噛む男7
もし噛むことをやめてしまえば、「彼」はどうなってしまうのだろうか。本当に噂通りにカニバリストになってしまうのか。それとも、あの血の惨事のように自分を噛み切って死んでしまうのか。
「子供の時からずっと、また噛みたいと思っているのですか?」
「そうだな。噛んでしまいたかったから、我慢するために噛み続けた。諦めきれないんだよ。だから噛み続ける」
「幼馴染みのお母様を噛んだときからですか? また同じような女性を噛みたいのですか」
「それは、そうだろ」
歯切れが悪い。もう一度噛みたいと願った子供は、また幼馴染みの母親に歯を立てたのか。それとも違う誰かがいたのか。
「他に噛んだ人はいますか?」
「そんな、そんなのはいない。幼馴染みの母親と、ついこの間事件になった女だけだ」
「……そうですか。問題となった女性の指を一度は噛めたのでしょう。それではダメでしたか」
「だって、あの人じゃない……」
そう言ってしまってから、「彼」は自分の口元を押さえた。言うつもりがなかったのか。それともそんなことを言うと自分でも思っていなかったのか。
「あの人とは、誰でしょう?」
「誰って……。そんなの決まってるだろ」
「なるほど。では、誰ですか?」
「そんなもの。……そんな、もの、あんたに言う必要があるか? さっきからしつこいんだよ」
「……申し訳ありません。話しているうちについ、乗り移ったような気になってしまいました。誰を噛みたいと思っているのか、気になってしまって」
幼馴染の母親を噛んだことが始まりだったとしよう。しかしそれだけがすべてでは無い。ぶるぶると組んだ両手を震わせる「彼」を見れば、なんとなくだがわかる。
正直なところ、わたしにはどうだっていいのだ。お客様を無事に家に帰せれば、あとは知ったことではない。このまま「彼」に別の客室を用意して休んでもらったっていい。
だけど、そう。なんだかカウンセリングをしているようで、気が乗ってきた。まるで自分が「きみ」になったように思える。……ああ。だから、「彼」が噛みたい気持ちが抑えきれないのがわかる。
わたしも、この喜びを捨てられない。だから言葉を続けよう。例えお客様を傷つけてでも。
「しかしそれほど苦しんでいらっしゃるのでしたら、恥を忍んででも噛みたい誰かにお願いをしてしまえば良いかもしれません」
「そんな、そんなことできない」
「その人を噛めば満たされるのでしょう。そうすれば、お客様を苦しめる衝動から解放されます」
「だって、あの人は、そんなこと、させてくれない」
「そういう嗜好でない方には抵抗があるかもしれませんが。医療行為のようなものだと説明してみては」
「俺、には、会ってくれない……」
「痛くないように、ちょっと一瞬だけです。いっそのこと、偽の診断書でも書いてもらいますか。「友人」にそういったツテがあったはずーー」
「母さんはっ、俺を許してくれない!」
大音声だった。ビリビリと吼えられたその衝撃で、ホームが揺れたようにすら感じた。
しかしそれで、自分も冷静になった。今のはただ矢継ぎ早に責め立てているようなものだ。昔の自分の癖が出てきてしまった。まったく、「きみ」に似ていない。
ぎりぎりと歯を噛みしめている音がする。お客様、と声をかけるとその音は止まった。代わりに口から、「彼」の心に張り付いてとれない記憶が流れてくる。
「初めて噛んだ時、嬉しかった。あんな風に許されるなんて。あんな優しい手があるなんて。あんな母親がいるなんて。……俺の母さんは厳しかった。プライドが高くて負けず嫌いで見栄っ張りだった。俺が良いことしても褒めないくせに、ちょっとした失敗でも狂ったみたいに怒鳴り散らしてきた。俺の母さんの手は、躾のための手だった。俺を殴るためのものだった」
ホームに来た初日に、言っていた。教育熱心で厳しい母親。食事は噛む数を数えながらしろと、「彼」に教えた女性。憎々しく語っていた人を、今も同じく憎悪を込めて「彼」は話す。燃え盛る火のように、熱く力を込めて。
「そうだと、わかっていた。あいつの母親と、俺の母親は違うとわかっていたくせに。気づかないふりをして期待した。家に帰ったら、またなんでもないことで狂ったみたいに怒っている母さんが待っていた。いつもは素直に黙って、言われるがままされるがままに叱られていた。だけど俺は期待した。母さんが手を振り上げたときに母さんを噛もうとした」
そこで言葉は切られた。ぎゅっと強く目蓋を閉じたせいで、目元にシワができている。
「彼」はずっと、正直に答えていた。だからさっきの言葉も真実だろう。幼馴染みの母親と事件になった女性以外、噛んでいないと。
「指は、噛めなかったのですね」
ふと静かに笑った。少し自分に呆れたように、少し安心したように、少し過去を見放すように。
子供の期待は裏切られた。
「噛みついたんだけどな。でも、母さんっていつもごつい指輪がつけてたから。それが邪魔してできなかったよ。安っぽい鉄の味がした。そしたら、あの人は叫び声をあげて卒倒したんだ」
「それほどですか」
「屈辱に耐えられなかったらしい。病院に運ばれて目を覚ましたら、罵声を浴びせられて、そのまま実家に帰って、父さんとも離婚。あっけなかった。びっくりした。俺には二度と会いたくないらしい」
それは、子供にとっては衝撃だろう。大人になっても噛むことに罪悪感を抱えるほどの。「彼」が自分を怪物のように、例えるほどの。
