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夜の黄昏亭6

 店長が小さく息を吐きながら頭を掻いた。

「魔族だと? 引退した俺に何の関係があるんだ?」

 魔族……

 僕は魔族を見たことがない。ナイルの知識として魔族がどんなものかは大体分かるけど、その恐ろしさまでは実感できない。

 カウンターを布巾で拭きながらエマさんの顔を見ると、エマさんは洗ったお皿を拭く手を止め、不安そうな表情で店長たちを見つめていた。

 なんだろう……エマさんの雰囲気がちょっと、いつもと違う気がする……

 僕も手を止めて店長たちに視線を戻した。

 アレクシアさんが組んだ指を解いて姿勢を正した。

「申し訳ありませんが、先にご紹介を。こちらは部下のウェイド。信頼できる男です」

 ウェイドさんが真っ直ぐに店長を見る。

「貴方のお話は副団長から伺っております。お会いできて光栄です。以後、お見知りおきを」

 頷く店長。

「簡潔に頼む」

 頷くアレクシアさん。

「では簡潔に。魔族が変身呪文で人間に擬態し、この西地区に潜んでいる可能性があります」

 隣でエマさんの息を呑む音が聞こえた。

 店長は無言だった。その横顔はとても厳しかった。

 なんだ……明らかに店内の空気が変わった……

 魔族が街の中にいる……

 それ自体は怖いことだけど、店長とエマさんの態度の変わりようはそれどころじゃない。

 アレクシアさんが再び顎の下で指を組んだ。

「詳しい情報はまだありません。おそらく侵入を許したのはここ1ヶ月の間かと思われます。目撃報告は一件だけ。内容も曖昧です。ですが無視はできません。仮に事実であれば、被害者が出る前に魔族の正体を突き止めなければなりません。団長からは内密に調査しろとの命令が下っています。騎士団を大掛かりに動かすことはできません。差し当たりは私とウェイドの二人で調査をします」

「俺にどうしろと?」

「どうされたいですか?」

「質問してるのは俺だ」

 重たい沈黙。

 僕は店長とエマさんとアレクシアさんとウェイドさんの顔を代わる代わる見た。

 店長が深く息を吐いた。

「ウェイドと言ったな」

「はい」

「お前は魔力探知に長けているのか?」

「いいえ。私は呪文が使えないので……」

「口が固くて腕のいいウィザードを雇え」

 アレクシアさんの表情が少し強張った。

「魔力探知なら私が――」

「お前は向いてない。魔力操作が攻撃系統に寄り過ぎている。これまでの話が事実なら、魔族は相当注意深く人間に擬態しているはずだ。しかも一匹とは限らん。微細な魔力の動きを感知できる本職を雇え」

「ですが、騎士団以外となると……」

「傭兵にもウィザードはいるだろう。連中は金次第で何でもやる」

「私に傭兵を雇えと?」

「何が問題だ?」

「傭兵は信用できません」

 店長が小さく息を吐いた。

「エマ、紙とペンを持ってきてくれ」

 エマさんがキッチンの抽斗から紙切れとペンを取り出して、店長に手渡した。

 店長が紙切れに何かを書き込んで、アレクシアさんに差し出す。

「ここに行ってみろ」

 受け取った紙切れをじっと見るアレクシアさん。

「ガラス工房、ですか……?」

「信頼できるウィザードがいる。俺の紹介だと言えば話を聞いてくれるはずだ」

「……分かりました」

 店長が立ち上がった。

「さあ、もう帰ってくれ」

 アレクシアさんとウェイドさんも立ち上がる。

「また伺います」

 アレクシアさんがそう言って頭を下げた。

 店長は何も言わなかった。

 アレクシアさんとウェイドさんが店を出て行った後も、店長は無言だった。エマさんも硬い表情のままだった。

 僕は二人にどう声をかけていいのか分からなかった。

 店長がカウンターの中に入ってきて、僕の肩をぽんと叩いた。

「ナイル、夜の外出はできるだけ控えろよ」

「は、はい……」

「エマも注意を怠るな」

「うん……」

 店長が奥の扉に手をかける。

「お父さん」

 エマさんが店長を呼び止めた。

「どうするの? あの人たちの手伝いをするの?」

「分からん」

 店長はそう呟いてバックルームに入っていった。

 僕はエマさんの辛そうな横顔をただ見つめることしかできなかった。

「あ、ナイル君……」

 僕の視線に気づいたエマさんが笑顔を浮かべた。無理矢理笑っているような笑顔だった。

「わたしたちもあがろっか」

「あの、エマさん……」

「ん、なに?」

 ダメだ。やっぱり何を訊けばいいのか分からない。

「いや、その、ごめんなさい。何でもないです……」

 僕はエマさんから視線を逸らして、手に持っていた布巾をカウンターの脇に干した。

 エマさんが店内の灯りを全部消すのを待って、一緒にバックルームへ戻った。


 テーブルの上に黒い塊が乗っていた。クロコだ。

 にゃあ。

 クロコが鳴いた。

 エマさんが微笑みながら、クロコの頭を撫でた。

 クロコが気持ちよさそうに眼を細める。

 僕は水差しから二つのグラスに水を注いで――

 ふと水の匂いを嗅いだ。普通に無臭だ。指をつけてペロリと舐める。普通に水の味だ。何もおかしいところはない。

 グラスの中の水を一気に飲み干して、もう片方のグラスをエマさんの前に置いた。

「ありがと」

 僕はエマさんの向かいの椅子に腰を下ろした。

 クロコがテーブルから僕の膝に飛び移って、頭をぐりぐりと僕の首元に擦りつけてくる。くすぐったい。

 エマさんがグラスの水を一口飲んでから、僕のほうを見た。

「ナイル君、ごめんね」

「え……?」

「気を遣わせちゃったから」

「いや、僕は別に……」

「ううん。君には話しておかないとね……わたしのお母さん、6年前に殺されたの。街に侵入した魔族に」

 そう、だったのか……それでさっき店長とエマさんの態度があんなふうに……

 あれ、でも6年前ってことは……

「じゃあ、店長が騎士団を辞めたのは……」

「うん、それがきっかけ」

 エマさんが前髪を掻き上げながら小さく息を吐いた。

「お父さんのこと、そっとしておいてあげて。何かあれば、ちゃんと自分から話してくれる人だから」

「はい……」

 僕は膝の上のクロコを抱き上げて立ち上がった。

「ちょっと涼んできます」

「うん」

 勝手口から裏庭に出る。

 ベンチに座って、夜空を見上げた。

 腕の中でクロコがモゾモゾと動く。

 店長はどうするんだろう。アレクシアさんたちと一緒に魔族を探すんだろうか。僕に何かできることがあれば手伝いんだけど……いや、そうじゃない。僕にはやらなきゃいけないことがある。他の転生者の情報を探さないと。

 3日寝込んでいたということは……あと146日。明日になればあと145日か。

 朝になったら今度こそ傭兵組合に行こう。あの怖いリーダーに会って、ドレイクっていう死んだ傭兵のことを調べるんだ。

 僕はクロコを抱いている腕に少しだけ力を込めた。


次回『傭兵組合1』


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