を焚き、懐かしい香りを一ヶ月半ぶりに纏わせ直した。その位、洗濯された着物は、彼等の性に合わない独特の香りを満していた。
三日間とは、元平戸の商館長でもあり、日本語を解する英国人『リチャードコックス』配下の中国人が、インド西海岸から東海岸に到着するのに必要な時間で在った。
彼の通訳により眞乘は、同じ英国人である三浦按針のロンドンに住む家族宛ての書状を認めている事。
又、そもそも渡来の目的が、オランダと同様に英国の敵でもある、スペインやカソリックと日本との友好関係を阻止する事であった。しかもこの行程で、船長であり、亡くなった(航海途中で行方不明となった)耶揚子の行程が欧州への最短距離で在ったので、以降、東インド会社のタワーソンは、全力で、彼等をバックアップする旨を伝えた。
その間も、宗右衛門に対する儀輔と仁八の教練は、変わらず続いた。しかし、この様が、タワーソン麾下の傭兵だけでなく、藩王の部下の目を引かない訳は無かった。
儀輔が、最も強い武人。次が仁八と言う認識は、全員に共通した認識であったが、身の丈が彼の1.5倍はあるだろう、無精ひげを落した儀輔達よりは、一見すると年長に見える、剛の者が、傭兵の中にも、藩王の部下の中にもあり、彼等は、儀輔より強ければ、タワーソンや藩王から、より良いポジションや待遇を得られるはず。と考えるのは、無理もない事で、言葉が通じない儀輔に挑戦。いや挑発を試みて来た。しかし実線経験が豊富な上に、百戦錬磨の儀輔や仁八は一瞥しただけで、彼等の挑発が小賢しい事が、解っていたのだが、この挑発に乗る事は宗右衛門の実力を図るのには、丁度良い機会だとも考えた。
そんな師たちの考えを知ってか知らないでか?は判らないが、宗右衛門は、自身の師たちを侮る行為、この挑発してきた数名の蛮族の挑発に、まんまと乗ってしまった。
宗右衛門は、此の様な野蛮人は、儀輔や、仁八に叩き込まれている以前に、眞乘に叩き込まれた“柔術”で十分、叩きのめせるし、その方が先方に大怪我を負わせずに済む。と考える冷静さを未だ維持していた。まずは、最も体重が重そうで大柄で、矢面で彼等を挑発してきた、藩王の衛視と思えるインド人を投げ飛ばして見せた。すると彼の配下大男たちが、宗右衛門に襲い掛かって来た。が、モノの数分で、彼等はその場に蹲る(うずくまる)事となった。
一人は、大きなサーベルを振り上げてきたので、彼をまず壁際に誘き寄せ(おびきよせ)、其のサーベルを使い物にならなくした上で、彼のサーベルを持つ腕を蹴り折った。それからは、素足の彼等の踝を専ら(もっぱら)折る事に集中し、最後に襲ってきた
『大男』は、柔術の技で投げ落としたので、彼は、彼の全体重をまともに、彼自身の体で受け止める事となった。
傍で、この様な光景を見て、英国人の傭兵は、すごすごと立ち去った。藩王は、この部下の非礼を(多分)詫びているのだと思うが、儀輔や仁八は、それより、この部下が使った、サーベルに興味があった。多分日本の壁土と左程強度的に差が無い、当地の壁に、此のサーベルが当たった際に、このサーベルは刃毀れして“折れた”。という事は、この刃物は、本邦で言う処の鋤鍬程度の強度(品質)であると考えた。その検証を先ずは、したかったのである。従って、藩王の侘びは眼中には無かったが、その侘びは、眞乘が、当事者の宗右衛門を脇に伺候させた上で、服部共々、しっかりと答礼として承った。
其の上で、振り返りざまに、この二人の日本人に向け怒鳴った!
