三日目と満月
「申し訳ありません。至急お戻りください」
早馬で使いが来たと思ったら思いがけない言葉だった。
今は約束の日の朝。本当は昼過ぎまで過ごして馬車でプフレングレ領に戻るつもりだった。しかしこの伝言で状況が変わってしまった。
「何かあったのか?」
「はい。王族から侯爵に承認を得たいという書類が届きました。至急とのことなので、申し訳ありませんが……」
「どうせワガママ王子の案だろう? こちらにも都合があるというのに……」
シュテファンは悪態をついた。時々王子のぶっ飛んだ王政案の根回しがやってくるのでおそらくそれであろうと目処をつけた。しかし王族からの書類であれば早急に確認しておかねばならない。シュテファンは思わず舌打ちをした。
「今日が勝負の日だというのに、もう帰らねばならないなんて」
「誠に申し訳ありません……。これはどうにと私どもでは処理できなかったもので……」
「いや、いい。ティナ嬢とシェルツェル伯爵に詫びを入れて戻る」
変に王族に喧嘩を売る必要はないので、シュテファンはしぶしぶ承諾する。使いの者である側近はホッと息を吐くと恭しく礼をした。
シュテファンはこの家の主たちに急に戻ることになったという非礼を詫びることにした。
「すまない。急遽プフレングレ領に戻ることになった」
「そうなのですか……。いやはや残念です」
シェルツェル伯爵はあからさまにがっかりした様子だった。
「ティナにこのことは?」
「まだだ。もし良ければ取り次いでもらえるとありがたい」
「わかりました。ではこちらに」
シェルツェル伯爵の声は沈んでいる。ティナの父親だからかあの頑なに顔を見せない理由を知っているようだが、何も言おうとしないのは何か理由があるのだろうか。
シュテファンは考えてしまう。なぜティナが顔を隠して過ごしているのかと。聡明な彼女ならば様々な分野で活躍できるはずだが、顔を隠すという行為でそれを潰してしまっている。ここで脅してでもシェルツェル伯爵を問いただせば欲しい答えを得られると思うが、おそらくティナの希望ではない。それはシュテファンにとっても本意でない。
しかし、この三日間ティナが行ってきたことを知り、彼女がお飾りで済む存在ではないことがわかった。表舞台に引っ張られてもおかしくない人材だが、ティナは訳あってそれを拒んでいる。
シュテファンはそんなの関係なく彼女に惹かれた。あの澄んだ美しい声を聞くだけで心が温かくなった。手に触れた時胸が高鳴った。
顔が見えずともずっと傍にいたい。それが本心。
だからそれをティナに伝えようと決心した。
「ティナ、侯爵様が急ぎで帰られることになった」
ティナの部屋の前で声をかけるシェルツェル伯爵の声で我に返った。
中にいる侍女が扉を開けてくれると、仕切りの向こうに薄らと女性のシルエットが見えた。ティナだ。
「ティナ、すまない。領でしかできない仕事がきてしまった。帰らなければならない」
「侯爵様……?」
布が擦れる音がしたと思ったらその影は縦に伸びた。慌てて椅子から立ち上がったのがわかる。
「だから、一日目の答えを言いたい」
「侯爵様……」
シュテファンはカーテンの近くまでやってきた。布一枚隔てて二人は向き合う。
「ティナ嬢と過ごしてわかった。貴女はとても賢い。だから自分が夫を支えられないということも考えて結婚に後ろ向きなのもわかっている。……けれど、私は貴女の声、考え、気配り全てが好きだ。だから今後も貴女の傍にいたいと願う。夫人の仕事など気にしなくとも良い。それくらいの覚悟を私は持っているので、どうか私の元に来てほしい」
自分で言っていて声が震えているのがわかる。女性を口説いたことがないシュテファンにとってそれが精一杯の言葉だった。
ティナは黙っている。カーテンがあるのがもどかしい。
「私……、私は貴方に知ってもらいたいことがあります。何とか、何とか、今日の夜までここに留まることはできませんか?」
「ティナ、まさか……」
ティナは声を震わせながら言う。後ろでシェルツェル伯爵が驚いた声を上げていた。
「お話ししたいことがあります。無理を言っているのは承知です。どうかお願いいたします」
突然の懇願にシュテファンは面食らってしまった。しかしティナが必死に頼んでいるので何とかしたい気持ちに襲われた。
今から帰るとしても馬車で三日かかる。ただでさえその期間待たせることになってしまうのにこれ以上の時間は取れない。
では、馬車を使わず馬で帰れば……?
