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虫の作文

作者: 山口康弘

第一章  旅の始まり


春野りょうたは、小学三年生。いつも元気に登校するが、今日は何だか様子が違う。ランドセルを前に抱えて、ゆっくり、ゆっくり、揺らさぬよう歩いている。どうやらランドセルの中に、何か大切なものを隠し持っているようだ。

では、その答えを言う前に、昨夜の出来事から話すとしよう。

夕食を終え、お風呂に入り、りょうたがベッドに入ろうとしたその時、「ギャー」と、けたたましい叫び声が聞こえた。それに続いてバタバタとあわただしく駆け回る音。あわてて部屋の外に出てみると、髪を振り乱したお母さんがスリッパ片手に廊下に這いつくばっていた。

「どこ、どこ、どこよ、どこ行った。さあ、観念して出てらっしゃい」

キョロキョロと、あたりを見渡していたお母さんが背中を向けたその瞬間、スルルルっと、こげ茶色の小さなかたまりが、りょうたの足元をすり抜け、彼の部屋の中へと逃げ込んできた。

キッとした表情で、お母さんが振り返る。

「そっちに行かなかった」

「えっ、何が」

「ゴキブリよ」

「い、いや、見なかったけど」

「おかしいわね。じゃあ、また台所に逃げもどったのかしら。りょうちゃん、見つけたら、お母さんを呼ぶのよ。いいわね」

「うん、わかった」

お母さんが去っていくのを確認すると、りょうたは目を輝かせて部屋の中を振り返った。目を輝かせたわけは、りょうたが大の昆虫好きだからだ。虫なら何だってかまわない。もちろんそれがゴキブリだって。

「どこに隠れているの」

声を弾ませベッドの下をのぞき込むと、いたいた、さっきのチャバネゴキブリが、暗闇の中から警戒の目を、じっとりょうたに向けていた。

「やっぱり、そこにいたんだ。でも、もう怖がらなくても大丈夫だよ。ドアを開けておくから、今度は気をつけて巣に帰るんだよ」

やさしく声をかけると、りょうたは部屋の明かりを消した。いつもなら眠くなるまで本を読んで過ごすのだが、ゴキブリが夜の明かりを怖がることを知っているから急いで消したのだ。しかし、布団の中に入ってからも、ベッドの下のゴキブリが気になってなかなか眠りにつくことができなかった。


第一章  旅の始まり


春野りょうたは、小学三年生。いつも元気に登校するが、今日は何だか様子が違う。ランドセルを前に抱えて、ゆっくり、ゆっくり、揺らさぬよう歩いている。どうやらランドセルの中に、何か大切なものを隠し持っているようだ。

では、その答えを言う前に、昨夜の出来事から話すとしよう。

夕食を終え、お風呂に入り、りょうたがベッドに入ろうとしたその時、「ギャー」と、けたたましい叫び声が聞こえた。それに続いてバタバタとあわただしく駆け回る音。あわてて部屋の外に出てみると、髪を振り乱したお母さんがスリッパ片手に廊下に這いつくばっていた。

「どこ、どこ、どこよ、どこ行った。さあ、観念して出てらっしゃい」

キョロキョロと、あたりを見渡していたお母さんが背中を向けたその瞬間、スルルルっと、こげ茶色の小さなかたまりが、りょうたの足元をすり抜け、彼の部屋の中へと逃げ込んできた。

キッとした表情で、お母さんが振り返る。

「そっちに行かなかった」

「えっ、何が」

「ゴキブリよ」

「い、いや、見なかったけど」

「おかしいわね。じゃあ、また台所に逃げもどったのかしら。りょうちゃん、見つけたら、お母さんを呼ぶのよ。いいわね」

「うん、わかった」

お母さんが去っていくのを確認すると、りょうたは目を輝かせて部屋の中を振り返った。目を輝かせたわけは、りょうたが大の昆虫好きだからだ。虫なら何だってかまわない。もちろんそれがゴキブリだって。

「どこに隠れているの」

声を弾ませベッドの下をのぞき込むと、いたいた、さっきのチャバネゴキブリが、暗闇の中から警戒の目を、じっとりょうたに向けていた。

「やっぱり、そこにいたんだ。でも、もう怖がらなくても大丈夫だよ。ドアを開けておくから、今度は気をつけて巣に帰るんだよ」

やさしく声をかけると、りょうたは部屋の明かりを消した。いつもなら眠くなるまで本を読んで過ごすのだが、ゴキブリが夜の明かりを怖がることを知っているから急いで消したのだ。しかし、布団の中に入ってからも、ベッドの下のゴキブリが気になってなかなか眠りにつくことができなかった。


朝、目を覚ますと同時にベッドの下をのぞき込むと、なんと驚いたことに、昨夜のゴキブリが昨日と同じ場所にいるではないか。

「えーっ、どうして巣に帰らなかったの」

ゴキブリは、りょうたが起きるのを待っていたかのように、スルスルッと動き出し、彼のそばまで近づいてきた。

「おい、なに考えてるの。人間に見つかったら逃げなきゃダメじゃないか」

強い口調で言いながら、りょうたはゴキブリに向かって指を突き出した。だがなんと、ゴキブリは、りょうたのその指に触覚を当てるや、そのままスルッと手の甲にまで這い上がって来た。

「えっ、なんで」

ゴキブリを手に乗っけたのは初めてだ。りょうたは思わず、顔の前まで指を近づけ、まじまじとゴキブリを見た。

「あれ、誰かに似ているな……あっ、グリーヴァス将軍だ」

大きな声を上げたのも無理はない。ゴキブリの顔は、りょうたが大好きなスターウォーズの映画に出てくる勇者にそっくりだったのだ。

「へえー、格好いい顔していたんだなあ」

りょうたには、もうひとつの発見があった。それは、ゴキブリの軽さだ。

手の上のゴキブリは、まるで紙細工のように軽くて頼りない。ゴキブリは、薄っぺらいその身体から生やした長い触覚を、ひょろひょろっと動かし、りょうたの鼻先に触れさせてきた。

「もう、くすぐったいよ」

「りょうちゃん、早くしないと遅れるわよ」

その時、台所からお母さんの呼ぶ声が聞こえた。

「やばいなあ」

と言うのも、りょうたが学校に行った後、お母さんが必ずこの部屋に来て、掃除を始めるからだ。こんな人懐っこいゴキブリなら、きっとまた、お母さんに見つかってしまうだろう。でも、今度見つかったら、間違いなく叩きつぶされてしまうに違いない。かといって窓の外に逃がしても、他の虫や鳥とかに食べられてしまうかもしれないし……。

「困ったなあ。あー、どうしよう」

「まだ寝ているのかしら」

お母さんの足音がこっちに向かってくる。

「そうだ、この中にお入り」

りょうたがとっさに筆箱のフタを開けると、ゴキブリも素直にその中へと身を隠した。


ランドセルを揺らさないように、りょうたが慎重に歩いているのは、その中にゴキブリを隠し持っていたからなのだ。

 学校に着いてからも、緊張の連続だった。

ゴキブリが筆箱の中で、カサカサと音を立てる。教室がシーンと静まった時など、誰かに聞かれなかったかと、りょうたは何度もひやひやさせられた。わざと咳払いをしたり、ぽんぽんと膝を叩いてごまかしながら、なんとか誰にも気づかれず、午前中を乗り切ることができた。そして迎えた給食の時間。水曜日の今日は、給食が終われば、あとは掃除をして帰るだけだ。

今日のメニューは、りょうたが好きなハンバーグだった。

さあ、食べようとした時、りょうたは大切なことを思い出した。

「きっとゴキブリも、お腹を減らしているだろう」

あたりの様子を確認してみたが、みんな食事に夢中のようで、りょうたの方を見ている者などいない。

「よし、今なら大丈夫そうだ」

りょうたは、筆箱を取り出すと、そっと小さくフタを開け、その中にハンバーグの欠片を入れた。

「食べたかな、食べているかな」

りょうたは気になり、再びフタを開けて中を覗いた。

「あっ、食べてる、食べてる。そうか、ゴキブリもハンバーグが好きなんだな」


クラスメイトの夏川ケイは、朝からずっと、隣の席のりょうたの様子が気になって仕方がなかった。それに空耳だろうか、時折「カサカサ」と変な音が聞こえてくる。そんな彼女だったので、たった今の、りょうたのおかしな行動を見逃さなかった。