「愚か者、ここの王が侘びを入れておるのじゃ!しっかり承らんかい!」
眞乘は、仁八の顔を睨み、強く叱ったが、それは、同輩の儀輔に対する怒りでもあった。
此処で彼等の心証を悪くする事で得られる益は、何もない。そんな単純な計算も忘れている、同輩を叱ったのである。
しかし、この儀輔たちの態度は、タワーソンの興味をひていた。
彼は、此の若者が腰に差す刀と、自身の持つロングソードとの比較をしたいと考えた。これは、儀輔たちの思惑と一致していた。
翌日、藩王の宮殿(彼等の宿舎)の中庭には、一匹の虎が紐に繋がれていた。彼は自信の死期が近いことを悟っているのか、大人しく項垂れていた。
まず、この獣を殺すために、藩王の部下が、彼の額に向けて一撃を加えた。彼は、程なく絶命したが、この様な事は、眞乘一行が、この港に到着した時に、儀輔の手により一刀両断された虎を見ているので、左程の感激は無かった。
しかし英国の傭兵には、大騒ぎするだけの見世物であった。この死んだばかりの虎は、切り刻みやすいように、藩王の部下の手によって、台の上に固定された。通訳の中国人は儀輔に、今から英国人が彼の刀で、この虎を切るので見て欲しい、その後、貴方に同様に試し切りを見せて欲しい。通訳の中国人を介し伝えられた。儀輔は、この台では、心許ないと感じながらも『うむ』と頷いた。
服部も眞乘も、仁八も、彼の横で、この通訳の言葉を聞いていたが、儀輔が、手加減しないと、台ごと叩き切る事になると、三人とも感じていたし、その程度の事ならば、儀輔でなくても『自分の大刀でもできる』と感じていた。要は、儀輔が調子に乗って藩王や、この英国人の前で『粗相』を仕出かす事、そして仁八は、台迄叩き切った結果、儀輔の刃毀れした刀の手入れをしなければならない可能性のみを畏れていた。彼は、一応日本から刃毀れをした場合の補修用の資材は持参して来ていて、昨日の検証で当地の鉄や鍛冶設備では『脆過ぎて』の刃毀れの修理が出来ない事を認識していた。
腕っ節の強そうな大柄な傭兵が、前に進み出て、周囲に会釈の後、掛け声と共にこの虎の背中から、彼のロングソードを振り下ろした、虎は、返り血を彼に浴びせ、台を跳ねさせながら、虎を二つに割いたように見えた。が、彼のロングソードは、その鞘に収まる事は出来ず、少し湾曲したように見えた。
その刀を彼は、そのまま右手に持って傭兵隊の列の中に混ざった。
周囲からは、割れんばかりの拍手と歓声が沸き上がっていた。台からは、虎の血がしたたり落ちていたので、藩王の部下の手により血糊の上に砂がまかれていた。
儀輔は、服部と仁八に目配せをして、この虎のひっくり返し且つ死体を台から少し前にずらした。虎の頭は、がくんと台の端方へ項垂れ、英国人のロングソードは、腹の皮までは、割けていない事を確認した。彼は軽く跪き、抜刀スタイルで、打刀を鞘から抜き。刀を振り上げた、虎の首は見事に胴体から切り離された、が!それだけでは済まず、かれは腹を真一文字に割いた。裂け目からは虎の臓物があふれ出したが、刀は見事に背骨を添うように虎を、まるで魚を捌く様な形で割いたので虎の毛皮を十分採れる形に死体は処理された。刀を手元で回す様に降り、打刀に着いた虎の血飛沫を落し、刀は見事に鞘に納まった、その間、彼は声も発する事も無く、時間にして、ほんの数秒(10秒は経っていなかっただろう)であった。
(仁八に執って)有難い事に、刃毀れは無かった。しかし付着した虎の血糊は、再度完璧に刀身から拭う(ぬぐう)等の手入れだけは『夜』せねばならなかった。
周囲は、何が起こったか?判らず、静まり返ったが、儀輔の足元に転がる虎の頭をして、周囲から地鳴りのような歓声が沸き起こった。東インド会社のタワーソンは、この時、耶揚子の判断。この若者たちだけで、オスマン帝国領内のシナイ半島を横断する事が出来る事を追認した。そしてタワーソンも藩王も、彼等の持つ武器(刀)や、彼の技術は、自身の指揮下にある兵より優れていることを確信した。
タワーソンは、東インド会社の雇うモリスコ (キリスト教に改宗したイスラム教徒)で、適当な道案内の人材紹介を依頼した書状を認めた。彼の率いる傭兵に、彼等を警護させる行為は、この日本の若者達にとって、かえって足手纏いなだけである。と考えた。
(ニハルとの出会い、欧州へ)
彼等は、結局このインドの地で、1週間の時間を過ごさなければ、ならなかった。
彼等は、タワーソンの帰国便の同乗し、彼の手配でシナイ半島南端部の港町で下船した。そこで、英語が話せるモリスコのニハルを紹介された。
彼が、地中海に出るまでの連れであった。
ニハルも、また、この港町の人達も、仁八と儀輔による、宗右衛門への鍛錬を初日の朝から見せられる事となるので、彼等に対する畏敬の念をすぐに持つ事となった。
誰も、彼等に、ちょっかいを出す“愚かな”行為を執る者は、居なかった。
唯、日本人にとって、初めての砂漠行。
眞乘は、ニハルに対して、儀礼の態度は、執り続けた、ニハルは、この中で誰が、大将なのか、を直ぐに察し、彼の自身に対する挙動が、自身に対して敬意に満ちている事で、却って、彼等に対して、慎重。かつ礼儀正しく接する事となった。
