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噛む男8


 彼との会話の後にシーツの血抜きなどで結局、眠れたのはさらに時計の針が二回りした頃になってしまった。重たい目蓋を持ち上げなんとかいつも通りに目覚めることができたわたしは、いまだに眠気が残っている頭を振りながらキッチンに立っていた。温めたフライパンの熱気が心地よくてつい、うつらうつらとしてしまいそうになる。

 しかし今日は、柔らかいものを準備した方がよいのだろうか。

 ちょっと考えてから、フレンチトーストを「彼」にお出しすることにした。用意していたバゲットを卵と砂糖と牛乳を混ぜた液に浸して、ラップをかけて冷蔵庫へ。その他にカスタードクリームや生クリーム、フルーツなどを用意。あとは「彼」が起きてきてから、焼き上げてしまえばいい。

 ところが、二階からお客様が起きて来る気配はない。「彼」も、昨日遅くまで起きていたからまだ寝ているのだろうか? 噛みたくなる衝動は出ていないらしい。

 いつ下りてきてもすぐ朝食を出せるようにと、一階での仕事――食器の片付けや、応接間や食堂、玄関周りの掃除などをしていたがいつのまにかお昼に近い時間になってきた。そろそろ洗濯ものを干しに行きたいところだ。

 手早く済ましてしまおうと、洗濯籠を抱えて階段を上がった。しかしガラス戸を開けてバルコニーに出ようとしたところで、ちょうど部屋から「彼」が扉を開けて出てきた。いま起きてきたばかりというような、ボサボサの髪とよれよれの服の状態である。血は……出ていないようだ。


「おはようございます」

「ああ、おはよう。……あんた、いまから洗濯ものを干すのか」

「その前にお客様の朝食ですね。いまから準備しますので」


 籠をバルコニーの端に置いて階段を降りようとすると、後ろから肩を掴まれた。振り向くと、ふわりと眠そうなあくびをしながら「彼」がバルコニーの方を指す。


「干すつもりだったんだろ。そっちが先でいい。下で待ってるから」

「しかしお客様をお腹を空かせているのでは? 最後の食事から随分と時間も経っておりますから」

「確かに腹は減ってるけど……。じゃあ、俺もあんたを手伝うよ」

「いえ。のようなことをお客様にしてもらうわけには」

「気にするな。昨日、話を聞いてもらったお礼だとでも思ってくれたらいい」


 わたしが止める間もなく、「彼」は籠から洗濯物を取り出して物干し竿に広げる作業に取り掛かってしまった。ここまでしてもらったのにさらに断るのは、しつこいだろうか。

 自分も洗濯物を干すのに取り掛かりつつも、「彼」にお礼を伝えた。


「ありがとうございます。助かります」

「俺からやるって言ったから、別に気にしなくていい。ああ、でも、朝食……というか、もう昼食に近いか? 少しばかり豪勢にしてくれると嬉しい。いつもなら噛みたくて目が覚めるんだが、今日は腹が減って目が覚めた」

「干し終えましたら、すぐにでも」


 お腹が空いているらしい。それはそうだろう。

 早く干す作業を終わらせてしまおうと手を動かすのは速めていると、風がふわりと森の方から吹いてきた。大きくはためくバスタオルを押さえていると、「彼」がくんと鼻を鳴らした。


「こういう、洗濯の石鹸の匂いとか。料理をする良い匂いとかさ。無性に好きなんだよ。……理想の母親像って感じで、憧れたんだろうな」

「お母様は、あまり家事をなさる方ではありませんでしたか」

「あの人は指図専門だったよ。基本的には家に来る手伝いの人間がやってた」

「そうでしたか」

「そう。俺の記憶の中の母さんは、顔を真っ赤にして怒鳴っている姿ばっかりだな」


 思っていたよりも、落ち着いて「彼」は自分の母親について語っていた。こだわりが無くなったというわけでは無さそうだが、少しだけ余裕が持てたようだ。わたしと会話することによって、何かしらを見つけられたというのなら喜ばしいことだろう。