「どうして筆箱の中に……」

ケイは、そっと立ち上がると、りょうたの席の後ろに回って机の上を覗き見た。

りょうたの後ろ席の山下チカも、ケイにつられたように立ち上がり、ケイのすぐ後ろから首を伸ばした。しかし、ゴキブリの餌やりに夢中のりょうたは、そんな二人の動きに、まったく気がついていない。

「そうだ、野菜もあげたほうがいいな」

りょうたは、今度は玉ねぎのかけらをつまんで、筆箱のフタを開けた。と、その瞬間、「キャーッ」と、けたたましい悲鳴が、教室中に響き渡った。

「山下さん、どうしたの」

クラスのみんなが、チカを振り向き、教壇で給食を食べていた担任の片山ひとみ先生が、あわてて近づいてきた。

「せ、先生、ゴ、ゴ……ゴキブリがいます」

「ど、どこに」

「春野くんの……」

チカは震える手が、りょうたの筆箱を指さしている。

「筆箱の中? そんなわけがないでしょ。春野くん、筆箱を開けて、山下さんに中を見せてあげなさい」

しかし、りょうたは、固まったように、じっとうつむいたままだ。

「どうしたの」

ひとみ先生は笑いながら、りょうたの筆箱に手を伸ばすと、そのフタを開けた。

筆箱の中から外を見上げる、チャバネゴキブリ。

それを見下ろす、ひとみ先生。

しばらく二人は、黙ったまんま見つめ合っていたが、次の瞬間、ひとみ先生は、奇声を発して筆箱を放り投げた。そして、ゴキブリも中から飛び出し、そのまま教室の外へと逃げ去って行った。



「どうして、あんなことをしたの?」

放課後の教室。ひとみ先生の前でりょうたがうなだれている。

「ゴキブリを筆箱の中に隠し持ってくるなんて、みんなを驚かせたかったの?」

今まで一度も見たこともないような、ひとみ先生の怖い表情。りょうたはなんだか、悲しいような気持ちになって、なにも尋ねられても、答えることが出来なかった。


ひとみ先生が、こんなにも腹を立てているのには、深い理由があった。そうなのだ、彼女は、久しぶりにゴキブリを目にしたことで、子供の頃に体験した、悪夢のような出来事を思い出していたのだ。 

それは、ひとみ先生が小学六年生の時のことだ。

その日の一、二限目は理科の時間で、カエルの解剖実験の授業だった。

実験台の上には、生きたまま、はりつけにされたトノサマガエルが、苦しそうに手足を動かしている。

「ああ、いやだ、いやだ」

もし自分がカエルの立場だったらと、そればかりを想像してしまう。それにいくら目を閉じても、カエルの苦しむ様子が頭の中に浮かんできて止めようがなかった。

そんなひとみ先生とは対照的に、同じ班のヤスオ達、男子三人組は、はしゃいだ様子で解剖作業を進めている。

「なんであんなに、楽しそうにしていられるのだろう」

ひとみ先生は、心の中で何度もつぶやいていた。

やっとのことで解剖の実験が終わり、もうフラフラになりながら後片付けを始めたひと

み先生の隣で、まだヤスオ達が騒いでいる。

「お前ら、知ってるか。こいつの生命力って、すごいんだぜ」

「すごいって、何が」

「こいつはな、首を切られても、半日以上、生き続けるんだぜ」

「そんなの、無理に決まってるじゃん」

「じゃあ、やってみせてやろっか」

「カエル? それと別の生き物? 何をしでかそうとしているの。ああ、嫌だ、嫌い

だ、もう止めて」

ひとみ先生の願いが届いたのか、担任の黒川先生が、彼らの行動に気づき、「命をもて

あそんではいかん」と、叱ってくれたので、彼らの騒ぎもようやく治まり事なきを得た。そう、そのはずだった。

最後に拭き掃除を始めたひとみ先生は、実験台の上に小さな消しゴムのカスが残っているのを見つけた。それを拾おうと手を伸ばしかけた時、その消しゴムのカスが微かかすかに動いたような気がした。当時から、あまり視力が良くなかったひとみ先生が、顔を近づけて見てみると、そこには……。

大きな黒い目、長い触覚。

なんと、消しゴムのカスに見えていたのは、切り離されたゴキブリの頭だったのだ。

ひとみ先生が見つめる先で、頭だけにされたゴキブリは、四本の髭を、びくびくと動かし、何かを必死に訴えているように見えた。

十八年の時が流れた今でも、あの時の記憶が、ひとみ先生の瞼に焼きついたまま、決して消えることがない。

「この世で一番怖いものは」と、訊ねられる度、ひとみ先生は「ゴキブリ」と、答えてきた。ハチでも、クモでも、ヘビでもない。ゴキブリだ。ワニでも、トラでも、雷でもない。ゴキブリ以上に怖いものなど、この世に存在しない。だからひとみ先生は、ワンルームマンションで住んでいる今も、コンバットを部屋の隅々に八個も置いて、月に一度は取り換えている。

 

悪夢を振り払うかの様に、首を左右に大きく振ると、ひとみ先生は、りょうたの方に向きなおった。

 「それにね、虫だってかわいそうでしょ。いたずらに捕まえられて、小さな箱の中に押し込められて。春野くん、虫だって、虫だって生きているんですよ。さあ、どうしてあんなことをしたのか、理由を説明してください」

 しかし、りょうたは顔を赤くしたまま、うつむいている。

ひとみ先生は、大きなため息をひとつつくと、残念そうな口調で続けた。

「じゃあもう、今日は帰っていいです。ただし、明日までに反省文を書いてきてください。いいですか、生きものの気持ちになって、しっかり反省して書くんですよ」

りょうたが、トボトボと昇降口のところまでくると、ケイが心配そうな表情を浮かべて待っていた。

「大丈夫? 叱られた?」

「うん、大丈夫」

りょうたは、ケイの姿を見て、いっぺんに元気を取り戻した。

りょうたとケイは、仲良し小良しだ。それに、同じ団地に住んでいることもあり、小さい頃からいつも一緒にいた。ケイは、ほんの微かに甘いナッツのような香りがする。りょうたは、この香りに包まれていると、どこか懐かしいような安らいだ気持ちになれるのだ。

「ごめんね。私が気づかなかったら、チカちゃんや先生を驚かせることもなかったのに」

「いや、ぼくが悪いんだ」

りょうたの明るい声に、ケイも安心したのか、クスッと笑ってあとを続けた。

「でも、ゴキブリをペットにしているとはな」

「あれは、仕方がなかたんだよ。あのゴキブリ、隠れてくれないんだから。でも、ちゃんと逃げられたかな……」

 その時、下駄箱の上から、りょうたのランドセルへ、何か茶色い生き物が飛び移ったことに、二人とも気づいてはいなかった。

二人の家がある棟の近くまで帰って来たが、りょうたは団地の敷地に入ることを、どこかためらっているようだ。

「帰らないの?」

「うん。早く帰ったって、どうせ叱られる時間が長くなるだけだし。それに、反省文を書かなきゃいけないんだ」

「えっ、そうなの」

「作文、嫌いだからなあ」

「じゃあ、どうするの?」

「久しぶりに、虫釣りにでも行こうかな」

「じゃあ、私も行く」

虫釣りと言えば、ハンミョウ釣りだ。ハンミョウは、数ある虫の中でも、りょうたが一番好きな昆虫だった。とくに成虫は、金属のような鮮やかな光沢で、走る速さも空を飛ぶよう。まるでカラフルなF1カーを見ているような気になれる。

ケイも女の子には珍しく昆虫が苦手ではない。特に幼虫は、彼女の父の実家が蚕農家ということもあり、小さい頃から見慣れているせいか、苦手と言うより、どちらかと言えば好きな方だ。夏休みに父の実家に行った時など、蚕たちが桑の葉をムシャムシャ食べる音を聞いていると、なぜか安心してよく眠れた。

りょうたがいつも釣りに行くのは、裏山神社だ。その階段を駆け上がり、社殿の裏へと回ると、いるいる、軒下のあちらこちらに、五ミリくらいの穴がいくつも空いていた。そう、これら全部がハンミョウの幼虫の巣穴なのだ。

ハンミョウ釣りは、細い草さえあれば簡単にできる。巣穴をふさがれた幼虫が、邪魔な草をどけようとくわえて持ち上げる。その時がチャンスだ。

りょうたは早速、近くにあったぺんぺん草を引き抜いて、巣穴のひとつに差し込んだ。

すぐに草がかすかに動いた。その瞬間、りょうたが勢いよく引き抜くと、草の先で、ぷくぷくと太ったハンミョウが、胴体をくねくねとくねらせていた。

「この大きさなら、あと一回も脱皮をしたら成虫だな」

りょうたは満足そうに、手にしたハンミョウを眺めてつぶやいた。

ハンミョウの幼虫期間は二年ほどだが、その間、四、五回脱皮を続けて成虫になる。また成虫は、一度に百個くらいの卵を産むが、幼虫のほとんどが飢えて死ぬか、鳥などに食べられ成虫になれないことも、りょうたは図鑑で調べて知っていた。

