ヒルコ
白い空。
誰もいない陸上競技場。
何も聞こえない。風の音も聞こえない。
その観客席の中段辺りに、僕はぽつんと座っていた。
どうして、こんなところに……
ついさっきまで夜道をランニングしていたはずなのに……
ぺたり。
不意に背後で足音がした。
ゆっくりと振り返る。
客席の階段を女がゆっくりと下りてくる。
裸足。着流しみたいな和服。長い黒髪。眠たそうな眼。
20代にも30代にも見えるし、40代と言われれても納得できそうな年齢不詳な顔つき。
何より酷くダルそうな表情が印象的だった。
「やあ」
どこか不機嫌そうな低い声。
「どうも……」
恐る恐る挨拶を返す。
女が階段を挟んだ端の席に座った。足を組む。ため息をひとつ。
「あの、ここは……」
僕の言葉を、女がダルそうに片手を上げて止めた。
「あまり時間がないんだ。手短に説明する」
「はあ……」
「君はこれから別の世界に転生する。場所は壁に囲まれたとある港街。君はその街で他の転生者を探し出し、排除しなければならない。転生者の数は、君を入れて7人だ」
「は……?」
いきなり何を言い出すんだ、この人は……?
「あの、ちょっと何言ってるのか分かんないんですけど……」
「単純な話さ」
「ど、どこが……大体、あなたは誰なんですか……?」
「私はヒルコ」
「はあ……ヒルコ、さん……」
「君は久坂那津だろ?」
「はい……」
どうして僕の名前を……
「――ていうか、別の世界って……?」
「いわゆる剣と魔法の世界だ。君の常識は凡そ通用しない」
「はあ……」
馬鹿にされているのか……?
「――ここは1ヶ月後に君が立つはずだった場所だ」
1ヶ月後……高校最後の陸上大会……インターハイの会場……
「勝てば、君はここに戻ってこられる」
「え……? 戻る……?」
「まだ気づいていないのか。君は死んだんだよ」
死んだ……? 僕が……? え、いつ……? そんなの記憶に……
「うそ、だ……」
「余所見運転の車に背後から轢かれた。即死だ」
「でも、こうやって生きてる、じゃないですか……」
「今の君は魂だけの存在だ。肉体はもうない」
「は……? たましい……? そんな……え、でも……」
車に轢かれて死んだ……? もうすぐインターハイだっていうのに……?
高校最後の大会……6年間の集大成……中学に入ってからの6年間、僕の全部を注ぎ込んできたのに……
あんなに必死に練習して、県大会で優勝して、やっと掴んだ全国大会の切符なのに……
「勝てば時を遡り、生き返ることができる」
「さかのぼる……え、いきかえるって……どうやって……?」
「そういう規約になっている」
「規約……? えっと、僕と同じ……他の6人も……?」
ヒルコがダルそうに頷く。
「皆、君と同じように不慮の事故や病で死んだ者たちだ。志半ばでね。だが、生き返ることができるのは1人だけだよ」
「あの……でも、さっき、排除って……」
「手段は問わない。まあ、殺すのが最も簡単だろうな」
「人を、殺せって言うんですか……?」
「手段は問わないと言っただろう。世界から排除されたと認定されればいい」
「そんな……」
「期間は半年、180日だ。それまでに勝負がつかなかったら、7人とも二度と戻れない。向こうの世界で二度目の死を迎えることになる」
ダルそうな黒い眼。
「決して己が転生者だと悟られないことだ」
「はあ……」
ヒルコがのそりと立ち上がる。顎を掻く。
「勝ち残りたまえよ、久坂那津」
ヒルコが歩き去った。
僕は客席にひとり残された。
考えが全然まとまらない。
本当に僕は死んだのか?
じゃあ、ここは何なんだ。
ここにいる僕は何なんだ。
魂だけの存在?
別の世界に転生?
さっぱり意味が分からない。夢でも見ているのか。いや、夢に違いない。
とにかく急いでここから出よう。競技場の外に出れば、目が覚めて……
ブツン……
ブラックアウト。