しかし、それ位、敵が、人ではなく、初めて接する、自然。
『砂漠行』は、彼等にとって厳しい行程と、感じていたからだった。
ニハルは、この地域全員の安息日であるクリスマス前に、此の砂漠を抜けなければ、ならない。と云う課題があったので、その指示は、素早く的確で、結果、予定通りの日程で砂漠地帯を抜けた。
この行程で、誰も脱落する者は、現れなかった。
初めての『地中海の港町』。
そこから、既に千年前から栄える、世界的な港町アレキサンドリアで、彼等は、タワーソンが、予め手配してくれていた―キリスト教徒で、クリスマス時期に働く者はいなかったので―『イスラム教徒の貿易船』で、途中シチリア島と、コルシカ島を経由し、イタリアとスペインの間、フランスの港町を目指す事となった。
ニハルはフランスまで同行してくれた。それが当初の契約内容であった。
支倉一行は、既にマドリードを出立し、今バレンシアを経て、バルセロナで船に乗り換え、イタリアへ渡るという情報をニハルは、途中の港で得て、眞乘に伝えた(と思う)。
そこでコルス島で待ち構えるか?途中の、何処か迄、進むか?が試案の為所であった。
ニハル答えは、単純で、何もなく、物騒な、こんな小島で待つよりは、イベリア半島に近づくべき。であり、知識のない彼等は、その言に、逆らう術を知らなかった。
ただ、この小島は、新鮮な魚が採れ、彼等は久々に乳製品と肉類と言う、長く続いた異国の食文化と、おさらばできていた。此の食生活は、捨てがたかった。
スペインとフランスの境界、正確には、そこの民は、自身をスペイン人でもなく。
勿論フランス人でもない。と自認しているそうだが、眞乘には、ニハルを含め皆、同じ異人に見えた。
ニハルの様に、元々は、回教徒が耶蘇教に転んだ者を『モリスコ』と称するようだが、その逆は『ムデハル』と称されていた。しかし両方共から『異教徒』と思われている、我々『日本人』は、彼等の区別は、全くつかず、皆等しく『南蛮人』であり、亡くなった耶や、タワーソン、三浦の様な、紅毛碧眼のオランダや英国の民は『北狄人』だった。
彼等が、東洋人を等しく、教養の無い『蛮族』と視ている以上に、眞乘一行に執って、南蛮や北狄の人間は、殺生を厭わず、獣の乳や肉を平気で食する『野蛮人』であり、此の食生活の違いは、その,意を強くさせる事は在っても、弱める事は、無かった。
しかし彼等は、少数、此処は、異境。
郷に入っては、郷に従わざるを得ないと、観念していた、だけであった。
マルセイユと呼ばれた、その漁村の様な港町で、ニハルがもたらした情報は、衝撃的であった。クリスマス前に、支倉一行は、ローマに到着し、彼の地で。歓待を受けていると言うモノであった。
「遅かった!」
それが全てである。
こうなると、彼らの帰路に便乗して、事の次第を説き伏せねばならなかった。
都合の良い事に、マルセイユと言う港は、当時の兵庫津(神戸)に似て、既に当時、各地域からの情報や物資の集積地でもあった。
宿泊した宿の前での、冬にも拘らず、相変わらずの、仁八と儀輔による宗右衛門への鍛錬を施す姿を周囲に見せるだけで、彼等が、欲する情報は、真異の程を問わず、かなりの数が飛び込んで来る様になった。
ニハルを通し、眞乘と服部は、その情報の真異を確かめる為、そして出来れば、帰路の、支倉を捕縛すべく、この地に長逗留をする事を決めた。
資金は、持参した物以外に、既に、東インド会社のタワーソンや、藩王から、英国までの旅費か?謝礼?と言うのかは、定かでは無かったが、通過するだろう、地域の領主宛ての紹介状と共に、必要にして、十分な資金を受け取っていた。
其の上、宿と定めた場所の前には、適当な広場があり、海も近く、結果、彼等の食事の世話を宿主は、ほぼ考える必要の無い位に手間がかからぬ、この異国からの金蔓。
しかも、客の中の、何人か(宗右衛門達)の鍛錬する姿は、宿の前に人だかりを生んでいたので、最高の集客効果があった。
宿主は、この長逗留の申し出を快く引き受けた。
魚を干す、焼く、今までは、臭いゴミと思っていた海藻や貝から、この上ない香りが周囲に漂い、宿屋の夫婦や現地人は、海からの幸が、このように美味い物である事を初めて知った。
この馳走に対する、返礼として提供される葡萄酒は、彼等の口にも合った。
主に、料理を担当する仁八は、この地の主婦や宿主に執って“腕っ節が強い”だけではなく、素晴らしいシェフ=彼の小刀(脇差では無く匕首と笄を使って、釣った魚を捌く包丁捌きと、その後の刃物類に対する整備)は、まるで、マジックのように当地の人間には、映っていた。
ニハルは、その様を幾度となく、繰り返し、説明を求められるので、いつの間にか?仁八専属の通訳になって、彼等と行動を共に採らざるを得なくなっていた。
結果、仁八達は、労せず、当地の金属の質や製鉄技術を推し量る目的もあって、当地の鍛冶屋とも面識を得るようになる。そこで見せる、彼の料理の腕と宗右衛門の稽古は、新たなる『正に』マジックの様に当地の全員には映っていたのであった。
