鉄竜の顎2
私は午前中に整理した書類を分類し、抽斗に放り込んだ。
デスクの上に残った十数枚の紙を再度確認する。
すべて市民からの陳情書。参議会から騎士団に回されてきたものだ。
中身は衛兵では対応できない類の危険なもの。特に交易に従事する商人からの陳情が多い。
つまり魔族絡みの内容ばかりというわけだ。
私は陳情書の束を掴み、立ち上がった。エンゾのデスクに歩み寄る。
「団長、よろしいですか?」
「ああ」
「今週分の陳情書です。ご一読ください」
「特に気になるものはあったか?」
「いくつか。それぞれコメントを記載しておきました」
「分かった。目を通しておく」
「お願いします」
エンゾが太い首をごきりと鳴らし、小さく息を吐く。
「お疲れのようですね」
「参議会がうるさくて敵わん。今日も午後から連中と会議だ」
「致し方ないかと」
「そのくせ街の防衛予算を渋るのだから余計に始末が悪い」
「事務方はいつもそうです」
「何なら私の代わりに会議に出てみるか?」
私は小さく笑った。
「お断りします」
エンゾも小さく笑う。
「そう言うと思ったよ」
私は軽く肩をすくめた。
「午後は囲壁の見回りをします」
「壁の補修はもう終わる頃かね?」
「予定通り進行しています。あと三日ほどで完了するかと」
「分かった。終わり次第、他の騎士団にも報告書を回してくれ」
「承知しました。では、失礼します」
私は一礼し、部屋を出た。
食堂で昼食を済ませた後、私は騎士の鎧に着替え、砦の屋上から環状囲壁の上層に出た。
風が頬を撫でる。
北西に目をやる。
平原や森林を越えた、はるか先に見える山脈。
あの山々の麓に魔族の一大活動拠点がある。
この世界の魔族は、イービルリングと呼ばれる種族を中心に組織された集団だ。
イービルリングは外見こそ人間と似ているが、明確に違う点がある。頭に角が生えているのだ。
そして、そのイービルリングと共に活動しているのが、ダークエルフ、ダークオーク、ゴブリンや様々な獣たち。
これらを総称して魔族と呼ぶ。
魔族が私たちに比べて邪悪な存在なのかと問われれば、おそらく答えは違う。
こちら側の価値観に照らし合わせれば確かに邪悪かもしれないが、魔族にとっては自然な考え方をしているのだ。
詰まるところは、価値観の違う集団が抗争をしているに過ぎない。
私がいた世界と同じだ。何も変わらない。
その抗争の最前線が、この要塞都市『フォートネクサス』。
私は背後を振り返った。
ここからは街並みが一望できた。
『鉄竜の顎』がある北区は立派な造りの建物が多い。貴族や文化人が住む区画だ。
西区には歓楽街や庶民の住宅が広がっている。東区には商店や職人の工房が目に付く。
海に面している南区には港があり、交易に従事する者たちが暮らしている。
「……」
それにしても巨大な街だ。
フォートネクサスがここまで発展し、8万もの住民を受け入れられている最も大きな理由は、上下水道が街の隅々まで行き渡っているからだろう。
この世界に飛ばされ、中世のような暮らしを始めたときは戸惑ったが、自宅で気軽に風呂に入ることができると知ったときは正直嬉しかった。
もっとも、その発展に伴う弊害も存在する。
フォートネクサスの地下には、網の目のように下水道が張り巡らされている。
街の発展と人口の増加に伴い、深く広く掘り続けられた下水道は、さながら複雑怪奇な迷宮の様相を呈している。
もはやその全容を完ぺきに把握している者は、管理や工事を請け負っている者たちの中にもほとんどいない。
何らかの形で下水道に重大な問題が起これば、街はたちまち機能不全に陥ってしまう。
これは無視できないリスクだ。