ハンミョウを何匹か釣るうちに、社殿の西側と東側で大きさに差があることに気がついた。日向の方は、餌になる虫があまり通らないのかも知れない。

二人は、日向の幼虫の中から小さい順に五匹選んで、日陰にあった空の巣穴に移すことにした。何匹も釣り上げては、その大きさを見比べ、ようやく数時間かかって、引っ越し作業を終えた。

「よしっと。ひとまずこれで安心だな」

「そうだね、でも、また様子を見にこなきゃな」

「じゃあ、どうする。そろそろ帰ろっか」

「そうだね」

りょうたは返事をしたものの、なかなか腰を上げようとしない。

「反省文、書けそう?」

「文を書くの苦手だからな。それに、ひとみ先生、虫の気持ちになって書けなんて無茶を言うんだ。人間に虫の気持ちが分かるわけないのに」

「あっ、いいことがある」

ケイは、思いついたアイデアに目を輝かせて後を続けた。

「それなら、虫神さんにお願いしてみたら。桐生のおばあちゃんがね、若い時、そこの虫神さんにお願いしたんだって。繭の扇を作れますようにって」

「繭の扇って、この前見せてくれた、あれ?」

「うん」

りょうたが見せてもらったその扇は、手に触れるのもためらわれるような、とても高貴な感じがする、眩しいほどに美しいものだった。

「繭の扇って、どうやって作るの?」

「まず骨になる素木を広げ、その上を数匹の蚕を歩かせて作るの。ロウソクの灯や、扇の返し方にコツがあるらしいんだけど、何よりも大切なことは、虫の気持ちを理解することなんだって。虫が行きたい方へ歩かせていれば自然に作れるそうなんだけど、おばあちゃん、何年たっても上手く出来なかったらしいの。それが、そこの虫神さまにお願いした途端、作れるようになったんだって」

「そうなんだ。じゃあ、試しにぼくも、お願いしてみよっかな」

「そうしよう」

地元の人から「虫神さん」と、親しみを込めて呼ばれているその神さまが、神社の裏手に摂社されてあった。祠を覆うように、橘の木が葉を茂らせているのが目印だ。また、祠の中には芋虫のような形をした石が静かに鎮座している。

祠の前まで来ると、りょうたは早速、ひざまずき、願い事を口にした。

「虫の気持ちがわかるようになって、反省文がうまく書けますように」

ケイも、りょうたの隣りに腰を下ろして手を合わせている。

しばらくして、りょうたが立ち上がっても、ケイはまだ、目を閉じたまんまだ。

「行こう。あれ、どうしたの、ねえ……」

 その時、突然、茶色い霧が立ち込めて来た。

その霧は、どんどん濃くなり、二人を包み込んでいく。

 「えっ」

 どこからか、声が聞こえて来た。

「いかん、いかん。これじゃ保護色になって、わしの姿が見えんがな」

その声は、どうやら、祠の上の方から聞こえてくるようだ。

「えっ、どなたですか?」

必死に目を凝らしても、霧がますます濃くなって、あたり一面、何も見えない。

「わしじゃよ、わしじゃ。おぬしに命を救われたゴキブリじゃ」

「はあ?」

「おかげで寿命の終わりに、いい思い出ができたわ。それに、あのハンバーグも、うまかった。しかし、そろそろ寿命がつきる時じゃ。よし、命の置き土産に、さっきのお前の望みをかなえてやろう」

「えっ?」

「虫の気持ちが知りたいんじゃったな。ならば、虫になるしかあるまい。さあ、願い通りに虫にしてやるから、好きな虫の名を言ってみなさい。ひとつじゃなくてもええぞ。さあ、遠慮せんと」

「えっ、どういうことですか?」

「時間がないんじゃ。早くせんか」

「あっ、はい。じゃあ……ゴキブリ」

「ほお、ゴキブリか。よし、わかった。他には、他にもっと好きな虫はいないのか」

「じゃ、じゃあ、ハンミョウ……それからアブラゼミとか……」

「その願い、全て叶えてしんぜよう」

いきなり声が大きくなってきた。

「ただし、一つだけ条件がある」

「条件?」

「その条件とは、すべての命をしっかりと生ききることじゃ」

「生き…きる…ですか?」

「そうじゃ。与えられた人生が、たとえどんなものであろうとも、最後の一瞬まで精一杯に生きる。どうじゃ、おぬし、そのことが約束できるか」

「あっ、はい」

「あいわかった。じゃあ行ってこい。行って、しっかりと味わってくるのじゃ」

声は突然、絶叫へと変わり、あたり一帯にまで響き渡った。

「ゴキ、ゴキ、ゴキ、ゴキ、ゴキキキ!!!」



第二章 巣立つ日まで


シャカシャカシャカシャカ、ビューンビューン。

シャカシャカシャカシャカ、ヒーヤー。

スピード、スピード、スッピード。ハンミョウさまのお通りだい。

芋虫、バッタを追いかけて、全速力で、ビューン、ビューン。

おおっと、おっと、ストップ、ストップ、クイックターン。

うまそうな獲物じゃないか。

どりゃ、がばっ、ふんぐ。

ほら見ろ、どうだい、捕まえた。

むしゃ、むしゃ、ごっくん、ごっくんくん。

うわぁー、芋虫をひと飲みか。美味いんだろうなあ。


ハンミョウの成虫の狩りの様子に声援を送り、じっと眺めている幼虫がいる。

何を隠そう、この幼虫こそ、ゴキブリの念力で昆虫の生を得た、りょうたなのだ。

りょうたはこうしてハンミョウの幼虫となり、じっと巣穴に潜んでいるが、人間だった時の記憶は、すっかり消えてしまっている。


シャカシャカシャカシャカ、ビューンビューン。

シャカシャカシャカシャカ、ヒーヤー。

スピード、スピード、スッピード。

行け、行け、ゴーゴー、七色メタルの宝石虫。

いいなあ、いいなあ、格好いいな。

ぼくもいつか成虫になって、あんな風に走りまわるんだ。

はあ、それにしたって、お腹がペコペコだ。

深いため息を漏らしたのもそのはず、りょうたはもう二週間、たった一匹の獲物にもありついていない。

と、その時、待ちに待った獲物が、ひょこひょこと近づいてきた。

「あっ、ゴキブリだ。よーし、こっちだ、こっち、こっちに来てくださいね」

りょうたは、垂直に掘った巣穴のトンネルに身を隠し、薄く平らな頭でフタをし、息をひそめた。

「うん、来たぞ、来た、来た、あともう一歩」

しかし、りょうたの熱い願いとは裏腹に、足音は、右側へとそれて行ってしまった。

頭のフタを持ち上げ、足音が去った方に目をやると、ふたつ向こうの巣穴の主が、ガバッと大きく伸びあがり、ゴキブリを素早く咥えて巣穴に消えていくのが見えた。

「ちくしょう、あいつ今日、二食目じゃないか。それに、今年生まれただけなのに、もうあんなに大きくなりやがって」

どんどん大きくなっていくライバル。それに引き換え、りょうたはもう二歳になるが、まだ一度も脱皮をしていない。もしもこのまま今年のチャンスを逃したら、成虫になれないまま生を終えてしまうかも知れない。それに、さっきのライバルだけじゃなく、まわりは、りょうたと同じハンミョウの幼虫が潜む穴だらけ。そのあちらこちらから、よく似た顔を突き出して、さっきのゴキブリを手にした巣穴の方に、羨望の眼差しを向けていた。通りかかる獲物に比べ、ライバルの数は果てしなく多い。

そんな、獲物を待つしかない幼虫に比べ、成虫たちは自由自在だ。猛スピードで駆け回っては、空を飛び、獲物だって取り放題。ハンミョウの成虫は、この世界の王様のようだ。きっと、この成虫の中には、りょうたを産んでくれた、お母さんがいるはずだ。しかし、虫一匹も恵んではくれない。ハンミョウの幼虫は、自分の力だけで大人になって行くしかないのだ。