この噂が、当地の領主の耳に届くのに、さほど時間は、要しなかった。ニハルに採っても、実際、この『お零れ』は、法外の収入となっていたので、彼も暫くは、彼等と行動を共にしようと決めていた。
当時、マルセイユ近辺は、カトリックの“狂信的”な信者。でもあった、スペイン王の
『フェリペ2世』と、後にブルボン家を興すラバナ王アンリ(アンリ4世)の勢力が拮抗した中で、平和が保たれている様な場所でもあった。この際、彼等の事を最初に耳にした(興味を持った)のが、ラバナ王アンリ(アンリ4世)側だったのが、彼等の強運な点であった。
(尤も、まだその頃は、スペインの威光は、フランスのそれを遥かに凌駕していて、遥か遠方の東国から。国書を携えた正式な使者を『既に迎えていた』事実もあってか?かも知れないので、彼等の存在は、無視された?のかも知れなかった。)
彼等の本拠地は、地中海から、遥か北方のバスクと呼ばれる山間の地方で、馬を使っても4日は、掛からない行程であった。
だが、此の呼び出しを断る事は、何かと今後不利であるし、支倉一行が、未だローマに居る(出立をしていない)という情報を得ていたので、時間的には、余裕もあり、費用的にも、節約が出来る。と判断した眞乘は、アンリ側の申し出を快諾した。マルセイユに到着して六日目、春が近づいて来た。と感じさせる、心地よい風が吹いていた。
行程の二日目で在った。行程内で最大の町のツールーズ(Toulouse)と言う街に差し掛かった時に、事件は、起こった。
マルセイユの宿に大方の荷物を預けているので、彼等は、アンリに提出する書状(東インド会社のタワーソンが認めてくれた紹介状と、幕府及び政宗から渡された紫の袱紗に包まれ桐箱に収められている金糸で出来た書状「巻物」。とは言っても、全て日本語で書かれているので、現地人達には解読は不可能だが、権威を付けるには有効な書面)以外は、ほぼ何も持たず、身軽な出立でアンリ側が差し回してくれた馬を飛ばしていた。
最初、鞍や鐙の形状が、本邦で慣れ親しんでいた“もの”とは、異なっていたので、戸惑いも、あったが、モノの半時も飛ばしているうちに、彼等は、差し回された『遣いの者』や、元々騎馬民族であったニハルと同等以上の速度で、馬を乗り熟していた。この事だけでアンリの部下である使いの者は、彼等は、唯者でない事は、理解していた。そんな時に、起った事件である。
街道沿いの森?(木立)の中から、麗ら若い女が、彼等の馬前に飛び出してきた、危うく、先達をしていた遣い者は、彼女を挽きそうになったが、眞乘一行は、後方からその姿を見るや、見事に馬の歩みを止めた。
腰を抜かしたその女は、遣い者に何かを一生懸命、涙声で訴えていた。
ニハルは、遣い者の傍に寄り、その一部始終を聞き、眞乘達に、こう伝えた。
「街の人間に追われている、その理由は、彼女が街外れに住み、そこでカソリック以外の宗教(この場合、現地語でユグノー)を匿っていて、それで教会により、異端審判にかけられ、魔女として葬り去られる事を知った。故に、今、命辛々逃げだしている最中である」
という事であった。異端審判(inquisisio)やユグノー(Huguenot)と言う、ニハルが訳した言葉の意味が、眞乘一行は、理解できなかったが、一瞥して、自身等よりかなり年下。
そう、宗右衛門と歳端が変わらぬ程度の、麗ら若き女性が何者か、暴漢から逃げているという事だけは、察する事が出来た。
そしてアンリから遣わされた者も、またカソリックでは、無かったのだ。カソリックか否か、と言う、容姿による判別は、眞乘一行には、出来る術も経験値も無かった。
皆、同じ南蛮人であった。
只、同じ耶蘇教でカソリックとプロテスタントの違いは何か?そして彼等が、本邦で在った、一向宗と俗世の政権間で諍い合う以上に、憎しみあっている事実は、事前の『予備知識』として持っていた。
程なく、武装した馬上の男たちが彼等の前に現れた。
彼等の装いは、アンリから遣わされた者とは、一見して異なっていて、当地の鎧を身に纏っていた。
このような姿をした“南蛮人”を生で直に見るのは、眞乘達は、初めてであったが、儀輔は、その興奮を押さえつけるのに、一見して苦労している様であった。
仁八や宗右衛門も若干興奮はしていた。
儀輔は薄い鉄で覆われた、革製の胴巻や、脛当をまじまじと観察し、既に、この防具の弱点が何処かに目途を付けていたし。仁八は、自からの持つ刀が、この防具に対し、どの程度の損傷が出るか?を測っていた。そして宗右衛門は、もしか?したら?今までの稽古を実地に試せる『機会』が訪れるかもしれない期待に震えていた。眞乘と服部のみが、この推移を全体的に、俯瞰し冷静に観察していた。
アンリから遣わされた者と、武装した馬上の男たちとの間で、殺気を帯びた話し合いが始まった。
若い女は、腰を抜かした状態で、ちょうど彼等の中間で震えていた。
眞乘と服部は、最も殺気を醸し出していた、儀輔を呼び止めた。
その声が、武装した馬上の男たちには、合図の様に聞こえたのかもしれない?
