夜の黄昏亭1
――1ヶ月後
たくさんの客で賑わう夜の酒場。
店内に響く野太い声。
「おーい、エールはまだかあ?」
「はーい、ただいま!」
僕はカウンターに置かれた樽ジョッキを持って、客席に急いだ。
「お待たせしました!」
暗い肌をしたオークの大男が奪うようにジョッキを掴む。一息に飲み干す。
「ぷはぁっ! 美味い! もう1杯! いや、3杯だ! 坊主、まとめて持ってこい!」
「はい!」
エプロンから伝票を取り出して、注文を書き込む。
「坊や、こっちにもエールを三つおねがぁい!」
耳が長いお姉さんの甘ったるい声が飛ぶ。
「はーい、少々お待ちを!」
「こっちはラムとエールを頼む!」
「はーい!」
どんどん注文が入る。今夜の『夜の黄昏亭』はいつもより忙しかった。
客席は八割がた埋まっている。
カウンターに戻って、店長に注文を伝える。エールが7杯。ラムの炒めが1皿。
店長が無言で頷く。太い腕でカウンターに樽ジョッキを並べる。慣れた手つきでエールを注ぐ。鍋にラム肉をぶち込む。
樽ジョッキを掴もうとしたとき、カウンター奥の扉が開いた。
エマさんがエプロンを身に着けながら出てきた。長い髪をパチンと後ろで束ねる。
エマさんは店長の一人娘で、店の看板娘だ。たぶん僕より、五つくらい年上。
透き通るような眼をしていて、すごくきれいな人だと思う。
エマさんが軽く店内を見回してから、僕を見た。
「ナイル君、休憩お先」
「はい、お疲れ様です」
「君も休憩入って。ホールはわたしが回しておくから」
「でも……」
「遠慮しないで。ちゃんと食べてきなさい」
「分かりました」
伝票をエマさんに手渡す。
「すぐに戻ってきます」
エマさんが微笑む。
「慌てなくていいからね」
「はい」
カウンターに入る。店長に軽く頭を下げた。
「店長、お疲れ様です。休憩入ります」
「おう、お疲れ」
店長がラム肉を炒めながら頷く。
僕は奥の扉を開け、バックヤードに入った。喧騒が遠のく。
テーブルの上には賄いのプレートが載っていた。パンと肉野菜炒めが盛られれていた。
プレートを片手に持つ。勝手口の扉を開け、店の裏庭に出た。
壁際のベンチに腰を下ろした。
一息ついて、パンにかじりつく。少し固いけど、香ばしい味がする。美味しい。
もう1ヶ月が経った。
あっという間の1ヶ月だった。
目を覚ましたとき、僕はこの街の西地区の汚い路地裏に転がっていた。
奇妙な感覚だった。
この世界のことを何も知らないはずなのに、いろいろなことが理解できた。
言葉も理解できたし、文字も読めた。たぶん、この身体の元の主の記憶だと思う。
この街の名前は、フォートネクサス。
ヒルコの言ったとおり、北と東西を高い壁に囲まれていて、南側が海に面している砦のような大きな港街。
人口は8万人くらいいるらしい。人間だけじゃなくて、エルフやオーク、ドワーフやリザードボーンといったたくさんの種族が生活している。
漫画でしか見たことのない世界が目の前にあった。
僕が転生した種族は人間だった。名前はナイル。年齢は15か、16。
孤児だった。拾い集めたガラクタを売って生計を立てていた。
得意なことは特になし。腕っぷしが強いわけでもないし、特別な力も呪文も使えない。
強いて言うなら指先が器用で、ちょっとしたスリならできるといった具合だ。
仲間もいた。孤児たちのグループだ。僕も含めて、みんな身寄りがなかった。
橋の下にある粗末な小屋で、身を寄せ合うように暮らしていた。
パンを飲み込む。
ヒルコは言った。
『決して己が転生者だと悟られないことだ』
落ち着いて考えてみれば、彼女の言いたいことがなんとなく分かる。
転生者だとバレれば、他の6人の転生者に命を狙われることになるからだ。
バレずにいることは、そんなに難しいことじゃないと思う。
でも、どうやって、8万人の中から、たった6人の転生者を見つければいいんだ。
何も考えが浮かばなかった。
とりあえず、もっとまともな生活の拠点が欲しかった。僕の身体は汚くて臭かった。
住んでいた小屋には風呂もトイレもなかった。寝起きするベッドはただの板切れだったし、布団はいつも湿っていた。
ちゃんとした食事もとっていないから、健康とも言えなかった。残飯のような食事は、特にたんぱく質が足りなかった。
こんな生活じゃ、身体どころか頭もロクに働かない。
次の日に孤児のグループを抜けた。仲間は別れを惜しんでくれたけど、僕は振り返らなかった。
西地区にある大きな歓楽街で、手あたり次第、住み込みで働かせてくれそうな店を探した。
考えが甘かった。汚い孤児の僕を雇ってくれるところはどこにもなかった。
諦めかけていたとき、偶然『夜の黄昏亭』のエマさんと出会った。
何でもするから住み込みで働かせて欲しい。まともな生活を送れるようになりたい。
僕の話をエマさんは嗤わずに聞いてくれた。店長にかけあってくれた。
店長は僕を雇うことに同意してくれた。
店の2階に部屋も用意してくれた。
エマさんと店長には感謝してもしきれない。
それから1ヶ月。
僕は『夜の黄昏亭』で懸命に働きながら、とにかく情報を集めようとした。
でも、他の転生者の情報なんてひとつもない。
そりゃそうだと思う。
他の6人も僕と同じように、転生者であることを隠して生活しているはずだ。
そして、僕と同じように他の転生者を探しているに違いない。
残り時間は、150日……たぶん、間違っていなければ……
正直、これから何をすればいいのか、何ひとつ思いつかない。
この広い街に住む8万人の中から、たった6人の転生者を見つけ出す……
しかも、それをあと150日以内に……
気の遠くなるような話だ……
にゃあ。
黒猫が店の裏庭に入ってきた。
最近、僕の賄い目当てによく来る雌の黒猫だ。
肉野菜炒めを少し手に乗せて差し出す。
黒猫は美味しそうに肉野菜炒めをたいらげた。
黒猫が僕の膝にぐりぐりと頭をこすりつけてくる。
「お前はかわいいなあ……」
黒猫の顎を撫でる。
黒猫が喉を鳴らす。
「はあ……」
ため息が漏れた。
「……他の転生者なんて、どうやって探せばいいんだよ……」
思わず愚痴が漏れる。
僕はどうすればいいんだろう。
仮に他の転生者を見つることができたとして……殺せるのか……?
自分が元の世界に戻って生き返るために、僕は本当に人を殺せるんだろうか?
分からない。
想像もできない。
でもやらないと、二度と走れない。
あんなに頑張ってきたのに……
父さんも母さんも応援してくれた。親身に指導してくれたコーチもいた。一緒に汗を流した友達もいた。
陸上部の練習は本当にキツかった。辛いことがたくさんあった。もう辞めようと思ったことが何度もあった。
だけど、タイムを更新する喜びに勝るものはなかった。県大会を自己ベストで優勝できたのは最高に嬉しかった。
みんなが喜んでくれた。
次はいよいよインターハイ、のはずだったのに……
ため息をもうひとつ。
みんなに会いたい。
夜空を見上げた。星空が少し滲んで見える。
黒猫が僕の指を舐めた。