その時、大きなダンゴムシが現れた。しかし、りょうたが身を隠すまでもなく、その獲物は、三つ向こうの幼虫の餌食となった。

「なんだよ、あの穴だったか」

りょうたがうめいたのも無理はない。今、ダンゴムシが消えた穴は、三日前までりょうたが住んでいた巣穴だからだ。

「あー、ついてない、ついてない。こんなことなら引っ越ししなきゃよかったよ。それにしたってあのダンゴムシ、美味そうだったな。ぼく、一度も食べたことないんだよな。あー、食べてみたいな」

口数が多いので、元気そうに見えるが、りょうたが置かれた状況は、日々厳しさを増している。このままでは成虫になれないどころか、近日中に飢えて死んでしまうかも知れない。しかし、自由に外を駆け回れない幼虫は、ただひたすら、獲物が来るのを待つしかないのだ。

祈るような気持ちで、りょうたはあたりを見渡した。そして、その視線が、すぐ隣の穴に止まった。

その穴主は、三日前から巣穴に閉じこもったままだ。蛹になるには、まだまだ小さかったし、いったいどうしてしまったのだろう。

その時、また向こうからテコテコと、ダンゴムシがやって来るのが見えた。それにさっきより方角が自分に近い。

「今度こそ、どうかこっちに、お願いしますね」

りょうたは、急いでで巣穴にもぐると、頭でフタをし、息をひそめた。

「来るぞ、来る、来る……そうだ、そうそう」

ダンゴムシの足音、その小さな振動に全神経を集中させる。

「ようし、よし、よし、ほらあと一歩」

頭に生えた長い毛の感覚器。そこに獲物が触れるまで、あとほんのわずかだ。

「ぐあっばー」

感覚器にダンゴムシが触れた瞬間、りょうたは全身を躍り上がらせた。そして、大顎でガシッとダンゴムシをつかまえた。

ダンゴムシが必死にもがいても、りょうたは背中についたカギを巣穴の壁にひっかけて、決して逃しはしない。そしてそのまま獲物を、巣穴の中へと引きずりこんだ。

二週間ぶりの獲物の味、初めて食べたダンゴムシ。その味は、まさしく絶品だった。濃厚な香りと、甘くてジューシーな味わい。手ごたえのあるのど越し。それらがすべてそろって、最高のハーモニーを奏でていた。

足の指、爪の先まで、力がみなぎって行く。

「パワーイン。よーし、この勢いで、大人に向かってまっしぐらだ。」

りょうたは、天に向かって雄叫びをあげた。

 

二時間後、またしても獲物が近づいてきた。

「今度はアリか。小さいけど、まあいいか。しかし、引っ越ししたのは正解だったな」

  りょうたは巣穴にもぐると、再び地面にフタをした。

「振動、振動、よし、よし、届く」

 力いっぱい伸びあがり、獲物をくわえて巣穴の中へと引きずり込んだ。

「さあ、いただきましょう」

いったん獲物を近くに置いて、くわえ直そうとしたその時、獲物の奇妙な動きに気がついた。というのも、アリが仰向けになり、身体を大きくクの字に曲げて、お尻をこちらに突き出しているからだ。

「おかしいなあ」

アリがこんな動きをすることはない。それによく見たら体形も少し違うようだ。アリには似つかぬポテっとした下腹で……と、その時、お尻の先端から長い針が伸びて来た。

「あっ」

りょうは、慌てて身を引いた。

『この針には絶対刺されてはいけない』と、心の声が知らせてくる。

「そうか……、きっとこいつは、やばい奴なんだ。はあ、危なかった」

りょうたは安堵のため息をつき、アリに似た生き物に向かって言った。

「もう食べないから、さあ、出ておいき」

しかし、アリに似たその生き物は、なかなか巣穴から立ち去ろうとしない。それどころか、まだ仰向けになったまま、ひょこひょこと、しつこくお尻を突き出している。

「もうしつこいなあ。わかったから。それとも、出ていかないんだったら、本当に食べちゃうぞ」

りょうたは脅かすつもりで口を目いっぱい開き、牙を近づけた。と、その瞬間だった。

すうーっと伸びて来た針が、りょうたの胸に……。

前脚が、おだやかに麻痺をしはじめた。

全身から力が抜け……そして、いつしか意識が遠のいていった。



おかしな夢だった。

誰かが、ぼくのお腹に、せっせ、せっせと、苗を植えている夢だ。まるで自分の身体が田んぼにでもなったかのような、変な気持ちがしたものだ。こんなに寝たのは初めてだ。きっと蛹になったら、こんな感じがするのだろう。きっとぼくも、もうすぐ脱皮が出来る。身体の感じでよくわかる。春のうちに二度目の脱皮ができたなら、夏には蛹になって、そしたら、いよいよ成虫だ。

りょうたは大きく伸びをして、地上に頭を出した。

鮮やかなハンミョウの成虫が、朝の光に輝きながら駆け回っている。

格好いいなあ。大人っていいなあ。大人になったなら、最初に何をしようかな。そうだな、まずは自由自在に駆け回ろう。それから、お腹いっぱい食事をし、それから、恋をして、それから、それから、家族をいっぱい作るんだ。ああ、わくわくするなあ。ドキドキするなあ。

その時、お腹がチクリと痛んだ。

 うん? あっ、そうか。二週間ぶりの食事が、あんな大きなダンゴムシだったんだから,

仕方が無いか。しかし、美味しかったなあ。また、やって来ないかなあ。

りょうたは、ニンマリ微笑みながら、あたりを見渡した。

あちこちの巣穴から、幼虫のライバルたちが顔をのぞかせている。しかし、すぐ隣の穴だけは、今日も黒い穴が開いたまんまだ。この巣穴に住んでいるのは、りょうたと同じく去年の春に生まれた幼虫で、互いに競い合ってきたライバルだった。

「あいつ、どうしたのかな……」


この日の狩りは、絶好調だった。

午前中にカメムシを捕まえ、午後にもアリを三匹捕まえたのだ。

しかし、最初チクチクするだけだったお腹の痛みが、少しずつ痛みを増してきている。その痛みは、翌日以降、さらにひどくなり、三日目の夜中過ぎには、とうとう、こらえ

きれないほどまで強まって、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。

四日目、五日目と、ますます痛みは増すばかり。その激しさで、一週間後、地面から顔

を出した時のりょうたは、すっかりやせ衰えていた。

ぼんやりした表情で、りょうたはまた、ぽっかりと開いたままの隣の穴に目をやった。

「もしかしたら、あいつ飢え死にしちゃったのかもなあ……」

その時だ。その黒い穴から、小さな一匹のハチが飛び立っていくのが見えた。

「えっ、どうしてハチが? どうしてハチが、ハンミョウの巣穴にいるんだ。うっ」

突き刺すような痛みに襲われ、りょうたは顔をしかめた。

「このお腹、どうしちゃったんだろう。……痛みが始まったのは、たしか……そうだ、ダンゴムシを初めて食べたあの日で……そのあと、なんかへんてこな奴を捕まえたっけ。アリと間違えて食べそうになったんだけど……」

隣の巣穴から、また一匹、孵化したばかりの小さなハチが飛び立っていく。

その様子を、じっと眺めていた、りょうたの表情が、突然、冷たく固まった。

「ぼく、あいつを追い出したよね。えっ、どうだったっけ……」

次の瞬間、おぞましい光景が、りょうたの脳裏に、まざまざと浮かびあがった。

小さなアリもどき、いや、ハチが、自分のお腹にせっせ、せっせと、卵を産みつけている……まるで田んぼに苗でも植えているように……。

「寄生蜂!」

夢じゃなかった。

あいつは寄生蜂だったんだ。

あの日、ぼくは、あいつに卵を産み付けられてしまったんだ。

全身が、恐怖で凍り付き、世界中のすべての音と光が、りょうたの前から消え去った。



地獄のような時が、延々と続く。

あまりの痛みに気を失くしては、また激痛に目覚めるといったことの繰り返し。お腹の中を喰いちぎられる激痛は、胃から背中、胸、腰、そして全身へと広がっていた。

身体を九の字にしても、ねじり曲げても、うめこうが、泣き叫ぼうが、一時たりとも痛みが治まることがない。

りょうたのお腹のハチの子たちは、ゆっくり、ゆっくりと、りょうたの体を食べ進めていく。成虫になるまでの速度を正確に計算し、宿主を死なせないよう、腐らせないよう気をつけながら、慎重に食べ進めて行く。

