『不撓不屈』
はじめに、この物語はフィクションであり実在の人物や団体などとは関係ありません。ご理解いただいた上でお読みください。
「お前ら、たった二人で俺を止めれると思ってるのか?」
男は、倒れた松本さんと怯える浜田さん、そして自分に立ち向かう清真と真尋を侮蔑の眼差しで見下ろした。
その口元に浮かぶ不敵な笑みには、狂気と絶対的な悪意がにじみ出ていた。
清真と真尋は、その冷酷な視線に射抜かれ、背筋を冷たい汗がツーッと伝うのを感じた。
清真は、震える声で真尋に促した。「真尋、松本さんの容態を…!」
真尋は頷き、素早く倒れている松本さんのもとへ駆け寄った。
脈を確認し、胸元に耳を当てる。「まだ息がある!」真尋の声に、清真はわずかに安堵の息を漏らす。
その安堵が、彼の中に新たな気合を呼び起こした。
「自首しろ!これ以上、罪を重ねるな!」
清真の怒声が、冷えた空気を震わせた。一歩、彼は前に出る。だが男は、その言葉を鼻で笑い、唇の端を吊り上げる。
「皆殺しにしてやるよ」
凍りつくような声音とともに、男は地を蹴った。獣のような勢いで、清真に襲いかかる。
「清真くん!」
真尋が叫び、助けに走ろうとしたその時、清真が腕を伸ばして制した。
「真尋さん、大丈夫!」
「でもっ」
「分かってる だけど、俺を信じて」
その瞳に、一片の迷いもなかった。
清真は息を静かに整える。胸の奥に浮かぶのは、須藤蓮の言葉と共に教わった基本。恐怖ではなく、集中を。怒りではなく、冷静を。
(相手の横に素早く回り込め。間合いを見極めろ――!)
次の瞬間、男の拳が唸りを上げて迫ってきた。清真は迷いなく動く。【左】へ、【右】へ。
髪の先を掠めるほどの距離でかわすと、即座に牽制のジャブを放っていく。
鋭く、速く。
拳が男の頬を掠め、胸元をかすめそして徐々に捉えていく。
「チッ……!」
焦る男の動きが粗くなっていく。回し蹴りは軌道を外れ、前のめりの姿勢に隙が生まれる。
(今だ――!)
清真の右拳が唸りを上げた。ジャブからのストレート。研ぎ澄まされた一撃が、男の顔面を正確に捉える。
「ぐっ……!」
男は呻き声とともに膝をつき、地面に崩れ落ちた。
静寂が戻る。風が、草や木を揺らしている。
「待ってくれ……自首するから、待ってくれ……」
膝をついた男が、肩で荒く呼吸しながら、苦しげに声を絞り出した。顔には汗と土埃がにじみ、唇は切れたまま、それでも懇願の色を浮かべていた。
その声に、清真は一瞬、足を止めた。拳を握ったまま、彼の瞳が僅かに揺らぐ。
(本当に……?)
だが――次の瞬間だった。
男が不意に地面の砂を掴み、叫びと同時にそれを清真の顔へと撒き散らした。
「くっ」
砂塵が目を襲い、視界が白く霞む。清真が思わず顔を背けた隙を突き、男は獣のような動きで立ち上がる。
「おらぁぁぁっ」
怒声とともに、鋭い突きが清真の腹を抉るように突き刺さった。続けて回し蹴り。脚が風を切り、脇腹を強かに打ち据える。清真の身体がよろけた瞬間、さらに膝蹴りが鳩尾に叩き込まれた。
「がぁはっ」
形勢は一気に逆転し、焼け尽くすような痛みとともに清真はそのまま地面に倒れ込んだ。
男は清真に馬乗りになろうとするが、その動きを遮るように、真尋が鋭い声を上げた。
「やめなさい!あんたの相手はこっちよ!」
