第96話 表裏で動く試練の準備
「はっ、はっ、はっ……すぅ…………!」
深々と降り続ける純白の雪。
雪肌の剥げた地面の真ん中で一人佇んで空を見上げながら呼吸を整える瑠奈の周りには、C~Bランクモンスターの亡骸が死屍累々と積み上がり、雪とは対照的な黒い塵が舞い散っていく。
そんな殺伐とした光景の中、圧倒的な存在感を放つ巨体が瑠奈の正面に立っていた。
もう二時間は探索している中で何度か戦闘したBランクモンスター【グレイシア・グリズリー】の三メートルを誇る巨体ですら小さく感じてしまう体躯。
全長はおそらく五メートルを少し超す。
白と灰色の体毛に覆い尽くされたその巨体は二本の脚で支えられており、筋骨隆々とした両腕の先には、氷なのだろうが硬質な金属光沢を帯びた長く鋭利な爪が生えている。
顔は大きく鼻先が突き出た形をしており、大きく開く顎には所狭しと牙が並んでいる。
尖った耳。
獰猛な青白い眼。
毛束のような長い尻尾。
この雪化粧された林のダンジョンの主――Aランクモンスター【アバランシュ・ウェアウルフ】だ。
「グルルゥゥ…………」
自身の縄張りであるこの辺り一帯で、瑠奈が好き放題暴れ回ったことに腹を立てているのだろう。
喉を低く唸らせて牙を剥き、殺気を込めた眼光で瑠奈を睨みつけるが、本能のまま襲い掛かってこず冷静に様子を窺うのは、流石Aランクモンスターの知能と言えるだろう。
「はぁ……」
瑠奈は擦っていた息を吐いて呼吸を整え終わると、仰ぎ向かせていた顔を正面に戻す。
「ウウゥ……!!」
「あはっ」
青白いウェアウルフの眼と、金色の瑠奈の瞳が見詰め合った。
三、四、五秒……と経ち、辺りに積み上がっていたモンスターの亡骸が粗方黒い塵と化して雪景色に溶けていった頃。
ザッ――と近くの木の枝に積もっていた雪が地面に落ちた。
「ふっ――!!」
落雪の音を切っ掛けに、瑠奈はグッと腰を落として地面を踏み込むと、瞬時に蹴り出して距離を詰めようと試みる。
だが、同時にウェアウルフも動きを見せていた。
「ヒュゥ――!!」
大きく膨張する胸。
鼻と口から同時に吸い込んだ空気が溜まっているのだ。
こんな挙動を見せたモンスターが行う攻撃は、これまでの瑠奈の戦闘経験から導き出すに――――
「やばっ……!」
「ヴオオォォオオオオオンッ!!!」
生存本能とも言える、刹那の反射的な判断で咄嗟に横へ飛び退いた瑠奈。
ほんのコンマ数秒後には、先程までいた場所にウェアウルフのシャウトが――指向性を持った爆音波が襲い掛かった。
文字通り大気を震わせるその振動は、到達と共に積もった雪を薙ぎ払い、その下にある硬い地面を深く抉ってクレーターを作った。
そんな光景を尻目に一度大きく目を見開いた瑠奈だったが、すぐにニヤリと口許を歪めて、楽し気な視線をウェアウルフに注ぐ。
「あっはは! 躱しても耳がキーンとするなぁ~!!」
胸に空気を大量に吸い込んでのシャウト。
直撃すれば三半規管は破壊され、身体機能的に立っていることさえ困難になるだけでなく、地面を穿つほどの振動によって筋組織や骨、内臓までもがグシャグシャになってしまう。
これまで戦ったAランクモンスター。
【ヴォルカニック・フレイムドラゴン】の火炎放射程の派手さはないし、【ドライアド】の槍とも形容できる固い植物の棘を四方に爆散させる攻撃程の殲滅力もない。
しかし、対峙した一体を――獲物を確実に行動不能に追い詰めるハンターの一撃に他ならない。
それでも。
そんな凶悪な攻撃を目の当たりにしてもなお、瑠奈は臆せず、恐れず、迷わず――――
「あはっ!!」
――笑う。
煌めく曲線の刃。
その深紅の切っ先に、更に深紅の焔がシュバッ! と灯る。
「【バーニング・オブ・リコリス】ッ!!」
ウェアウルフの側面を取った瑠奈。
燃える大鎌を両手に持ち、巧みに振るって連撃を繰り出す。
右袈裟斬りから返す刃で切り上げ、一度頭上で一回転させると左袈裟から横薙ぎ一閃と、立て続けに四連撃。
しかし――――
ガガガガガガキィンッ!!
「グルゥ……!!」
「っ、そう来なくっちゃ……!」
それらの斬撃は、ウェアウルフの両手の大きな爪によって相殺された。
ギラリ、とウェアウルフの双眼が獰猛に輝く。
大きな筋肉の浮き出る両腕を持ち上げ、足元に立つ瑠奈を叩き潰すべく――――
「グルルオォォオオオオオッ!!」
勢いよく振り下ろした。
巨体が誇るその大質量。
逞しい筋肉が生み出す膨大なエネルギー。
瑠奈の小柄な身体をぺしゃんこにするには充分すぎるその鉄槌を前に、瑠奈は口角を持ち上げる。
「っはは!! あっははははははっ!!」
ブワァアアア!! と【狂花爛漫】による赤いオーラが全身から火山噴火のように溢れ出した。
地面を踏み切り、その場に飛び上がると宙で五百四十度回転して遠心力を乗せた右足を蹴り上げた。
ズダァァアアアアアンッ!!
