少女は、悪魔を貪れるほど口を広げて、我が友と言った。
雨で滲んだ壁に寄り掛かって、忙しなく歩く人々を見ていると、この世界は異常だと突き付けられる。
まともな人間なら、魔物の根城。ダンジョンの上に住み着こうなんて思わない。
魔物が蠢く大地の上で、息をしようとは思わない。
だからこうなる。
人が死ぬ。
探索に出たパーティの帰還時刻が、ある瞬間から遅れ出したのを怪しんだギルドが調査隊を送ったらしい。
そしたら迷宮の一層付近で大量の死体が見つかったらしい。
その殆どは魔物だったが、人間の冒険者にも甚大な被害が出たらしい。
らしい。らしいと。
あまりにも当事者意識のない状況説明だとは自分でも思うが、仕方がない。
だって、救い出された一人という立場すら実感出来ないのだから。
「は━━は? 」
どれだけ息を整えても記憶が全く繋がらない。
朝礼から夕礼まで。
問題ない。接続する。
なんかアニスがやたらと優しかった。
放課後。
大問題だ。
クロムを尋問するために、飯屋に連れて行こうとした辺りで断裂する。
辛うじて、なんてない。
何もかも忘れている。
まるで、朝目覚めた時の引っ掛かり。
見ていた夢が思い出せそうで思い出せない。
そんな虚無感が俺の心を占めている。
……クロムは、何処だ?
おかしい。
最後の記憶にはクロムが居る。
なのに何処にも見当たらない。
あいつは、なにかを知っている気がする。
それに俺の友達なんだから、近くに居ないと変だ。
だって、だって、俺は生きてるって、あの薄暗い血溜まりの中で起きた瞬間、助けにきた調査隊の一人に言われたのだから。
一瞬何を考えた? ……アホか。
走った寒気を振り切り、歩く。
俺とクロム。どちらがダンジョンを潜ろうなんて馬鹿言い出したかなんて、目に見えてる。
そんな馬鹿が簡単に死ぬ訳ない。
早く見つけて殴らないと。
俺を巻き込んだ分と、心配させた分を絶対に。
寮に向かって歩く。
周りの奴らは気にも留めない。
この時期、ダンジョンの入り口付近で彷徨く学生なんて珍しくもなんともない。
「おい! そこの君! 」
━━━ただし、赤い校章を胸に着けた、上級生に限った話だ。
「見てませんよ」
そう、何も見てないし知らない。
目覚めた時には全てが終わっていた。
「君もダンジョンに潜っていたのか? だったら教えてくれ! 友達を見てないか? おさげの友達だ! 白くて綺麗で、それから」
こいつも俺を見ていない。
俺は冷淡に歩き去ったというのに、いつまでも空気に向かって話し続けている。
彼女は、体はともかく精神が正常じゃなかった。
回復魔法が効くのは体の傷だけだ。
赤い校章をより陰惨にするドス黒い血が、助け出された時の有り様を物語っている。
人混みを抜ける。
擦れ合う肩から伝わる熱は様々だった。
ギルド職員。冒険者。騎士。治癒師。学生。
同様なのは、この惨劇の被害者ということだけだ。
誰もが目的……希望を見出そうと歩き回っている。
自室に戻ろう。
その方が気が紛れる。
クロムも先に、寮に戻っている筈だ。
ここで出来ることは、もう無い。
帰路に着く。
学校に近づくにつれ、当たり前だが見慣れた景色が戻ってきた。
ここまで来れば、もう大丈夫。
日は落ちきり、目を凝らさないと人かどうかも判別出来ない程深い夜だが、この坂を登りきれば寮に辿り着く。
寮生なら誰もが憎む長い坂だが、今は本当にありがたかった。
だって手すりに腰掛けてこちらを見る。
━━━人影に近付かなくて済むのだから。
白い息が、口からぼぅ、と漏れた。
ただの不良だと、
一歩、近づくごとに確信する。
この、夏を真っ逆さまにしたような寒さはなんだ?
まるで油を刺すのを怠った機械のように、全てが噛み合わない。
膝を次の段差に掛けるたびに、ギシギシと鳴っている気さえする。
「━━━━━は、」
一歩、近づかれるごとに確信する。
影の正体は女だった。
黒衣から覗かせる肢体。
星のように輝く金の髪。
思慮の読み取れない黒い瞳を下から見つめていると、何処か遠く、誰も知らない場所に手を引かれている気分になる。
たん、と石を鳴らす軽い一歩。
ただ階段を降り、立つ位置が同じになったと言うだけで、
その一歩で、俺の膝が折れた。
これは理屈じゃない。本能が、頭を下げろと告げてきた。
『…………』
女は何も言わない。
それにしても、
我ながらすごい体制だと思う。
なんで後ろに転ばないんだ。
いや、立ち上がる時転ぶのか。
遅かれ速かれ転ぶのなら、いっそこの、
━━━これは、不味い。
うなじを這う、水で濡らした刃を突き立てられたような、ぬらついた悪寒。
一体どうして? なんでなんでと子供のように自我を捏ねる。
こんな目に合う必要がない。
だって、あんなことをしても、普通に生きてきた。
体が重い。
ピクリとも動かない。
これじゃあ、女が俺の顔を覗き込むのを待っているかのようだ。
ずさり、石を削る音が鳴る。
俺の視界は、横に分断されている。
階段の出っ張り、石の切れ目に。
こんな夜だ。
全部が全部、端から端まで見える訳じゃない。
夜行性の動物でもない限り、どろりと黒い目が、右横から、覗き込んで、
いや、こいつもどんな体制だ。
二人揃ってイカれてやがる。
どれだけ俺の白い息が、女の顔に振り掛かっても、気にかける様子は少しもない。
喋る気配もない。
ただ、金魚のようにぱくぱくと、口を開け閉めしているだけだ。
なんかもう、どうとでもなれって感じだ。
夜眠くなるように、こんな変な状況にも慣れてきた。
シンプルな不審者。絡まれただけ。
女と夜風を楽しんでいると、おもむろに女の口が大きく開かれた。
自己紹介か? どうぞお先に。
『もし、我が友を殺した気分は如何かや? 』
ありがとうございました。