男の動きが止まる。
振り向いた先には、怒気を帯びた真尋の姿。
「お前みたいな女が……一番腹立つんだよ」
男の顔が、醜悪に歪む。唇を吊り上げ、鼻を鳴らしながら、怒気と憎悪を滲ませて吐き捨てた。
男は大き口をあけガチッガチッガチとと音を鳴らした。
「テェメーから殺してやる!」
男は真尋に向かって猛然と駆け寄る。
真尋の全身は恐怖で震えていたが、彼女は内ポケットにしまっていたスタンガンを素早く取り出した。
「なんだそりゃ」男は真尋の手にあるスタンガンを見て、嘲笑うかのように笑いながら向かってくる。
男が真尋の目前まで迫った、その瞬間だった。
「……待て!」
低く、しかし鋼のように強い声が背後から響いた。
男の足が止まる。振り返ったその視線の先には清真が立っている。
上着は破れ、袖口は血に染まり、泥が身体中にこびりついている。
額からは鮮血が滴り、片目は腫れて半ば塞がっていた。
それでも――その目には、確かな意志の光が宿っていた。
「てめぇ……まだ立てるのか…」
男が驚愕と苛立ちの混じった声で呟く。
清真はゆっくりと歩み寄る。よろけながらも、一歩一歩、確かな足取りで。
「俺は……お前のお前みたいな奴が一番許せない……!お前の都合で…どれだけの人の想いが…時間が…奪われたか!…俺らは諦めない!!」
その声に、真尋の瞳がかすかに揺れた。
清真は血まみれの拳を握り直す。傷ついた体に鞭を打ち、闘志の残滓を振り絞って、再び男に対峙した。
「今度こそ…過去を取り戻す」
その言葉は、ただの宣言ではなかった。恐怖と向き合い、誰かのために戦うと誓った覚悟そのものだった。
「……何言ってんだ、お前」
男は苛立ちを隠そうともせず、顔を歪めて清真を睨みつけた。その目には、痛みを与えることへの快楽と、まだ倒れぬ相手への怒りが渦巻いていた。
男は再び走り出した。
濁った空気を裂くように、怒りと憎悪を乗せた拳が清真へと襲いかかる。
「ぐっ……!」
清真は満身創痍の体を揺らしながら、辛うじてその拳を前腕で受け止めた。痛みが骨を震わせ、足元が揺らぐ。
それでも、倒れない。倒れてはいけない。
回避。ガード。足を引きずりながらも、清真はすべての意識を相手の動きに集中させる。
(相手は苛立っている……力みにも、隙がある!)
しかし、男は止まらない。
打撃の嵐が容赦なく降り注ぐ。拳、肘、膝――どれも致命傷になりかねないほどの重さだった。
「ガキが……調子に乗るなよ!」
怒声とともに、男の身体が大きく回転した。全身のバネを使い、渾身の力を込めた上段回し蹴り――風が唸りを上げ、踵が空を裂いて飛ぶ。
それは、まともに食らえば立っていられない一撃だった。
その軌道を見た瞬間、清真の視界に過去の記憶が走った。
(……やられる――!)
あの技を受け、地に沈んだ時の痛み。地面に倒れ、息もできずに見上げた空の色。あの悔しさと恐怖が、脳裏を駆け抜ける。
その一瞬体が固まるーー
足が、重い。体が、動かない。
だが、次の瞬間。
(……怖くても、踏み込むんだ)
須藤蓮の声が蘇った。
(上段回し蹴りを打ってくると分かたら、怖くても踏み込むんだ!間合いを潰せ!それが唯一の対処法だ!)
歯を食いしばった。膝が震えても、拳はまだ残っている。心が叫ぶ。
(怯むな!)
