ビクトリア・ハッピー・プロローグ。
ありがとうございます。
あの夜から二日たった。
俺達は、M2ーCの総大将との合同稽古の打ち合わせを終え、帰路に着いている。
この二日間、アニスとの関係は冷え込むばかり━━━なんてことはなく。
背中に張り付く制服のように、じっとりとした好意を向けてくれている……筈だ。
だが、それが本心かは分からない。
夕陽で伸びた冒険者ギルドの影のように、アニスは何かを覆い隠している。
そしてそれを、俺にも他人の目にも、切れ端ひとつ触れさせない。
信用して目を離すのは愚策だろう。
だからと言って目を凝らせばすぐに気づかれる。
太陽を凝視するなんて、やってはいけない。
ましてや、黒点に目を向けるなど、目が焼けてヤバくなる。
深淵を覗く時、深淵もまた覗いている。
━━━アニスとふとした時に目が合うたび、得体の知れない何かが胸元をなぞってくるようで、どうしようもなく、心臓が早鐘を打つ。
どうにかしなければ。
アニスが俺にとって、太陽だろうが北風だろうが関係ない。
早急に何か、手を打たなければマントを脱ぐだけでは済まなくなる。
「えっと、アルド? いつまで俺達は歩きゃあ良いんだ? 稽古は今週の土曜って、めでたく決まった訳だし。俺もう、心おきなく部屋帰って寝たいんだけど」
「気持ちは分かる。だからこそ打ち上げといこうじゃないか。纏まったことを祈って。
もう暫く歩けば、可愛い看板娘の居る飯屋があるんだ。積もる話があるだろ? 来いよ、なぁ?」
「マジで?! そんな店あるなら早く言えよ! 行こう!きびきび行こう!
時間もアレだし、お店の人に迷惑かける前に、最速で口説くぞ!……」
「おい?! 店の場所……ハァ。まぁ、どうせすぐ戻ってくるだろ。知らねぇんだから」
クロムの揺れる黒髪を眺めていると、日本に居た時の記憶が朧げに浮かんでくる。
でも、これから行く飯屋のメニュー表にはとんかつ定食なんて無いし、すれ違う人々は皆、冒険者だ。
………今からすれ違う3人組も冒険者なのだろう。
如何にもな駆け出し装備を纏って、明るい顔を浮かべながら、ダンジョンから持ち帰ってきた冒険譚に花を咲かしている。
「マジでやばかったよな! リーパーの群れが奥からブワって出てきた時は、流石に死んだと思ったよ!」
……あれ、いつもより熱い。こんなこと、
血が燃えて
「まるで何から逃げているみたいでしたね。ポーションを多めに買っておいたのと、ジミヘンさんの火属性魔法が個人的には効いたかと……おっと、ごめんなさい」
「頭を下げろヴァーリー。着ている服を見ろ! 申し訳ございません。申し訳━━」
「……分かった。分かったから早く行け」
彼らは去って行く。良い奴らだった。前を見ず、ふらふら歩いていた俺が悪いのに。
……俺が悪い。いや、あいつらが悪い。
肩が当たっておきながら軽い謝罪で済ます、その精根が気に入らない。
肩についた悪臭。手を拭っても消えない。冒険者が持ち帰ってきた魔物の残り香。
馴染みがある。この世界では誰でも。絶対的に。
俺もそうだ。嗅いでるだけで帰ってくる。
「イタい」
あの時と同じだ、片割れをなくしたあの時と。
「いたいよ」
そして俺は人に、出来たのだから。
呼吸が止まる。
息をしようとするたびに、魔物の匂いが肺を満たす。
あつい。生きているから。
暑い。夏だから。
熱い。ただ熱い。
それが染み込んでくるだけで、頭がひび割れ、その隙間から何かが俺の中に入ってくる。
『それの源泉は下だ。深い深い地の底』
止まる赤い物が。
きっと俺の中の、生き物としての回転が、どうしようもなく焼き切れた。
『底から奴らはやってくる。止まらない。止められない。だからお前は選ばれた』
こんなの望んでない。こんなことになるならあのまま
『責任を果たせ。貴様は誰だ? 何のためにここに居る?』
それでも受け付けない。受け入れたくない。
鼻は馬鹿になった筈なのに。食指はもう、斬り落とした筈なのに……!
指の付け根がズキズキと痛む。
まるで消えた筈の傷口に根が張りつき、俺の皮膚を突き破ろうともがいているようだ。
「ざけんな……イかれた血を俺に押し付けやがって……」
人間どもが纏う魔物の匂いに、獣心が剥き出しに、
嫌だ、嫌だ。命に意味なんて無くて良い。
『救世主に繋げ。貴様の命で余暇を与えろ。もうすぐだ。目覚めはもうすぐ』
熱気に混ざって香る血の匂いが、記憶を汚して突きつけてくる。
責任の所在。命の価値。過去からの祝福。
ヘモスタット、悪を殺せと。
「━━━━━、」
辺りの冒険者はゆっくりと歩いている。
怠慢だ。あまりにも。この体にベタつく暑さの方が随分と勤勉だ。
俺も歩く。この場における誰よりも速く。
一歩踏み出すごとに、周りの雑魚が恐れをなして道を開ける。
見ていて随分と機嫌が良い。
先程は社会に生きる人間として、今は生を求める生き物として。
奴らは俺を見て、震え上がっている。
「おい! 何処行くんだ! そっちはダンジョンだぞ! 」
肩を掴まれて振り向かされた。
クロムだ。顔が真っ青になっている。いい気味だ。
俺を置いて行くからそうなる。
「だからだよ。責任を果たさないと」
誰かがやらなきゃいけない。
━━━違う。俺じゃないと。
「ハァ?! だったらまず、飯屋に連れてく責任果たせよ! 行くな! ……絶対に離さねぇ。可愛い子に合わせてくれんだろ? 」
そうだった。そして、そこで何かを聞こうとしてんだっけ。
「痛った?! テメェ急に殴りやがって! おい! おい! 」
あの日の放課後に話したファナヘッタは本物だったのか。
グリモアがあそこに在ることをクロムは知っているのか。
けどそんなことはどうでも良い。このまま歩き続ければダンジョン。悪の掃き溜めに辿り着く。
まずはこの場所を正す。
この魔に冒された時代を終わらせるために。
良かったと思う。
たぶん、良かった。
いや、良くなかったかもしれない。
でも、良かったんだと思う。
絶対良かった。
だってこれで変われる。
いややっぱり