巨体から繰り出されるウェアウルフの両腕の鉄槌と、瑠奈の華奢でしなやかな右足が激突する。
辺り一帯に激しい衝撃音を轟き響かせながら、じりじりと大気を唸らせた。
体感的に永遠にも感じられるような衝突の拮抗は、実時間ほんの数秒の内に傾いた。
「はあぁあああッ!!」
「グルゥッ!?」
ダァンッ! と瑠奈の片足が、ウェアウルフの両腕を打ち破る。
その太い腕は弾き飛ばされ、ウェアウルフは状態を大きく仰け反らせる。
そこへ瑠奈はすかさず回転の勢いを殺さずに振るった大鎌を煌めかせた。
ブシャァアアア!!
噴き上がるのは鮮血。
宙を舞うのは丸太のように逞しいウェアウルフの両腕――その肘から先だ。
痛みがウェアウルフの脳に認識されるより早く。
ウェアウルフの痛みが苦痛に歪むより先に。
瑠奈の背中から二本の黒い火柱が立つ。
その中から――いや、その黒炎が一枚一枚の羽根を形作って紡ぎ、編んで、大きく立派な二翼一対の黒翼を生み出す。
「ぶっ飛べぇえええっ!!」
叫ぶと同時、瑠奈は背の黒翼を前方に突き出してウェアウルフの胴体を強く殴りつけた。
「グワウゥ……!?」
二本の脚の裏を雪肌に滑らせながら、大きく後方に吹っ飛ばされるウェアウルフ。
その巨体に油断のない金色の視線を向けながら、地面を強く踏みしめ、双翼を左右に大きく広げる瑠奈。
「行くよっ……!!」
バンッ!!
と、さも銃声のように響いたのは蹴り出しの音。
地面を捲り上げる足。
空気を押しやる翼。
大地と空を蹴って推進力に乗り、身体を覆い尽くすオーラと湾曲した刃に灯す焔で赤い軌跡を描く。
グングンと迫る瑠奈を向かい打つべく、ウェアウルフは再び胸一杯に空気を吸い込む。
瑠奈もその予備動作を視界に納めるが、最短距離を一直線に駆けることを辞めない。
ウェアウルフの膨張する胸部。
瑠奈の疾く駆ける翼。
カッ、と開け放たれる大きな咢。
スッ、と振り開けられる大鎌。
「ヴオオォォオオオオオン――ッ!!」
「あははっ!!」
そのシャウトは音の壁を撃ち砕いた。
硬い地面すら穿つその大音響を湛えたソニックブームが、ストップウォッチを押す間すらなく瑠奈の眼前に到達する。
不可視の砲撃。
超音速の衝撃。
そんな命の叫びを、瑠奈の大鎌は――――
ズパァァアアアアアアアアアアアンッ!!
縦一閃に斬り捨てた。
人の目には視認することすらできない波動は両断され、瑠奈の左右後方の地面を抉る。
想像もしていなかったであろうその展開に目を剥くウェアウルフの先で、瑠奈は刃を返しながら巨体の懐に足を踏み入れた。
「咲けっ――《バーニング・オブ・リコリス》ぅうううッ!!」
斬ッ!!
左下から右上へ斜めに一直線。
深紅に燃える一太刀が駆け抜けた。
断面から鮮血が散華するより先に、迸った爆炎が花開く。
シュバァアアアン――――!!
辺り一帯の雪を吹き飛ばし、溶かしきり、水蒸気と昇華させる。
純白の景色の中、雪林の主――Aランクモンスター【アバランシュ・ウェアウルフ】はその巨体を崩し、黒い塵となって深々と舞い落ちる雪と溶けた――――
◇◆◇
同時刻。
某所にて――――
カツ、カツ、カツ…………
強固なコンクリートで固められた地下空間。
等間隔に並ぶ牢の鉄格子を脇目に、一人の青年が歩いている。
長身痩躯。
眉目秀麗。
特徴的な糸のように細められた瞳。
物々しいこの場所を落ち着いた足取りで進みながら、この空間の最奥へと足を踏み入れた。
そこは独房。
他の牢屋とは一線を画した、一部の者しか知らない定期的に変更されるパスワードを入力して開かねばならない重厚な扉の先。
厳しいセキュリティーの中に置かれたその鉄格子の前で、その青年は立ち止まった。
「お久し振りです」
「……んあぁ? 誰かと思えば……【魔王】か」
薄暗い鉄格子の向こう側から「何の用だ」と、しゃがれた男性の低い声が返ってくる。
青年は――Sランク探索者【魔王】は、静かに答えた。
「ギルドから指令です。貴方にやってもらいたいことがあります」
「あぁ、指令だぁ? 笑わせんな。EADは没収され、こうして投獄。俺はもうギルド所属の探索者じゃねぇ。ギルドの指令を受ける義務もねぇよ」
薄闇の向こうから聞こえる声は煩わしげだった。
それでも【魔王】はそんな反応は想定済みだと言わんばかりに、動揺することなく淡々と続ける。
「もちろんその通りです。貴方の探索者としての名前は既にギルドから除名済み。探索者ですらない以上、ギルドの指示に従う必要は皆無です」
んなら――と口を開こうとした薄闇の向こう側の人物の言葉を待たず、【魔王】は食い気味に言った。
「ですから、これは取引です」
「取引ぃ?」
「話を受け入れてくれるなら、一時的にEADは返還され、ある程度減刑されるでしょう」
切られたカード。
提示された条件に、鉄格子の向こう側が沈黙する。
「貴方にとって、悪い話ではないと思いますが?」
「…………」
そんな【魔王】の問い掛けに対してしばらくの沈黙が続いたあと、ようやく聞こえたのは「っ、はぁ~」とどこか諦めたような長いため息。
「俺が首を縦に振るかどうかは、まずその話ってヤツを聞いてからだ――」