清真は一気に踏み込んだ。半歩、ただの半歩――されどその一歩が、恐怖を乗り越える意思の証だった。
男の蹴りが虚空を切る瞬間、清真の拳が、鋭く一直線に放たれた。
ドゴッ
乾いた衝撃音が、鳴り響いた。
拳は男の顎を、正確にとらえていた。
蹴りの軌道が崩れ、男の体が、ゆっくりと後方へ傾き、地面へと沈んでいった。
ゴツン、と鈍い音を立てて、男は動かなくなった。
息を切らしながら、清真はその場に膝をついた。
「清真くん!」
男が倒れた直後、真尋はまっすぐ清真のもとへ駆け寄った。
彼は膝をついたまま、肩で荒く息をしていた。額からは血が滴り、拳は腫れ上がっている。
「大丈夫?どこか折れてない?」
真尋はしゃがみこみ、手早く清真の体を確かめる。腕、胸、腹、足――丁寧に、そして優しく。しかしその手は、彼の傷の多さにわずかに震えていた。
「……俺は、平気…須見さんこそ……」
清真がかすれた声で答えかけたそのとき、ふと真尋の視線が逸れる。
物陰で膝を抱え、震えている浜田さんの姿が目に入った。
服は乱れ、目には恐怖の色が張りついたまま、言葉も出ないまま固まっていた。全身がこわばり、頬には涙の跡。まるで時が止まったように、そこに取り残されていた。
真尋はすぐに立ち上がり、自分の上着を脱ぐと、そっと彼女の肩に掛けた。
「大丈夫よ!もう、終わったから」
その声は、優しく暖かかった。
浜田さんの顔が、歪んだ。
「う、うあああああああああっ!!」
張りつめていたものが崩れ、押し込めていた感情が一気に溢れ出す。浜田さんは肩を震わせ、嗚咽をあげた。
真尋は黙って、彼女の背を支えた。その手はただ、静かに震えを包み込んでいた。
清真は、その光景を見つめながら、深く息を吐く。
ーー安心も束の間だったー
倒れていたはずの男が、呻き声ひとつ漏らさず、ゆっくりと立ち上がった。
血の気の引いた顔に浮かぶのは、狂気じみた笑み。そして、次の瞬間、彼の手がポケットに滑り込む。
「……ナイフ……!?」
真尋の声がかすれる。
男の指先がつかんだのは、黒い柄の折りたたみナイフ。
男はガチッガチッガチと歯ぎしりをしナイフを突き出しながら向かってくる。
ギラリと光る凶刃を目の前に三人はその場に釘付けになった。
絶望が、また彼らを包み込もうとしていた。
その時だった。
「何をしているんだっ!」
怒号のような声が響いた。
木々の間から数人の男たちが姿を現しそれぞれの肩には猟銃が抱えられている。
その場の空気が一変した。
彼らは訓練された動きで清真たちと男の間に割って入り、警戒するように男を取り囲んだ。
その瞬間、真尋が息を切らしながら叫ぶ。
「助けてください!この人が……!」
男は怯えたように目を泳がせ、男たちの威圧に押されるように、ゆっくりとナイフを下ろした。
もはや勝ち目がないと悟ったのだろう。唇を噛み、肩を落とし、諦めの色が顔に浮かぶ。
その様子を見届けながら、真尋は胸の内で小さく息を吐いた。
この男たちは――風山の管理事務所と地元の猟友会に、「この山で熊が出た」との名目で事前に通報していたことによって、駆けつけてくれた者たちだった。
場所も正確に伝えていた。すべては、もしもの時に備えて、真尋が打った布石だったーー。
しばらくして、サイレンの音が山間にこだました。
赤い灯りを瞬かせながら、警察車両と救急車が次々と現場に到着する。
騒然とする中、猟友会に取り押さえられていた男は、手錠をかけられ無言のまま警察官に連行されていった。
暴れようとするそぶりもなく、ただ力なく俯いたまま。
その背中が消えていくのを、清真と真尋は黙って見送った。
一方、松本さんと浜田さんは、救急隊員に担架で運ばれ、迅速な応急処置を受けていた。
顔色はまだ青白いものの、隊員の声に頷き返す姿に、真尋と清真は安堵する。
「命に別状はないそうです」
誰かのその一言が、張り詰めていた空気を一気にほどいていった。
恐怖は、ようやく形を失い、静かにその場に消え去っていった。
そして、救われた命と、背負うべき過去だけが、そこに残された。
松本さんと浜田さんの無事を確認した二人はあたりを見回し、人目につかぬよう足早に雑木林の奥へと身を隠した。
真尋と清真は2003年にタイムリープした際に、その時代には存在しない彼らは警察に不審者として取り調べを受け、苦い経験を味わっていた。
それだけに、今回は決めていたのだ。
未来に不要な波紋を広げぬよう、過去の人間とは必要以上の接触を避けると。
木々の陰に身を潜め、息を整える。
耳を澄ませば、風が葉を揺らす音、秋虫の声が心地よい。
「戻ろう」
静かに、けれど確かに響いた真尋の声に、清真はゆっくりとうなずいた。
その瞳はわずかに潤み、疲労と安堵の色をにじませながらも、確かに笑っていた。
二人の顔には、やり遂げた者だけが持つ微かな誇りと、救えた命の重みに触れた感動、そして何より、共にこの瞬間を迎えられた喜びが入り交じっていた。
空気は冷たかったが、不思議と心は暖かい。
風山の木々が、優しく風に揺れていた。
そして二人は、静かにその場をあとにした。
過去を越え、命をつなぎ、未来へと歩き出すように。
手を取り合う二人を眩い光がつつんだ…