そのリスクを少しでも減らすため、日夜暗闇で汚水や糞尿に塗れながら作業をしている者たちには尊敬の念を禁じ得ない。
インフラこそが街の要。外敵から街を護る騎士団と同様に重要な仕事だ。
私は下層に通じる扉を開け、囲壁の内部に入った。
石造りの階段を下りる。
北門の脇に出る。
巨大な門をくぐる。
「副団長! お疲れ様です!」
詰所からウェイドが姿を見せた。
「ウェイド、変わりはないか?」
「ええ、今日は平和なものです。副団長はどちらに?」
「壁の補修個所を見に行く」
「よろしければ、お供しましょうか」
「そうだな……では頼む」
「お任せを」
ウェイドが右拳をドンと胸に当てた。
私はウェイドと並んで街の外に出た後、囲壁に沿って西へ歩き出した。
左手に高くそびえる堅牢な環状囲壁。
魔族を始めとした外敵の侵入を防ぐのに、十分な役目を果たしている。
しかし、この囲壁もフォートネクサスの発展に伴い、増築を繰り返してきた。
当然、古い箇所は老朽化が目立つ。できれば一斉にメンテナンスを行いところだが、資金も資材も足りない。
予算の承認を渋る参議会の言い分も分からないではない。
防衛予算を確保するために税収を上げるということは、住民からの不満が高まることに繋がるからだ。
しかし、ここ数年、魔族からの攻撃による被害は増え続けている。
騎士団の人手不足という問題に対しては、傭兵を使うという手段を取っているが……
お世辞にも上手く機能しているとは言えない。
これも金の問題が大きい。傭兵は金で動く。
しかし、参議会から傭兵組合に支払われている金は、それほど多くない。
少なくとも、命を懸けるに見合うほどの金額ではない。
魔族との戦いに、名誉と誇りと命を懸ける騎士とはその使命感において、天と地ほどの開きがある。
折り合いがつくはずがない。
それを何とかするのも騎士団の仕事だと、ギリアムは言ったが……
甘いことを言うようになったものだ。
アレクシアの記憶の中にいるギリアムは、自分にも他人にも極めて厳しい男だった。
アレクシアはその厳しさを心の底から尊敬し、少しでも近づこうと自らを鍛え上げた。
ギリアムに昔の厳しさを取り戻してもらうためには、やはり騎士団に戻ってもらう必要がある。
「副団長?」
「なんだ?」
「考え事ですか?」
「まあな……ウェイド、お前はギリアム・ノーランを知っているか?」
「ええ、名前だけなら。面識はありませんが、その……」
「なんだ? 言ってみろ」
「彼は騎士の誇りを捨てたと聞いているので……」
私は小さく笑った。
「騎士団は辞めた者に手厳しいな」
ウェイドが顎に手を当てる。
「どうして今さらそんな話をなさるのですか?」
「彼には騎士団に戻ってもらいたい」
「それは……理解に苦しみますね」
「団長のお考えだ。ギリアム・ノーランには第三騎士団の立て直しを任せたい」
「それならば、適任者は他にいるかと思いますが……」
「例えば?」
「あなたです」
「私は第五の副団長になったばかりだぞ」
「関係ありませんよ。団長にはあなたのような騎士こそ相応しい」
「買い被り過ぎだ」
「いいえ。どこまでもお供いたします」
しばらく進むと、ドワーフの集団が見えてきた。
身長は低いが、屈強な体躯をした男ばかり。
その中でもひと際分厚い筋肉に覆われた年配のドワーフが、何やら怒鳴り声を上げている。
囲壁の補修工事を任せている棟梁のルーファスだ。
ルーファスが足元に転がっている若いドワーフの胸倉を掴み上げ、壁に向かって投げ飛ばした。
投げ飛ばされたドワーフは壁に激突し、再び地面に転がった。
ウェイドが頬を撫でる。
「穏やかじゃありませんね」
「まったくだ」
私はいまだ怒りが収まらず肩を大きく揺らしているルーファスの背後に歩み寄った。