生きながらの食料、それが今のりょうただ。そういつか、最後の時が訪れるその日まで。

たった一日、いや、いっときでいいから、駆けてみたかった。自分の足で大地を蹴って、力いっぱい駆け回りたかった。

これじゃいったい何のために生まれて来たのかわからない。

こんなひどい人生があっていいのか。ハチの子の、餌になるためだけの人生だなんて。

りょうたの目から、涙が、ぼろぼろ、ぽろぽろ、あふれ出ていた。

「ああ、死にたくない、死にたくないよお。神様、どうかお願いします。ぼくを、ぼくを、助けてください」


突き刺す痛み。ちぎれる痛み。全身を、激痛につらぬかれ、息も絶え絶えのりょうた。

その表情が、一瞬、鬼に変わった。

「どうせなら、ひと思いに殺してみろよ。畜生、お前たちの、お前たちの好きにされてたまるか。よーし、こうなったら道連れだ。この腹を掻っ捌き、八つ裂きにしてやる」

しかし、その怒りに反し、りょうたの身体はまったく動かなかった。そう、彼にはもう、これっぽっちの力も残されてはいなかったのだ。


また幾日かが過ぎ、りょうたのお腹は、はちきれそうなまでに膨らんでいる。そして、その中で成長したハチの子たちは、いよいよ巣立ちの時を迎えようとしていた。

まず一匹。

小さなハチの成虫が、りょうたの背中の外骨格を突き破り、外の光に向かって、ふらふらーっと飛び立っていった。

りょうたの目は、白く濁ってしまっている。

その後、二匹目のハチが、またふらふらと巣穴の外へと飛び立った。

りょうたは、やはりピクリともしない。

三匹、四匹、五匹、六匹……と、次々にハチの子たちが巣立っていく。

そして、最後の一匹が這い出てくると、宿主を振り返ることもなく、光に向かって飛び去った。

りょうたの目は、白く濁ったまんまだ。

しかし、彼はまだ、息絶えてはいなかった。

白くぼやけた風景の向こう、次々と巣立っていく成虫たちを見送っていた。

そして、どこか不思議な感慨に包まれていた。そうまるで、憎き鬼子のハチの子たちが、自分が産んだ子であるような……。

命がつきる寸前に、りょうたが見た情景……それは、七色の衣をまとって駆け回る、自分自身の勇壮だった。



第三章 心の声に耳を澄ませて


うっつら、うっつら、気持ちいい。

真っ暗な、真綿のような闇の中。

しかしいったい、ここはどこ?

うっつら、うっつら、とても静かだ。

暑くも、寒くもない世界。

そうだ、ここは地面の下だ。

 遠い、遠い夏。

 必死のここまでやって来た。

  でも、いったい、いつのことだっけ?

 

ハンミョウとしての命を終えたりょうたは、今、アブラゼミとして、昆虫二度目の命を生きている。

八年前、枯れ枝に産み落とされ、次の年、雨で柔らかくなった土をかき分け地中に潜り、すでに七年の月日が流れていた。

土の中の時間は、まるで時間が止まっているようだ。長い、長い一日が、ゆっくり、ゆっくりと積み重なって、やがて、ひと月、ふた月、そしてようやく一年が経ち……。

土の中の生活は、快適そのものだ。目が見えなくても、樹液の在りかは匂いで解る。欲しい時、欲しい分だけ樹液を吸って、うっつら、うっつら、あとはただ、まどろみながら過ごしている。

りょうたは、時々、夢を見る。

夢に出てくるのは、いつも光あふれる世界だ。その光の中で、りょうたは元気いっぱい羽ばたいている。そして、そんな夢を見た後は、目が覚めても、まだ全身がときめいていた。


アブラゼミは、地中で六年から七年の時を過ごし、成虫になる。成虫になってからの命の短さに比べ、地中での時間は、彼らにとって永遠にも思える長さかも知れない。

しかし、やっとりょうたにも、成虫になる時が訪れようとしていた。そう、ハンミョウの命を生きていた時、あれだけ憧れていた大人に、とうとうなる時が……。


『起きて』

やさしくささやきかけてくる声に、りょうたは、まどろみから覚めた。

『さあ、起きて。起きて地上へ向かいなさい』

「地上へ?」

声は、身体の奥底から響いてくる。

そして、声を聞いたとたん、今までに感じたことのないような烈しい力が、お腹の底から湧き上がって来た。

『さあ、行きなさい』

声を合図に、りょうたは必死に地上を目指した。

土を掻き、土を掻き、土を掻き……。

そして、とうとう土の中から頭を出した。

「ここが、地上か」

夜の湿度と、草木の香り……。かすかな光も、肌に感じる。

それになんだろう、まるで浮かんででもいるように、身体が軽い。

りょうたは、新鮮な外の空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。

『次は木よ。木に登りなさい』

声の命ずるまま、りょうたは木に這い上がった。

数メートルの高さまでたどり着くと、足の爪でしっかりと身体を固定した。

さあ、いよいよこれからだ。

身体の奥底から響いていた声は、いつしか、自分の心とひとつになった。

 そうなんだ。いよいよ脱皮を始めるんだ。


「うんうんうん」

全身の力をこめて、背中の殻を押す。

「うんうんうん」

やれる、焦るな。

「うんうんうん」

ようやく背中に裂け目が出来た。

「うんうんうん、よし、いける。うんうんうんうん……」

縦の裂け目がパリッと割れて、それと同時に、上半身が躍り出た。

「やった……」

なんと美しい姿なのだろう。

まるで飴細工のような純白の身体と、エメラルド色の翅の輪郭。

小さな殻の中で、ゆっくりと、ゆっくりと育てられていた身体が、今、殻から抜け出て、月の光に輝いている。


りょうたは、反り返ったまま、足が乾くのを静かに待った。

そうして、ようやく、足が固まった。次はいよいよ、全身を抜く番だ。

「よい、よい、よっと」

腹筋運動の要領で起き上がると同時に、りょうたはお腹を抜いた。

ようやく全身を抜き、一息入れたいところだが、ここから先がもっともっと肝心なのだ。朝までに、まっすぐ伸びた翅をつくらなければならない。

翅が弱かったら、少しでもゆがんでしまったら、空を飛ぶことができないからだ。


「伸びろ、伸びろ、まっすぐ伸びろ」

りょうたは、抜け殻にぶら下がり、翅を伸ばした。

「よし、よし、そうだ、その調子。しっかりと、翅の先まで」

翅が真っすぐ伸びてきた。ピーンと伸びたその翅が、徐々に乾いて固まっていく。そしてようやく、力強い茶色い翅へと生まれ変わった。


その時、真っ赤な朝の光が東の空に表れた。

白く濁っていたりょうたの複眼も、いつの間にか黒く変化し、あたりの風景を写している。

「あー、あの夢は正しかったんだ」

りょうたは、大きな、大きな感動に包まれていた。

光、光、光の中で、世界が何色にも輝いている。

あふれる光と色の世界で、堂々と翅をまっすぐに伸ばした自分も、色をまとって輝いている。

「やったよ、やった。とうとうぼくは、大人になったんだ」

『飛べ、飛ぶんだ』と、心が命ずる。

「よしっ」

りょうたは、心の声を信じ、思いっきり、木を蹴り上げた。

「ヤッホー。すごいよ、すごい、ぼくは飛んでるよ」

りょうたは、歓声を上げながら、力いっぱい羽ばたき続けた。そう、大きな、大きな、未来に向かって。



夢のような毎日だ。

自由自在に飛び回り、さくら、花桃、ビワや、梨と、色んな樹液を味わった。メープルシロップのような甘いものから、渋くて酸っぱい味のもの。もちろん、大人なんだから、発酵樹液も大好物だ。

お腹がいっぱいになったら、遠くへ向かう。

まだ鳴くことが出来ない今は、飛ぶことだけが、りょうたの仕事だ。どこかで待っている、誰かと出会うそのために。

食べては、飛び、食べては、飛んで、六日目の昼下がり。りょうたは、ある小学校の校庭にたどり着いた。

なんだろう、どこか懐かしいような、不思議な愛着を感じてくる。

そこで、りょうたは、この場所にとどまって、本格的に鳴く練習を始めることにした。

隣の木でも、今まさに、練習を始めたセミがいた。

よーし、負けるもんか。

りょうたは、息をこめ、お腹に力を入れてみたが、まったく声が出てこない。何度やっても、うんともすんとも。

『ジジ』

ちえっ、隣のあいつだ。

『ジ、ジジ、ジー』

隣の木のライバルは、まだまったく声も出せないりょうたをしり目に、大きな声で鳴きだした。

『ジージージージジ、ジー』

と、その時。

空から一閃、舞い降りてきた巨大な生き物が、隣にいたライバルを咥えて飛び去っていった。それは、一瞬の出来事だった。

たった今、たった今まで、隣の木にいたライバルが、もうそこにはいない。

もし自分が先に鳴いていたら……。

りょうたは、しばらく呆然となってしまっていたが、いつまでも鳥に怯えているわけにはいかなかった。

誰かが、ぼくの呼び声を待っているんだ。ぼくと同じように、ずっと一人で生きて来た、ぼくの未来の恋人が。

「ジ……」

  とうとう声が出た。

「ジ、ジ、ジリ、ジリ、ジー、ジー、ジー」

そうか、ようやくコツがつかめて来たぞ。お腹の筋肉を振動させるんだ。こうやって、翅を少し開き気味にして、お腹を少し持ち上げる。そして声に合わせて、上げ、下げ、上げ、下げ。よし、いいぞ。声がお腹の中で共鳴し、どんどん大きくなっていく。