突然の閃きにシュテファンは目を見開いた。思いついたなら即行動が良い。シュテファンは朝来た使いの者を呼び出すように声をかけた。するとティナの侍女が慌てて駆けて行った。
「馬車でなく、馬で帰ることができるなら何とかなるやもしれない。少し待ってはくれないか?」
「ありがとう存じます」
ティナはシュテファンの計らいに礼を述べる。
そしてやや時間が経ったところで侍女が側近を連れてやってきた。
シュテファンは事情を話し提案すると承諾してもらえた。彼の乗ってきた馬をシュテファンが使い、シュテファンの馬車や荷物を先に側近が持っていくことになった。
「夜に出ることになるが、それまでここにとどまれることになった」
「我儘を言ってしまい申し訳ありませんでした。でも嬉しいです」
ティナは弾みそうな声を制しながら言う。それを聞いて口元が緩みそうになるがきゅっと我慢する。そしてシュテファンは側近にお願いすると、彼は礼をしてすぐに用意をして出立することを伝えた。また追加の仕事のことも言ってきたのでシュテファンは快諾した。
「お仕事がおありなのですね。無理を言ったのは私なのでどうか専念なさってください」
ティナが気を遣ってそう言ってくれたのでシュテファンは一つ頷くと言葉通り部屋に篭り仕事に専念することにした。
来たる夜の逢引きに向けてーーーー。
* * *
「プフレングレ侯爵様、よろしいでしょうか?」
冬前の日の入りは早い。日が落ち、暗くなった頃にティナの侍女が部屋まで迎えにきた。シュテファンは襟元を正すと緊張した面持ちで承諾した。
廊下を歩き、テラスに向かう。
緊張が高まってゆく。シュテファンを引き留めてでも話したいことはおおよそ検討がついた。しかしなぜ夜を指定したのかはわからなかった。
その答えがこの先に待っていると思うと、拳に力が入ってしまう。
「この先にお嬢様がいます。ここからはお一人で」
テラスに出る扉を開けると侍女は下がった。
シュテファンは足元に気をつけながらテラスに出た。外は暗く、美しく輝く満月の明かりのみ。ティナはどこだろうかと辺りを見渡すと、布が擦れる音がした。
「侯爵様」
声のする方へ顔を向ける。この鈴を転がすような声はティナの声だ。しかし薄暗く目を凝らしてもティナの顔立ちははっきりと見えない。
「ティナ嬢……か?」
「はい」
近づく人影を見つめていると、美しく真っ直ぐな銀髪にエメラルドグリーンの瞳を持つ端正な顔立ちの少女が浮かび上がってきた。外に出る時でさえ全身を覆う衣装を着ていたのにここでは着用していない。
初めて見る惹かれた女性の容姿にシュテファンは目を見開いて固まってしまう。
「どうしても、この姿で会いたかったのです」
「それはどういう……?」
「これは不思議な話なのです。信じてもらえるかわかりませんが……」
ティナは翠色の瞳を伏せながら話し出した。
「私が十五の時です。私は華々しく社交界にデビューしました。そしてその時噂されたのです。『こんなに美しければ王子の目に留まるのも時間の問題だ』と」
確かにこの美しい容姿を目の当たりにすると頷ける。
「私は田舎の伯爵令嬢で王族となど釣り合うはずありません。ですが私が王子の婚約者とならぬように予防線を張ったのです」
「予防線……?」
「はい。恐ろしい呪いです」
そう言った瞬間に満月が雲に隠れ、少し暗くなった。
「え……!?」
シュテファンが見たものはティナではなかった。
高かった鼻は長く垂れその先が赤く、張りのあった頬は皺だらけになり、赤い唇は茶色い醜女だった。しかし、銀髪とエメラルドグリーンの瞳は変わらない。
「驚かせて、申し訳ありません。不思議な話なのですがこれが私に課せられた呪いなのです。ただなぜか、満月が出ている晩だけ元の姿に戻れるのです」
目の前の人物の声は美しく澄んでいるが沈んだ声だった。この声は正しくティナ。
声も出せないままでいると、また雲から満月が顔を出した。そしてまた美しく整ったティナが現れた。