武装した馬上の一人が、いきなり、女をかっさらう様に下馬し、馬上のもう一人は、その行為を『遣いの者』に阻止させまいと身構えた瞬間、下馬した男の鎖帷子から僅かに露出していた首筋に儀輔の放った笄が見事に刺さり、彼は、首から血飛沫を吐きながら、水掫を打って(うって)その場に倒れ、程なく絶命した。
馬上で剣を抜こうとした男は、宗右衛門により馬から落され(正確には、背負い投げの様に飛ばされ)、気を失ったのか?動かなくなっていた。最後尾にいた三人目の男は、その様を見て、踵を返し逃げようとしたが、服部の放つ弓の餌食として絶命した。
「宗右衛門留目を」
と眞乘が命じ。落馬した人間の首に彼は、止めを刺した。この間、僅か五分も経っていなかった。服部は、通常の半分の長さの、半弓とそれに適した矢を持ち合わせていたが、その短く太い弓は、最後尾にいた三人目の男の革製の胴巻の真ん中を背中から見事に貫き、薄い鉄で覆われた表面の防具の所で矢尻は、止まっていた。
こうして、この女を追う者は、この世から居なくなった。
アンリから遣わされ『遣いの者』は、全く、身動き一つ執れず、ただその様を傍観するしかなかったが、この異国から来た人間達が、常人では無い事だけは、深く理解した。
眞乘は、女に近づき、覚えたての片言のフランス語で
「動けるか?大丈夫か?」
と手を差し出した。彼女は、この凄惨な現場の最中に居たにも拘らず。気丈に、眞乘の手助けを借りて立ち上がり、深くお礼を述べた(と思う)
最も後ろで、いつでも、この場を離れられる体制を採っていたニハルが、すごすごと、遣いの者と、眞乘、そしてこの女の間に割って入って来た。
「多分これらの死体は、ツールーズ(Toulouse)の役人。」
「少なくとも街の教会関係者に違いなく、であるとすれば、今晩の宿や食事をツールーズで取る事は不可能になる」
彼女は、その様な内容を二人と、話していた。と眞乘は、思った。
しかし、我々にとっては、一食や二食抜くのは、大した事では、なく、今晩の天気は雨になる事も無いと予想できたので、野宿も、厭わなかった。強いて言うならば、馬に与える餌と水だけが、気がかりであった。
彼等は、昼夜を問わず全速で駆けていたので、適度な休息と餌と水は、馬達には、欠かしてはならない。と考えていた。戦国武士の常識であった。
しかし、この女を含む、所謂彼等から見て
「蛮人達」
は、違った。
遣いの者は、そもそもカソリックが支配している、ツールーズ(Toulouse)での宿泊は、難しいと考えていて、プロテスタント(ユグノー)が支配している隣のコミューン(村)を二日目の休憩地と決めていた。
この女もそこの出身者に違いないと踏んでいた。
ニハルは、フランス人にとって、よく目にする
「異邦人」
の一部族に過ぎず、自身の役割も把握し、その自覚もあったので、無用な、詮索は、し無かった。ただ彼も、どこかで休息がしたかった。
そこが、この、我が身の安全を担保してくれるスポンサー(日本の侍)の傍にいる限り、どこでも構わなかった。
この二人は、早速、ここに残された三体の死体を如何に隠すか?を考え始めていた。
このプロテスタントの若い女は、母の死後、そもそも、周囲に害なく生きていた。
自分自身を守る両親が、苦心して建てた家が、街のカソリックに、いよいよ襲われたことに驚愕していた。
しかも、彼等に掛けられた嫌疑で、自身を街の人々(とは言ってもカトリック教会)が
「魔女」
と断じている事が、驚愕の事実であり、信じられなかった。
近辺で採れる植物から抽出できる染料の知識が、その嫌疑の源であろう事は、想像が出来た。しかしこの知識は、一朝一夕には伝承できるものではなく、時間を要する事が問題だったのだろう、失敗を繰り返す、街の職人(カソリック教徒)をして、彼女を魔女と断じた事は、バカでは無い、この麗しい若き女性には、想像が出来た。
しかし、このような事実を今、自身を守ってくれた、この異邦人達に、簡単に伝える事は、難しかろう。と思えた。
故に彼女は、一石二鳥の考えを持って彼等に一夜の宿の提供を持ちかけ様と考えた。その様な時に、この異邦人の中でリーダーと見えた、最も、まともな身形をした人間が、自身の言葉を多少なりとも解釈できることは、神の導き以外の何物でもないと感じられた。
遣いの者が、今日の宿の手配に困惑しているのは、彼等の中の数名が、ふためく姿を見ただけで、理解できた。彼女は、この集団唯一のフランス人に伝えた
「もしご迷惑でなければ、ここから左程遠くは無いので、私の家に投宿されては如何でしょう?」
「しかし、ご迷惑では?」
遣いの者は、答えた。
「いいえ、ご迷惑をおかけするとすれば、私の方かも知れません。我が家に来て頂くという事は、再び今回と同じ種類の狼藉者に襲われるかも知れませんので、しかし、お連れの皆様の強さを街の者が知れば、おいそれと襲って来る事も無いでしょう。幸い我が家には、馬小屋もございますし、十分な食べ物と、部屋もございますから、その点に関しては、皆様に、御不自由をお掛けする事は無いと思います。」