「ジージー、ジリ、ジリ、ジージージー。よし、この調子。もっとお腹を震わせろ」

声とともに、身体の底からパワーがあふれ出てくる。

「ジージージー、生きている、生きているんだ、ジージージー。ねえ、聞こえるかい、ジージリジー。この声が聞こえたのなら、ぼくのところへ来ておくれ」

残念ながら、この日は誰も、りょうたの元には訪れなかった。

八日、九日、十日目と、りょうたは必死に鳴き続けたが、まったく誰にも見向きもされずに過ぎ去った。

どうしてぼくの声に、誰も気づいてくれなののだろう。

まわりの木々のライバルたちが、どんどんと恋人を見つけて行く中、りょうたのところへは、誰一人、訪れてはくれない

もしかして、鳴き声に問題があるのだろうか。

いや、今や彼の鳴き声は、他の誰にも負けないくらいに、大きくなっている。

じゃあ、どうして……。

一人取り残されたようなこんな寂しさは、地中にいた時にも感じたことがなかった。

十一、十二日目も空しく終わり、十三日目も出会いのないまま日暮れが近づいていた。

と、その時だ。

やっと一匹のメスゼミが、りょうたの鳴き声に気づき、彼を見下ろす枝にとまった。

きたよ、きたきた、やっと出会いの時が来た。

りょうたは、声を限りに鳴いた。

「ジー、ジー、ジリ、ジリ、君は誰。どんな時間を生きてたの。淋しかったね。淋しくさせてごめんなさい。でも、大丈夫、二人は出会ってしまったんだから。この広い世界の中で、たったひとりの君とぼく。さあ、手をつなごう。、ぼくはその手を永遠に離さないから」

メスゼミは、りょうたのすぐ近くまで飛び移って来た。

「ジージージージー、君と会う、この日のために、ぼくは今まで生きて来た。ジージージージー、感謝の気持ちで涙が出そうさ。ジージージー、さあ、手をつなごう。ぼくはその手を……」

その時、近くの木で鳴きもせず、樹液をすすってばかりいたオスゼミが、二人の間に割り込んできた。

「おい、邪魔すんなよ。卑怯だろ。彼女は、ぼくが呼んだんだから。おい、聞いてるのか」

しかし、そのオスゼミは、りょうたの怒りなど完全無視して、突然、変な鳴き声で鳴きはじめた。

『チ、チ、チチチ』

「なんだよ、下手くそだなあ」

りょうたは思わず、笑いがこみあげて来た。

「アブラゼミはこう鳴くんだよ。ジージー、ジリジリ、ジージージー。どうだ、勇ましいだろ」

しかし、ついさっきまで、りょうたの傍で、りょうたの歌声に聞き耳を立てていたメスゼミだったのに、どうしたことか、あとから来たオスゼミに関心を示し始めている。

「えっ、なんで? どうしちゃったの。そんな悲しそうな声のどこがいいのさ。さあ、こっちだよ、こっちにおいで、ジリジリリ」

『チッチッチ』

元気なりょうたの鳴き声とは対照的に、悲しく鳴くライバルゼミ。

そして……。

やっと巡り合えたメスゼミは、りょうたの願い空しく、あとから来たオスゼミに連れられ、仲睦まじく飛び去っていった。


小一時間、りょうたは鳴く事すら忘れ、呆然と木の幹に捕まったままだった。そんな彼の所へ、さっきの、にっくきオスゼミが、舞い戻って来た。

「なんだよ。ぼくになんの用だい」

「フッ、うまくいったお礼を言おうと思ってさ」

勝ち誇った笑みを浮かべて、そいつは言った。

「そんな報告いらないよ。そんなことより、早く彼女のところへ戻ってあげなよ」

こんな卑怯なやつと話したくなかったが、さっきのメスゼミのことが気になり、思わず口をきいてしまっていた。

「ああ、もう別れたよ」

「えっ? そんな」

りょうたが驚いたのも無理はない。アブラゼミがつがいになるのは、生涯一度のことだ。一生でたった一度の出会いなのに、小一時間で別れて来たとは、それじゃあまりにひどすぎる。

「フン、いいのさ、これで。それに、彼女には大切な仕事があるからな」

「仕事って?」

「俺の子供を産んでもらう仕事さ。そんなことより、お前、なんでさっき、フラれたのか解ってる?」

「きみが横取りしたからだろ」

「フッ、バカだなあ。お前、まだ気づいてないの」

「何がさ」

「じゃあ、教えてやるよ。原因は、お前のその鳴き方だよ」

「えっ?」

「遠くのメスを呼ぶためだけなら、さっきみたいな本鳴きだけでいいだろうけど、女が近くまで来たら、誘い鳴きに変えてあげなきゃ」

「誘い鳴きって」

「俺がさっき、聞かせてやっただろ」

「あっ、あれか。あんなへんてこな鳴き方、恥ずかしくって出来ないよ。ぼくはね、力いっぱい鳴くのが好きなんだ」

「フン。じゃあそうやって、一生一人でいろ」

ライバルは、吐き捨てるように言うと、あとを続けた。

「まあ、一生と言っても、人生は短いけどな。俺も、あとに四、五日の寿命ってとこだ」

「四、五日って、君、病気なの」

「お前って、ほんとに何も知らないんだな。周りを見てりゃ分かるだろ」

りょうたは、あわててあたりに目をやった。

「いいよ、いいよ、教えてやるよ。あのな、俺たちアブラゼミは、成虫になったら、せいぜい十四、五日の命ってことさ。俺は地上に出て、今日で十日目。てことは、もってあと四、五日ってこと。でもまあ、子孫も残すことができたし、あとは暢気に過ごすだけなんだけどな」

りょうたは、毎日を精一杯生きることだけを考えてきた。だから自分に残された時間のことなど、一度も考えたことがなかったのだ。しかし、言われてみたら、まわりで鳴いているのは、最近、新しく土の中から出て来たセミばかり。少し前までいたライバルたちは、どんどん消えてしまっている。

「ところで、お前って、何日目」

「えっ、えっと……」

りょうたは、地上に出てからの日々を思い返した。飛んで、飛んで、この校庭にたどり着いたのが確か六日目で……初めて鳴けるようになってから……。

「十二いや、十三日目かも……」

「えっ、マジかよ。ヤッベエなあ。じゃあ、今日か明日の命じゃないか。そんなことなら、さっきの彼女、譲ってやったのに。まあいいや、俺が、とっておきの誘い鳴きを伝授してやるからよ」

「うっ、うん」

「その代わり、これからは俺のことを師匠と呼べ。それから敬語な」

「師匠、よろしく」

「よろしく?」

「よろしくお願いします」

今日か明日の命と言われ、いきなり切羽詰まった気持ちになって、りょうたは、思わず、彼に指導をお願いしていた。

「いいか、女を口説くには、雰囲気が大切なんだ、チッチチチッ。ほら、やってみろ」

「チー」

「照れてる場合か。もっとやさしく」

「チーチッ」

「もっと甘く、もっと悲しく」

「チッ、チュ」

二人の猛特訓は、この日、夜更けまで続いた。


次の日も、抜けるような青空がどこまでも広がっていた。

周りの木々では、朝早くからオスゼミたちが、ワンワン、ガヤガヤ鳴き出している。その中に混じって、りょうたも必死に本鳴きを始めている。

実は今まで、りょうたは、たった一人で鳴いていた。しかし、師匠の言いつけで、初めて群れに混ざって鳴くことにしたのだ。いわゆる群鳴き。こうし群れて鳴く方が、遠くのメスにまで声が届くからだ。そして、これも師匠から教わったことだが、女性の発するフェロモンに、いつも注意を向けていることだ。選ばれるのを待ってるだけではダメで、自分で選びとっていくのだと。