「私は驚き悲しみ部屋に籠りました。こんな顔、誰が見ても否定するに決まっている。ですが、私は家のために婚姻を結ばねばなりません。だから……」
「だから、あのような工夫を?」
カーテンを仕切りにしたり、全身をすっぽり覆える衣装を作ったりと顔を見せないで話すことができる方法を使っていた。しかしそんなことをしたところで意味はないだろう。ティナは頷いた。
「ですがそんな工夫など意味を成しません。相手を馬鹿にしていると思われて断られ続けました。当たり前です。顔を見せない令嬢など願い下げです。だから私は自分の家の手伝いをしながら過ごすことに決めました。両親は私をとても心配してくれて追い出すような真似はしなかったのが唯一の救いでした」
シュテファンは息を飲んだ。内容的には御伽噺のようだが、ティナのあの容姿が全てを物語っている。顔を頑なに見せない理由はわかるが俄かに信じがたい。
「こうして自領に籠り過ごしていくことになるだろうと思っていたところに貴方が現れたのです」
ティナは微笑んだ。
「顔を見せない私に会い、しかも婚約者にと言ってくださいました。そしてこの三日間の貴方のお気持ちもしっかり受け取らせていただきました。ですが、この私を見ても同じことを言われますか?」
シュテファンは今までのティナを振り返る。
その声や気遣い、所作が蘇ってくる。
「ああ。貴女の傍にいたい気持ちは変わらない」
きっぱりと断言した。シュテファンは容姿に惹かれたわけではない。
きっかけは声だ。王都で見る甘ったるい少女たちの声でなく、凛とした美しい声。それに惹かれ、ティナの人柄も知っていった。
「よろしい、の、ですか……?」
ティナの顔は赤く言葉も途切れ途切れだ。そんな恥ずかしがった様子も愛おしく思いながらシュテファンは大きく頷いた。
「ありがとう、存じます……。私も迷惑でなければ貴方の傍にいたいです」
そう言うティナの瞳にはきらりと光るものが見えた。シュテファンはティナの両手をそっと握った。そして彼女の涙が一つこぼれ落ちた。
その瞬間、ティナの体から黒い靄がかかった。
「ティナ嬢!?」
シュテファンは思わず手を引きそのまま彼女を守るように抱きしめた。
するとその靄はすぅ、と晴れて消えていった。
「……?」
結局何だったのか分からず、二人は顔を見合わせた。
「大丈夫、ですか?」
「私は、大丈夫です」
ティナは戸惑った様子で答えた。特に外傷があるようには見えずシュテファンはとりあえず安堵した。
そして、月が隠れる。
「え……?」
ティナは目を見開いていた。
そう、姿が変わらずそのままなのだ。高く整った鼻も、張りのある頬も、血潮の色の唇も、全てが十八の少女の容姿だった。
「呪いが、解けた……?」
ティナは両手を頬に当てると感触を確かめた。
そしてそれが現実だとわかると、目にいっぱいの涙を溜めてシュテファンに抱きつき、生まれた赤子のように大きく泣いた。
* * *
「……そうして二人はその後結婚して幸せに暮らしましたとさ。これが、プフレングレの恋物語よ」
「ねえーおかあさーん。お姫様の呪いは何で解けたのー?」
「そうねえ……。運命の人が現れたからかもしれないし、時間制だったのかもしれないし、それとも両方だったのかもしれないわね。もう知る方法はないのでしょうね」
「ふーん」と子どもはつまらなそうに言うと、美しい銀髪を翻してどこかへぱたぱたと駆けて行った。エメラルドグリーンの瞳を持つ母親は微笑ましそうにそれを見つめながら本をパタンと閉じた。
窓の外を見るとしんしんと雪が降り積もっている。今年も雪が多くなるのだろうか。せっかく植えたスノーフラワーはどうなっているだろうと心配になった。
雪が積もりすぎてしまって外で遊べない娘の退屈しのぎに話をしたが、まだ早かっただろうか。
翠色の瞳を細めて、母親は笑った。
「ティナ、シルビア、今戻った」
「おかえりなさい、シュテフ」
妻は夫の好きな美しく澄んだ声で主人を出迎えた。
ここまで読んでいただきありがとうございました。