 ……ああ。これならまた少し「きみ」に近づけたのかもしれない。

 パンッとシーツのしわを強く伸ばす音でハッと顔を上げると、横で「彼」が口の片端を上げて笑っていた。


「本当に、クソババアだったなあ。たぶん今もそうなんだろうなあ」

「別れてから、一度も話していないのですか? 電話でも?」

「会いにいくにも、電話するにも、勇気が無かったな。父さんもあんまり良い顔をしなかったし」


 さらりと「彼」は手の平で、自分が干したシーツを撫でた。そこにはうっすらと血のしみが残っている。もうこれは、使えないかもしれない。切ってふきんにしてしまうか。

 風になびく白いリネンを見ていて、ふと思いつく。


「それでは、手紙はいかがですか?」

「ああ、それか。昨日も言ってたな。確かにそれなら拒否されて、母さんの家のゴミ箱に投げこまれても、俺にはわからないしいいかもな」

「必要であれば、便せんなどもご用意できますが……」

「そうか? なら、食べ終わったあとにでも書くかな。どうせ暇だし」

「……いえ。手紙を書くのは、夜がいいと思います」


 思わず、口をついて言ってしまった。しかしそれがこの世の真理なのだ。だというのに、知らない人間が多すぎる。

 最後の洗濯物を干しながら、不思議そうな顔をしている「彼」にわかりやすく説明をする。


「厳密にいえば、陽が沈んでから書くのが一番良いのです。朝は多種多様なざわめき、声、音、言葉が支配している時間だと考えます。すると夜は逆に、静けさや、声の無い言葉、文字が支配する時間だなのです。手紙を書く際に、自分の手から言葉が逃げ出したりしないのです」

「へぇ。誰にでもこだわりってのはあるんだな。……オーナーが、初めて人間らしく思えたよ」


 すっかりすべて洗濯物を干し終えると、満足そうに腰に手を当てながら「彼」はにやりと歯を見せて笑った。まるで久しく見ていないテレビに出てくる、コマーシャルの爽やかな俳優のようだ。

 ところで手紙の件はきちんと理解してもらえたのだろうか。

 少し気がかりに思いながらも、わたしは「彼」と一階に下り急いで朝食兼昼食を用意した。



 * * * * *



 食事の後のお茶を出しているときだった。ホームの表から、人工的に騒がしい音が鳴った。

 どうやら迎えが来たらしい。

 のんびりと紅茶に砂糖を落としていた「彼」が、慌てたように顔を上げた。


「もうそんな時間か。……しまったな、まだ荷物をまとめていない」

「お気になさらず。おそらく暇だったので、早めに来たのでしょう。ゆっくりして荷物をまとめてもらっても構いません」

「そうは言ってもな……。すぐに用意する」


 ぐいっとカップを傾けて飲み干したかと思うと、音を立てながら階段を上って行ってしまった。それと入れ替わりのように乱暴に玄関扉が開かれて、「友人」が荒々しく入ってくる。

 ネクタイを緩めながら無遠慮に応接間の椅子に座ると、「お茶」とだけ言う。

 ……無視してやろうかと何度も考えながら、沸かしたてのお湯で入れたお茶を差し出す。


「おお、悪いな。……って、あっつ! 熱すぎて、飲めないだろ!」

「そうですか。それでは飲まなくて結構です」

「地味な嫌がらせしやがって……。それで、今回はどうだった? 見た感じ無事に終わったみたいだけどな」


 凝り固まった肩を回し、全身を脱力させて椅子に身を預けながら「友人」が聞く。こんな姿、絶対にお客様には見せられない。ホームを、自分の家だとでも勘違いしているんだろうか。

 苛立ち紛れにその額をはたいて頷く。


「まぁ、悪い方向にはいきませんでしたよ。お客様が満足されいれば良いのですが」


 ちらりと上の方に目を向ける。

 わたしは話を聞いただけで、何一つ問題は解決していない。完全に噛む癖がなくなったわけで、木製のフォークをカリカリと噛んでいた。あいかわらず母親の存在は、「彼」の噛む原因となっているのだろう。

 けれど少し心が軽くなったと。そう告げられたのが、真実ならば――


「顔」


 そっけなく「友人」が一言。

 その指摘に自分の顔に指を這わせると、どうやら無意識のうちに笑っていたようだった。口元が歪んでいる。


「またカウンセリングの真似事か。ああ、気持ち悪いきもちわるい。そんなにあの子に近づきたいか」

「そうですよ。わたしはそのためだけに、ここにいる」

「いつ聞いてもその丁寧口調には背筋が冷たくなる。わたし、なんて言いやがって」


 吐き捨てるように言われる。

 ()()()であることが、そうとう気に食わないようだった。

 知ったことではないが。


「死んだ人間を思い続けるなんて不毛がすぎるだろ」

「だから、わたしになるんでしょう」


 即答したわたしに、舌打ちが返ってくる。

 死んだ人間には二度と会えないなんてことはわかりきっている。だから「きみ」に近づくのだ。だからわたしになるのだ。

 ガタッと勢いよく「友人」が立ち上がった。またいつかのように殴られるだろうかと身構えていると、後ろから声がかけられた。


「待たせて悪い。荷物をまとめ終わった」

「……かしこまりました。お見送りいたします」


 少し息を切らしている「彼」に頭を下げて、表へと足を向ける。はぁっと大きなため息をついた「友人」も大人しく外へと出る。

 こうして二泊三日のお客様がお帰りになった。

 やっと、ホームがわたしだけに戻った。



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