七時間ぶっ通しで鳴き続けたあとの、正午過ぎ。

りょうたは、華やかなフェロモン、香りに気がついた。

「いい香りだなあ。命の香り、元気な香りだ」

りょうたがそっと、香りのした方に目を向けると、若々しく、匂い立つような美しいセミが、近くの木で、じっとりょうたの歌声に耳を澄ませていた。

「なんて素敵なセミなんだ。そうか、ぼくは、この時を待っていたんだ。今度こそ、今度こそ、本当の出会いかも知れない」

さっきまで一緒に鳴いていたライバルのセミたちは、みんな食事に出ており、この幹には、りょうた一人しかいない。自分の本鳴きに気づき、ここまで飛んで来てくれたのだから、これはチャンスだ。そうだよ、きっと運命の人だ。

「すっげえ美人だな」

近くで様子を伺っていた師匠が、りょうたの隣にやって来て、彼の耳元でつぶやいた。

「あ、師匠。ぼく、がんばりますね。見ていてください」

りょうたは早速、猛特訓した誘い鳴きを始めることにした。

「チッチッチッ」

効果抜群、彼女がさっきより、熱い視線を向けてきている。

「こんな視線を送られたのは生まれて初めてだ。よーし頑張るぞ」

『チッチチチッチッ』

その時、りょうたの隣りで、なぜか師匠も誘い鳴きを始めた。

「師匠、大丈夫です。彼女の気が散ってもいけませんし、お手本はもう……」

二人の声に誘われ、彼女は、すぐ近くの枝までやって来ている。

『うん、本当に素敵な女だ。チッチッチッチュルチッ』

 「し、師匠、もういいですから」

 彼女は、チラッと師匠に目を移した。

『チッチュルチッチュ』

「師匠、ふざけるのは止めてください」

『チュッチュッチュ』

しかし師匠は、求愛の誘い鳴きを止めようとしない。それどころか、じりじりと彼女に近づいてゆくではないか。彼女も、じっと師匠の様子をうかがっている。

「師、師匠ってば……」

師匠は、彼女のすぐ下まで近づくと、前足で彼女の翅の先端を、チョンチョンたたいて合図を送った。

もしメスゼミが、相手を気に入らなければ、翅をばたつかせて求愛を拒否できる。

しかし……。

彼女はじっとしたまま、動くことはなかった。


固く閉じたりょうたの目から、熱い涙があふれ出ている。

今度こそ、今度こそ、運命の出会いだと信じていたのに、それなのに……。


翌日、りょうたは、成虫になって十五日目を迎えた。

まだ生きている、生きているんだ。よし、今日こそ恋を成就させるぞ。このままでは何のために生きて来たのかわからない。たった一人で樹液を吸い、たった一人で空を飛び、たった一人で歌をうたって。いつもそうやって、一人っきりだった。でも、そんな自分の為だけの人生なんて、なんの意味もない。

ぼくは、この命を誰かと共有したい。誰かの役に立ちたいんだ。

ぼくを待っている人が、きっといる。その人のために生き、その人のために死んでいきたい。このままでは終われない。生まれてきた意味を、生きた証を残すまで。

りょうたは、決意新たに、隣の幹の飛び移ろうとした。

しかし……翅に力が入らず、危うく地面に落ちそうになった。

「えっ、いつの間にこんなに弱ってしまったんだ」

りょうたは、時間の終わりが近づいていることを、初めて肌で感じた。

「あと何時間、いや何分……」

一瞬、頭の中が真っ白になった。

全身が空っぽになったような気がした。


空には温かい太陽、真っ青な空、そして、大地や草木の香りを運ぶ風……。

「風を感じる」

りょうたは、大きく息を吸い込んだ。

「よし、歌おう」

そうしてりょうたは、無心になって声を張り上げた。

「ジージージー、風と太陽、青い空。ジージー、ぼくは、確かに生きている。光と色のあふれる世界の真ん中で。ジージージー」

地中へと向かった時の記憶がよみがえってきた。そしてまた、必死に地上へと向かった時を思い出していた。

「そうだよ。ぼくは生まれてきたんだ。精一杯生きてきたんだ。ジージージー」

りょうたは、無我夢中になって歌い続けた。

その時、ふと彼は、懐かしい香りに気がついた。

どこか甘い、ナッツのような……。

この香りに、いつも包まれていたような気がする。そう、ずっと遠くの、いつかの時に……。

まだあどけない一匹のメスゼミがいる。

彼女は、偶然耳にしたりょうたの歌声に、ハッとした表情を浮かべ、歌声がした方を振り返った。

しかし、さっきまでりょうたが止まっていた幹には、もう誰もいない。

そう、力尽きたりょうたは、地面に落ちてしまっていた。

そして……、りょうたの命の抜け殻に、やがてアリが群がり、わいわいがやがやと、陽気にどこかへ持ち去っていった。



第四章 ただいま


「わしは幸せ者じゃ。なあ婆さん、こんな素晴らしい家族に囲まれているんじゃからのう。おう、よしよし、お前たちも幸せか」

こんそんたちが絡めてくる触覚を、自分の長い触覚でさすりあげながら、りょうたは目を細めた。

チャバネゴキブリ。りょうたが三度目に生を得た虫の名前だ。

彼は今、多くの子孫に囲まれて生きている。彼が住むこの巣以外にも、たくさんの息子や娘が、近くに嫁ぎ、彼の血を引く、たくさんの子孫を産み育てている。

りょうたは一年目で孫を見、二年目で、ひまごとやしゃごを得た。そして、今、彼を囲んでいるのは、やしゃごの子のらいそんと、その子の、こんそんたちだ。

こんそんたちも、あとひと月もすれば成虫となり、うんそんを産む。そうなのだ、りょうたは、まれにみるビッグファザーだ。

一族の繁栄ぶりは、その数だけではない。子孫のみんなが幸せに暮らしていることにこそ価値がある。

りょうたの血を受け継ぐファミリーみんなの健康ぶりは、触覚や、体の表面の受容体で感知できる。そして今も、あちらこちらの家族の巣から、元気いっぱいのフェロモンが、この司令塔とも呼べるりょうたの巣へと、ひっきりなしに送られてきているのだ。

ゴキブリの極めて繊細で敏感な触覚は、かすかな空気の動きから、仲間が出す様々な信号を感知する。和らいだ気分の時に発する幸せフェロモンや、集まれ、逃げろといった指令まで、数百メートルに及ぶ圏内に届けることが出来るのだ。

「こんそんたちよ。なぜわしらゴキブリが、こんなにも栄えているか分かるか」

『頭がいいから』

『触覚があるから』

『すばしっこいから』

『格好いいから』

『茶色いから』

次々に出てくるこんそんたちの答えに、りょうたは目を細めてうなづいた。

「ふぉっふぉっふぉ、正解じゃ、正解じゃ、どれも正解じゃ。のう、こんそんたちよ、わしらゴキブリは、三億年もの間、こうして姿を変えず、生き残って来たんじゃ。進化しきったわしらゴキブリに、変化は必要ないからのう。それに引き換え、あの化け物どもを見るがいい。進化か、退化か知らんが、たった四百万年ほどの間に、どんどん姿や生活習慣を変え、落ち着くことを知らん。それに、わしらと同じ昆虫仲間も、ひどいもんじゃ。どうしてわしらを見習わないのかのう。わしらを見習って、子供を己が手で育てみればいいものを、卵を産みっぱなしとは、ああ、情けない。いいか、こんそんたちよ。家族同士が思い合って生きることこそが大切なんじゃ。そのことを忘れるではないぞ」

『はい、おおじいさま』

つぶらな瞳が、一斉にりょうたを仰ぎ見て、また、彼の触覚に、自分たちの触覚をすり合わせてきた。

「おう、よしよし、よしよし」

りょうたは、最高の感動、そして快感に全身を打ち震わせた。

「ばあさんどうだ。幸せフェロモンが、満ち溢れておるではないか」


こうした幸せな日を迎えるまでの、りょうたの人生は苦労の連続だった。

まだ生まれたばかりの時、ホウ酸団子を食べた父が死に、母もベイト剤を食べて死んでしまった。空腹に耐えきれず、母が残した物を口にした兄弟たちも、次々に、母を追いかけるように死んでいった。母が生んだ卵にも毒がまわっていたのか、まだ見ぬ兄弟たちも、孵化もせぬまま死滅した。

それからというもの、りょうたは、天涯孤独で生きて来た。

まさしく、命がけのスリリングな日々。

ホウ酸団子、ゴキブリホイホイ、コンバット。そのいずれもの毒性を素早く見抜き、仲間たちに知らせて来たのも彼だ。この家に住む化け物どものタイムスケジュールを、しっかり頭に叩き込み、危機を察知しては、何度も家族の命を救ってきた。そして、これだけの子孫を残せたのは、りょうたが、たぐいまれの長寿を得たおかげでもある。