ニハルは、この言葉の意味が、十分に理解できた。彼等に取っての共通語である、英語で、この内容を皆に伝えた。眞乘も、断片的に理解できるフランス語で、この若い女が宿の提供を持ち掛けている事は理解できていた。
服部が、遣いの者と眞乘に、日本語で語り掛けた。
「この女の申し出は有難いが、そうなれば、また再びあの様な、狼藉者に襲われる心配があるのでは?」
尤もな心配であった。
服部の言葉を眞乘が、片言の英語で、遣いの者と、ニハルに伝える前に、宗右衛門と仁八が、話に割って入った。
「旦那様。」
「殿様」
二人は、下馬した上で、片膝を付いた伺候する状態で、眞乘に語り掛けた。この姿だけで、ここに居る蛮族は、彼等の力関係を完璧に把握できた。このグループの上位者は、疑う事なく、眞乘、儀輔そして服部である事を。
「鳴子を用意すれば、周囲に曲者が侵入しても、こちらは体制を採る事が出来ます。残念ながら、鳴子の材料となる笹の様なものは見当たりませんが、何とかなるでしょう。しかも待伏せ用の簡単な罠ならば、この地の材料でも作れると思います。」
宗右衛門が、此処迄の考えを眞乘に伝えてくる事は、眞乘には嬉しい驚きであった。
「あとは、矢に出来る適当な材料の調達だけですな」
仁八が、宗右衛門の台詞に付け加えるのは、この程度で十分であった。仁八も、宗右衛門が、此処迄考えを及ばせている事は、自身の教育が間違いでは、無い事の証左で在り、嬉しかった。
儀輔は、
「わしは要らんな」
と嘯きながら微笑んでいた。
服部も
「まぁ、この女の家がどの程度のモノかは判らんが、今から準備をすれば、日が暮れる前に済むだろう」
と言う算段は立てていた。
馬上の3人の侍は、お互いの顔を看合いニヤッと笑って、彼女の提案を承る旨を伝えた。
彼女の家は、彼等の想像した家よりは、立派であった。背面を森に囲まれ、正面にはガロンヌ川と言う。ツールーズの街を分断する大河へ注ぎ込む川の支流が天然の濠として在り、彼女の家は、そこに掛かる一本の橋を渡らなければ、かなり北へ大回りをしないと、街中からは辿り着けないような場所であった。
どこに、どのようなトラップを仕掛けるべきか、百戦錬磨の仁八や儀輔、そして、公儀隠密の血筋でもある服部には、容易い公式への“解”で在った。フランス人である遣いの者は、無用の長物であり、この侍たちの仕儀を唯、傍観していれば良かった。
故に、ニハルもゆっくり馬に飼い葉や水を与える任務に専念でき、若い女は、彼等の為に温かい食事を、心を込めて用意した。
が、此処でまた仁八が、彼女の丹精込めた?食事に手を加えた。
そう、日本人には、牛や山羊の乳や肉由来の食事だけでは、受け付けられないのである。マルセイユで作った干物が、そしてトラップ作成時に集めた枝=端材で、器用に箸や皿を作成した。この様は、彼女を怒らせるどころか、驚嘆させた。ただこの頃、欧州に出回り始めた、トマトと呼ばれた赤い実を使ったソースと、南米から来て、既に一般的となっていた当地の芋は、乳製品に、辟易していた彼等には、衝撃の甘さと食感をもたらせた。
「ウム。この味ならば肉も食える!」
眞乘は思わず、日本語が出た。
彼等は、持参の笄と箸で器用に、干し魚だけでなく、肉を繰り分け頬張った。
その様は、もう見慣れているニハル以外のフランス人達には、新鮮な姿(自らより進んだ文化を持つ人種)と、写っていた。
「三八郎(儀輔)、夜襲の虞もある。酒は程々にしておけよ!」
眞乘が注意しないと、彼女が提供した“ワイン”を儀輔は、飲み干す勢いで在った。それ程このトマトのソースは、ワインに合っていた。
彼等の話す言葉は、理解できなくとも、その様は、彼女を安心させた
「私のおもてなしは正しかった」
(湯屋)
儀輔は、宗右衛門達に云い付け、湯を沸かせ、湯屋を急造させた。そこで、体の酒を抜いた、大きな盥と湯を沸かす鍋から湧き出る湯気と、川の傍、河口(風上)に向いた焚口にくべた薪からの炎で、家の周囲は、煌々と照らされていた。是では、忍び込もうとしても、姿は「一目で発覚する。」
又、この焚火の周り、盥の周囲の目隠し壁(湯屋)を盾にして、数本の薪には、各々に数本火矢が差してあった。儀輔にとって湯屋兼、ここが彼の持ち場である。と言う無言の提案で在った。儀輔の次に服部、そして他の日本人が、全てのトラップを設置した後、この、湯屋での湯あみを楽しんだ。
日本人の体臭の少なさは、この様な習慣から来ている事に、ニハルは、益々彼等への興味を搔き立てた。
この頃の欧州には、身体を「清潔に見を保つ」ための風呂。と言う概念はなく。故に、当地では、度々ペスト禍が起こる原因となっていた。彼等の体臭消しは、専ら中東やインドから齎される香辛料や香料を身に纏う事だけであった。彼等の体を拭った、手拭いや下着は、丁度顔の高さに来るように張った、鳴子に繋がれた紐に干されていた。逆光下では、何が何だか分からない濡れたモノ(褌)是も、効果的なトラップで在った。
