後日談 口づけ
一緒に暮らし始めて二月ほど経った頃のお話です。
保と夕飯の材料を買いに出かけて、帰ってきた。
私の通う大学に近い位置に借りた、私達の住む家に。もちろん一軒家などではなく、2DKのアパートでしかないが。東京近郊でこの広さのアパートとなると、それなりに家賃も高いのだが、2人分と考えると、それぞれで借りるより安いから、割安と言えるのだそうだ。
そのような理由で、いかに婚約しているとはいえ婚姻前の男女を同居させていいのかと母に進言はしたのだが、
「あなたみたいな世間知らずを東京に送り出すのは不安だからね。保くんと一緒なら安心だわ」
と、信じがたい回答が返ってきた。私を1人で東京に住まわせるのは、そんなに不安だというのだろうか。もしかしたら、親心ということなのかもしれないが、東京での私の世間体というものは考慮に入っていないのではないかと、そこはかとない不安を感じる回答だった。
幸いというか、東京というところは付近住民に対する関心が薄いようで、私達が好奇の視線を浴びたことは、今のところない。
ないのだが。
「保、先ほどのあれはなんだ。いくら婚約者とはいえ、公衆の面前であのような破廉恥な…」
私は、買い物帰りの保の所業に対して苦情を申し立てた。
確かに私達は婚約者だし、最近は、自宅内で口づけを受けることにも慣れてきたところではあるが、まさか戸外であのようなことをされるとは思ってもみなかった。
もし、私が嫌がるそぶりでも見せようものなら、通報されて保が痴漢扱いされかねないと思えば、拒むこともできず、身の置き所のない思いに耐えながら帰ってきたのだ。今後のこともあるから、さすがにこれは諫言すべきだろうと考えた次第だ。
「みぃは気にしすぎだよ。
あんなこと、恋人同士なら誰だってやってるって」
保の言う「誰だって」というのが誰と誰と誰を指すのか説明を求めたいところではあるが、問い質したとて、まともな回答が期待できないことは予想できる。有り体に言えば、無駄ということだ。
「他人がしているからといって、私達がする必然性はないだろう。
なぜ、事前に私の許可を求めない。あ…あんな、突然、それも公衆の面前で…」
言い募ると、保は人の悪そうな笑みを浮かべて言った。
「人前でなきゃ、いいんだ?」
なんということを言うのだ、この男は!
「わ、私達は婚約者同士だ、2人きりの時になら、こ、拒むつもりはない…」
尻すぼみに声が小さくなったのが口惜しくもあるが、一緒に住むようになって以来、保からはさんざん身体的接触が図られてきたところだ、ある程度の耐性はできた。
しかし、戸外でとなると、話は違う。
私としては、そういう意図で言った言葉だが、保は敢えて曲解し、私を抱き寄せて耳元で囁いた。
「そっか、うちでなら何をしてもいいんだ?」
まったく、わかっているくせに、なんと意地の悪い。
「そういう意味で言ったのでないことは、わかっているはずなのに、卑怯だぞ」
「じゃあ、嫌?」
だから、そういうのは卑怯だというのに…。
「い、嫌では、ない…」
顔が熱い。一緒に住むようになってからというもの、保にはこうして翻弄されてばかりだ。
「俺達は婚約者だよ? 外でだって、あれくらい普通だって」
「私達が婚約者だなどと、周囲の人が知っているわけがなかろう。ならば…」「婚約者だってわからなくても、恋人同士だ、くらいはわかるさ」
「それは、そうかもしれないが…」
「恋人繋ぎで手を繋いで歩くくらい、恋人同士なら常識だって」
「そのような常識、私は聞いたことがないぞ」
「だったら、今度調べてごらん。
人前でしちゃダメなのはね、こういうことだよ」
抱き寄せられたまま、保の顔が近づく。
待て、待ってくれ、まだ心の準備が…。
反射的に目を瞑った私の唇に、柔らかな何かが触れた。
それが保の唇であろうことを察した私の心臓が、これでもかと早鐘を打つ。
涙でにじんだ視界に、優しく笑う保の笑顔が映った時、私は保の胸に顔を押しつけていた。
いやですねぇ、手を繋いで歩いたくらいでそんなに恥ずかしがっちゃって(^^)
というわけで、海里のファーストキスでした。今日は、軽く触れるキスでおしまい。海里には、それでもいっぱいいっぱいなので。
え? さんざん口づけられたって言ってた? そりゃもちろん、ほっぺやおでこにです。
初心で晩稲な海里の恋は、こうして紡がれていくのです。