ゴキブリの寿命は、せいぜい百五十日くらいのものだが、なんと、りょうたは、すでに三年も生きている。ゴキブリで冬を越したものなど、以前はひとりもいなかった。では、なぜ、りょうたが冬を越せたかと言うと、彼の頑強な肉体に加え、この素晴らしき家を得たからだ。オール電化で、一年中、寒くもなく、温かくもないの快適な我が家。そう、すべては、この家のおかげなのだ。

りょうたの巣は、冷蔵庫の下にある。娘家族は、電子レンジの下に住み、孫の家族はキッチンの収納庫。箪笥の裏は湿気があって最も居心地が良いので、ひ孫の家族に与えてやった。エアコンの裏側、室内の鉢植えの中……この家のいたるところで、家族みんなが仲良く暮らしている。

近くの家にも、友人仲間や、遠縁の親戚たちが暮らしている。彼らのところへは、排水管を使って、いつでも行き来が出来る。それに、エアコンのホースや、換気扇、ベランダなど、ありとあらゆる隙間を通して往来自由だ。

ああ、麗しき我が家。

しかし、そんなりょうたにも、たったひとつ、気がかりなことがある。それは、巨大な二頭の化け物を、寄生させてしまったことだ。

奴らが、いつこの家に忍び込んできたのか記憶が定かではない。たぶん、りょうたがここに住み始めた直後には、もう侵入されていたのだろう。

なぜ化け物かと言うと、まずはその巨大な図体だ。また、奴らは恐ろしい魔力を使う。それは、夜を一瞬で昼に変える太陽起こしの術だ。だから夜になっても、決して安心などできない。実際、この化け物に、すでに大切な家族を数匹、叩き潰されていた。

ああ、奴らさえいなかったら。

いや、欲を言うのはよそう。天敵が、たった二匹いるだけなのだから。

「おっ、またやりおった」

りょうたは、らいそんが発する収穫の知らせをキャッチした。

 「ゴキ助は、たいした奴じゃのう」

りょうたは、次の一族の長を、ゴキ助にしようと心に決めている。りょうたの才能をしっかりと受け継ぐことができたのは、多くの子孫の中でも、らいそんのゴキ助がずば抜けていた。

「おい、お前たちの父さんが、大量のクッキーの欠片を見つけたようじゃ」

『やったー、やったー。クッキーだ、クッキーだ』

『早く、早く食べに行こうよ』

『うん、行きたい、行きたい』

「急くな、急くな。まだ化け物たちが寝込んではおらぬ。あとでゆっくり、頂きに参ろうぞ」

と、その時だ。

『ぴぴぴぴぴ。助けて、助けて、ビッグファザー』

 ゴキ助が、突然、危険フェロモンを送って来た。

いかん、化け物に気づかれおったわ。

りょうたは、触覚を左右に震わし、敵情を探った

二階じゃな。よし、待っておれ。わしが救い出してやる。それまで、なんとか耐え忍ぶのじゃ。

りょうたは、触覚で信号をおくると、振り返って、ばあさんに告げた。

「ばあさん、わしは今からゴキ助を助けに二階へ上がる。そこですまんが、こんそん達を連れて、玄関の鉢の下へ避難してくれんかのう。あそこなら、万一の時、土の中へも逃げ込める。土の中は、水が豊富だし、肥料の餌もあるし大丈夫だ」

そして、最後にやさしく微笑むと、こう言い足した。

「ばあさん、長い旅だったよのう。よう世話になった。では、さらばじゃ」


りょうたの触覚がとらえた通り、ゴキ助は二階の手洗い場の影で怯えて震えていた。

敵は? 敵は、いつもの二匹だ。

廊下で四つん這いになっておるのが、最も獰猛な母化け物で、もう一匹、小部屋から顔を出したのが息子化け物じゃな。

よし、廊下を突っ走り、息子化け物がおる部屋へ飛び込もう。ゴキ助が逃げきるまでの、攪乱戦じゃ。

りょうたは、わざと二頭の注意を誘うように駆け、息子化け物の足元を抜けて、彼の小部屋のベッドの下へ潜り込んだ。

そして……、戻って来た息子化け物の顔を見上げた。

何も思い残すことはない。人生万歳!

初めて間近で目にした化け物の顔は、何故だろう、いつかどこかで見た風景のように思えていた。



茶色い霧が、徐々に晴れていく。

ケイが、祠の前で手を合わせている。

「……ケイちゃん……」

りょうたを見上げて、ケイがクスッと笑った。

「わたしからも、お願いしておいたからね」


 その時、遠くから二人の名を呼ぶ声が聞こえた。

「春野くーん、夏川さーん」

 「あっ、ひとみ先生だ。はーい」

 二人は、その声にこたえると、それと同時に駆け出していた。

息を切らせたひとみ先生と、階段の上で出会った。

 「あー、よかった。やっぱり、ここだったのね」

 「先生、どうしたんですか」

 ケイが訊ねた。

 「お二人のお母さんが、ここじゃないかって」

 「でも、どうして先生が?」

 りょうたも、首を傾げて言った。

「わたしね、りょうたくんに謝らなければいけないの」

「えっ?」

「あなた、ゴキブリを助けてあげようと思っていたのね。お母さんが教えてくださいました。それなのに私……、本当にごめんさないね」

「でも、先生や、チカちゃんや、クラスのみんなを驚かせてしまったのは、本当だから……」

「ありがとう」

ひとみ先生は、りょうたの瞳をじっと見つめ、なぜか泣き出しそうな笑顔を浮かべた。

「さあ、二人とも帰りましょう」

「はい」

りょうたとケイは、また元気に声を合わせた。

「先生、反省文、書きますね」

「えっ、もう反省しなくてもいいのよ。なのに、どうして?」

「なんだか、書けそうな気がするんです。それに、虫の気持ちも、前より少し分かったような」

「じゃあ、明日の国語の時間を作文にして、クラスみんなで『虫の作文』を、書きましょう」

「はい」

「私は蚕の話を書きます」

 ケイも、声を弾ませて言った。

「そう、楽しみね」


りょうたは、二人に話したいことが、たくさんあるような気がした。しかし、それがなんなのか、思い出せなかった。

まあいいや。ゆっくり思い出してから話そう。

まずは、ゆっくり、思い出しながら、作文を書くんだ。


 神社の階段に、仲良く並んだ三つの影法師が、長く伸びている。

その影を横切るように、ハンミョウが駆けて行った。

(おわり)


その時、遠くから二人の名を呼ぶ声が聞こえた。

「春野くーん、夏川さーん」

 「あっ、ひとみ先生だ。はーい」

 二人は、その声にこたえると、それと同時に駆け出していた。

息を切らせたひとみ先生と、階段の上で出会った。

 「あー、よかった。やっぱり、ここだったのね」

 「先生、どうしたんですか」

 ケイが訊ねた。

 「お二人のお母さんが、ここじゃないかって」

 「でも、どうして先生が?」

 りょうたも、首を傾げて言った。

「わたしね、りょうたくんに謝らなければいけないの」

「えっ?」

「あなた、ゴキブリを助けてあげようと思っていたのね。お母さんが教えてくださいました。それなのに私……、本当にごめんさないね」

「でも、先生や、チカちゃんや、クラスのみんなを驚かせてしまったのは、本当だから……」

「ありがとう」

ひとみ先生は、りょうたの瞳をじっと見つめ、なぜか泣き出しそうな笑顔を浮かべた。

「さあ、二人とも帰りましょう」

「はい」

りょうたとケイは、また元気に声を合わせた。

「先生、反省文、書きますね」

「えっ、もう反省しなくてもいいのよ。なのに、どうして?」

「なんだか、書けそうな気がするんです。それに、虫の気持ちも、前より少し分かったような」

「じゃあ、明日の国語の時間を作文にして、クラスみんなで『虫の作文』を、書きましょう」

「はい」

「私は蚕の話を書きます」

 ケイも、声を弾ませて言った。

「そう、楽しみね」


りょうたは、二人に話したいことが、たくさんあるような気がした。しかし、それがなんなのか、思い出せなかった。

まあいいや。ゆっくり思い出してから話そう。

まずは、ゆっくり、思い出しながら、作文を書くんだ。


 神社の階段に、仲良く並んだ三つの影法師が、長く伸びている。

その影を横切るように、ハンミョウが駆けて行った。


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