女を捕縛する為に送った者の消息が絶えたので、翌日朝には、街からの使者達が、やって来た。
夜襲があると想像していた彼等には、此のゆっくりとした来訪は、驚き(舐められた)と受け止めた。使者は、女の周りにいる見慣れぬ風体の異国人たちを見て、早々に引き返し、僅か半時も経たず、大勢の武装した男達が、彼女の家に向かって来た。が、橋を渡って、身を潜めようとした瞬間、その半数が、昨夜のうちに仕掛けてあったトラップに引っ掛かり身動きが取れなくなっていた。この事態は、当初、穏やかな交渉を考えていた街から来た武装集団の、怒りの火に、自然と油を注ぐ事になった。ぱっと見、多勢に無勢ではあったが、百戦錬磨の儀輔には、面白い展開と映っていた。
冷静な服部と眞乘は、ここは逃げるが勝ちと、安全な退路の構築を考えていた。
その位、儀輔や仁八、そして、彼等の生徒でもある、宗右衛門に執って、またとない実践の場が、そこには広がり、自身を含め、彼等の実力を十分知る、服部と眞乘は。彼等が安全かつ確実に退却する方法を考える時間を与えるはず。と読んでいた。ニハルとアンリからの遣いの者は、此の多勢に無勢の状況に慄く(おののく)様を晒して(さらして)いた。
この屋の主である若い女は、その様な男たちの姿を、家の中から、しっかりと観察して、誰が頼りになるか?を完璧に把握していた。家の中も、既に眞乘主従の手で、しっかりと防御策は採られていた。
「動けぬ様にするのは、構わぬが、殺すな」服部と眞乘から儀輔達、実働隊に発せられた命令で在った。
薪を探すついでに、この森で樫木らしき、硬い木を発見していた彼等は、其の数本を、数振りの木剣に改造していた、これらの木剣は、数撃の後、叩き折られる前提で、家の周囲、各所に配置してあった、仁八のインド以降の経験で、彼等、南蛮人の持つ刃物ならば、数太刀位ならば、この木剣でも、十分防げるという算段はあった。
正に算段は当たった。襲ってきた半数をトラップで動けなくし、残りの内、総大将らしき人物(司祭と街のボス?)を除く十数人は、瞬く間に、彼等の檄剣の餌食となった、薄い鉄製の兜の上や胴巻きの上から、容赦の無い力で振り下ろされる木剣で、彼等の数人は、一撃で動けなくなっていった。彼等の、翳す両刃の直刀は、木剣で払いのけると分けなく“く”の時に折れ曲がり、巧く木剣で受け止められた場合でも、木に食い込んだ剣は、訳無く自体が手から飛ばされていった。剣を飛ばされ、盾以外の武具を失った相手は、専ら宗右衛門が、身に着けた柔術の技で、叩きのめす(完璧に身動きが取れぬ様にする)算段であった。運よく、家の傍に近寄れた数人も、服部と眞乘の相手ではなく、宗右衛門に劣らぬスピードで、身動きが取れぬ様になっていった。唯一、家の方へ矢を射かけた相手のみが、残念な事に、服部の手により、儀輔の用意していた“矢”の餌食となり、絶命する事となった。この様を、戦いながらも、俯瞰していた眞乘は、一人くらい刀の餌食にして、我々の実力を示し、『彼等が我々に抵抗する事を諦めさせるべき。』と言う考えに変わって来た。
「三八郎(儀輔)。そ奴を(殺)ヤレ」
街のボスらしき、太った中年男性を警護していた、尤も頑丈そうな武具を身に纏った、中で最も体格の良い男に、儀輔は、本身を抜いて、一刀の下に切り伏せた。
仁八は
「あちゃ!(また今晩つまらん用事が増えた)」
っと声を発したが、若干の、刃毀れは生じたが―砥石で修復できる程度であった―儀輔の太刀は、その男の首と胴を分離し、即死させていた。
司祭と街の有力者は、血飛沫を首から噴出させて横たわる、彼等のボディーガードの死体の前に、力なく腰を抜かし、へたり込んだ。当然、意識があり、数本の骨を折られた可能性のある者や、トラップに引っ掛かり身動きが取れなくなっている。街の若者も、この光景を目撃し、完璧に戦意を失っていった。
十五本用意していた、木剣は、五本、そのままの形で残った。
三十人で攻めてきた相手は、二名死亡、二六名が怪我、二名は無事。
と言うのが、この半時ばかりの戦闘の結果であった。
アンリの遣いの者と、ニハルは“騒動は終わった”と認識が出来たので、安全な物陰から、すごすごと出て来た。眞乘は、片言の英語で彼等に。周囲に散らばる、怪我人の手当てを命じた。家の中では、女が既に大量の布と、お湯を沸かしていた。汗をかいた儀輔達は、干してあった手拭いと、早速その湯を使い、体を拭い始めた。
腰を抜かしながら、司祭は、この身形の尤も良い異邦人が。このリーダーであり、彼には、教養がある事を認識していた。そんな彼が、近づいて来た。
「司祭殿」驚いた事に、先程の片言の英語ではなく、彼は、ラテン語で司祭に話しかけて来た。
「何故、彼女を誣いる?」「私の話している言葉が解るか?」眞乘は、司祭に尋ねた?
「勿論」司祭もラテン語で答えた。街の有力者も。遣いの者も、彼等が話す内容が、はっきり理解できなくとも、眞乘が、ラテン語を話すことに、驚きと畏敬の念を隠せなかった。
「あの、女は邪教を信じ、街の発展に尽くすことをせぬ。故に成敗される身なのです」司祭は答えた。
「邪教?カソリック教徒以外は皆、邪教徒で成敗される身なのか?」
「では儂等もカソリックではないから貴様等に成敗されねばならんと言う道理か?」眞乘は強く、司祭に言い放った。
司祭は、言葉に詰まった。「儂等は、只、今ローマに居てスペインへ向かう仲間に会いに来ただけじゃ。貴様らの諍いに関り合うつもりは無い。しかし、道理が通らぬ理由で、儂らを誣いろうとすれば、儂等は、貴様らに、力の限り抵抗する」司祭は、この若い異邦人の(眞乘)強い言葉に抗する言葉を持たなかった。
ただ彼の言葉で、『ローマに居る仲間』と言う言葉に引っ掛かった。
クリスマス時期から今迄…「ローマに居る仲間?とは」司祭は力なく声を発した。
「ローマカソリックの教皇にお会いした儂等の仲間だ」眞乘は答えた。
「と言う事は、皆さまもカソリックで?」司祭は、答えた。その問いに眞乘は答えなかった。しかし、
「儂等の仲間の行程を知るために、当地の有力者の協力が必要。でアンリ様が、情報の入手を助けて下さる。と言うのでアンリ様の下へ向かう途中じゃ」眞乘は、必要な情報だけを彼に与えた。
司祭は、ラバナ王アンリ(アンリ4世)の仲間は、カソリックでは無い事を知っていた。
「私達は、パパ(ローマ教皇)の僕です。私達からの情報の方が、アンリ王から得る情報より、皆様のお仲間の行程を知る際には正確です」
確かに。眞乘は頷いた。
「しかしその方達の、この若き女に対する振舞いは、神の名を使い、弱者を導くその方らの教えと矛盾しておるのではないか?」
この言葉に司祭は、再びの驚きをもった。此の異邦人は、単に武力が優れているだけでは、なく、教養もあり且つ、キリスト教の教義に関する知識も持ち合わせている。言い返す言葉を司祭は失った。
街の有力者は、彼等が何を話しているのか?判らなかったので、司祭に説明を求めた。そしてその要点の中身は、この異邦人たちは、敵なのか?という事と女の処遇に関してであった。
これはフランス語での会話だったので、遣いの者も、この屋の主も、そして、手当てを受けている街の者や、ニハルにも理解が出来た。司祭は、答えに窮していた。彼等、街の者は、彼等が敵ではない事を願っているのは、十分に理解できた。
へたり込む二名の老人(後で判ったのだが眞乘と十歳程度しか歳は違わなかった)を、血飛沫を上げる死体の傍で、へたり込ませて置く訳にもいかず、眞乘は、彼等の背後に回り“活”を入れ引き起こした。
二人は、すごすごと、眞乘の後に続く以外、術は、なかった。そしてこの屋の主の前に引き出された。
「お主ら」これは、ニハルや、侍たちも理解できる英語で話しかけた。この場に居た全員が。この若者は、何か国語を操れるのか?それだけでも、各位に畏敬の念を抱かせるのに十分なパフォーマンスであった。
「この女に二度とちょっかいを出さぬと書面を残せ!」此れは完全な、命令口調であった。
ニハルがフランス語に訳すと、街の者たちは一応に落胆の表情を示した。
ここで、儀輔が、鬼の形相を作り、オランダ語で同じ事を口にした。これは、もう驚愕と恐怖しか、街の者には与えなかった。この武人は、もの凄く腕が立つだけではなく教養も、ある。皆の認識が、此処で統一された。
「否、と申し、躊躇いがあるならば、即刻この場で首を跳ねる」
ニハルが儀輔のオランダ語をわざわざ、フランス語で訳したが。
仁八と宗右衛門は、体を拭っていた手拭いで口元を隠し、笑いを堪えるのに必死であった。
服部や、眞乘も口角が、少し上がっていたので、皆に背を向け、肩を強張らせた。しかしその様(後ろ姿)が、皆の恐怖を一層掻き立てた。
しかし、橋のたもとには、首と胴が別れた骸、そして射殺された骸もあるだけに、この場に居合わせた、全てのフランス人にとって、これは、笑い事では、済まされない事態であった。
打撲程度で、体が動く者。トラップに引っかかっても、さほど重症でない者が二十五名。トラップに掛かり五名は、脇腹や手足に重傷を負っていた。彼らは、宗右衛門の命令下、崖下の河原から各々五個以上の、石窯制作に際し適当な石を運ばされ、諸々の手伝いを強いられた。その間、仁八は、周囲に散乱していた、彼らの武具を丹念に集め、精査していた。
「これらを使って、湯屋の塀をもう少し立派にするぞ」仁八の掛け声の元、拾い集めさせた石で、釜戸を大きく改造し、湯屋の周りの塀は、この武具を使って、木を切り出し板に変えて、湯屋は、ものの数時間で、当初のものより“立派な風呂場”になった。当然、彼らの武具は、使い捨てにされ、木片の切り出しや、板に細工する際に、刃こぼれや、折れ曲がった物は、打ち捨てられたが、その有り様(武具の使い様)を見て、街の屈強な体をした若者達は、この指示される側の異邦人ですら、己等に比べ、知識がもの凄い事を実感させられていた。
司祭と街の有力者は、この間、連名で三通、同じ書面を書かされた。各書面は、フランス語、ラテン語、そして日本語で書かれており、一通は、此の街の教会で保管すべき書面、もう一通は、この屋の主が保管すべき書面。そして最後の一通を、遣いの者経由で、ラバナ王アンリ(アンリ4世)側に委ねられた。各々の書面には、当地の領主、司祭そして、眞乘の花押が記してあり裏書されていた。服部は、儀輔に「お主も役者よ、のう」と軽口を叩き笑った。この屋の主である若い女性、名前は、書面を作成する時に彼等は、初めて知ったのだが、ミアと言った。は、初めて安堵の表情を浮かべ、眞乘に対する、深い感謝の念を持った。
暗くなる前に怪我人を連れて、攻めてきた武装解除された街の者達は、引き上げ、その後、夕刻前には、街からは二名の遺体を引き取る馬車が到達した。遺体を馬車の乗せる際に、街の遺体処理人は、胴と首が別れた、遺体を見て、帰って来た者達から聞かされていたとは云え、驚きを隠さなかった。
(その2へ)