「強烈なお母様ですね。……それでも、まだ噛みたいんですね」
「……噛みたくないって言いたい。でも、噛みたい」
「そうですか」
「いつか一噛みしてやりたい。そしたら、母さんはまた病院行きだな」
とても楽しそうに「彼」は空想の計画を話している。くるくると宙を描く「彼」の指先が飛んだり跳ねたり。楽しそうに、見えてはいた。
けれど急に指から力を抜くと、だらんと「彼」は首を落とした。
「我ながら、意味不明だ。……あんな人、噛んだってどうすんだよ。最悪だ」
「最悪ですか」
「……あんたの言う最悪っていうのは、なんなんだ?」
「最悪なのは――あなたがここで死ぬことです。わたしにとっては」
ここで死なれてしまっては困る。どんなに金を積まれようと、殺すと脅されようと、たとえ世界が滅ぶと告げられたとしても止めなければならない。もし死にそうになったのなら、命が尽きる前に森に引きずっていって捨ててこなければ。
ここわたしのホームなのだから。
「俺も、死ぬつもりは無いな」
「それは良いことをお聞きしました。他の事であれば、お客様のご要望に沿うよう努力させていただきます」
「ふぅん。他の事か。……なんでも?」
「何でも……この建物を燃やされるのも困ります」
「あんたって、極端だよなぁ。そうだな。それじゃあ……例えば、あんたの指を噛ませてほしいって言ったらどうする?」
わざと見せつけるように、歯をむき出しにしながら「彼」は笑った。歯をむき出しにして笑う姿は威嚇のポーズだと、何かの動物を示して誰かが解説をしていた。一体何の動物だっただろうか。もしかして人間のことを話していたのかもしれない。
「よろしいですよ。さすがに、わたしも今殺されるのは困りますから出血多量にならないようにお願いします。お客様は血の味が苦手ですし、いらぬ心配でしょうが」
「……は? 本気か?」
「ああ、熟考もせずに返事をしてしまい申し訳ありませんでした。「友人」にも、たまに返事が軽く聞こえると指摘されるのですが。本気では、あるのですが」
「ふぅん」
「彼」は、どうでもよさそうに返事をした。
そしてゆっくりした動作でこちらに手を伸ばしてきた。逃げようと思えば、いつでも逃げられる程度の速度。
それをわたしは眺めていた。
「じゃあ一つ、頼まれてくれ」
「はい」
「いますぐ、甘いものをくれ。ちょっと頭が痛い。……硬くない、甘いやつで」
「かしこまりました」
自分の鼻先に突きつけられた「彼」の指先を見つめていると、思わず寄り目になりそうになる。
指から目を離してキッチンへ向かうために立ちあがる。
それにしても「彼」が硬いもので無いものを頼むとは。頭痛の最中に硬いものを食べれば、頭に響いてしまうからか。
「お待たせいたしました。すぐにお持ちできるものを用意させていただきましたが、こちらでもよろしかったでしょうか」
持ってきたのは、冷蔵庫にあったヨーグルトだ。それから、りんごジャムやハチミツ、冷凍のブルーベリーやバナナなど用意している。
硬いものであればもう少し手の込んだものを準備できたのだが。ついつい、夜食も硬いものが望まれるだろうと思って、そればかり作り置きしてしていたから。
「……食べていいか?」
「好きなだけどうぞ」
木製のスプーンを手に取った「彼」は、何も加えることなくプレーンのままのヨーグルトを掬って食べた。
そして大げさなほど顔をしかめてみせる。
「何も無いプレーンなヨーグルトって、何が良いんだろうなぁ? 母さんは、よく俺の朝食にプレーンヨーグルトを出してきたよ。ジャムとかを混ぜるのは禁止された。甘いものを食べすぎると、堕落するんだとさ」
忌々しげな口調でそう言ってから、「彼」はハチミツを手にとってた。そしてこっそりと、母親に隠しごとをするようにわたしに囁く。
「いれても、いいか?」
「もちろんです」
わたしの言葉を聞くと、「彼」は前のめりになってヨーグルトにハチミツを垂らした。とろっとヨーグルトの中央に黄金色が広がっていく。これでもかというほどハチミツを注ぐと、スプーンから溢れるぐらいに掬いとって口に含んだ。
ふっと、スプーンを噛んだ「彼」が息をもらした。
どうやら笑ったらしい。
「おいしいなぁ。……俺は甘いのが好きなんだ。昔、食べさせてもらえなかった反動かもな」
「ヨーグルトは、久しぶりに食べましたか?」
「あんまりおいしい記憶が無かったから、進んで食べようとは思わなかったな。……あんたが出してくれて、よかった」
出すものを失敗したかと思ったが、改めて気に入ってもらえたようで何よりだ。
次はジャムを挑戦しようと、瓶のふたを嬉々として開けようとしている。滑らかなヨーグルトがドロドロになる程ジャムを加えた「彼」は、スプーンでぐるぐると混ぜ始めた。
「別に、なんでも良かったんだよ。何か一つだけでも。こうやってジャムをヨーグルトにいれるような些細なことでも良かった。母さんに、許して欲しかった。「いいよ」と言って欲しかった……。それだけだったんだ、と今は思う」
「いつか、お母様を噛みに行きますか?」
「……もう、わからないな。母さんに文句の一つでも言えればよかったんだが、俺には噛むことしか思いつかなかった――今も思いつかない」
「彼」にとっては、噛むことが母親に対する唯一のコミュニケーション手段なのかもしれない。ずっと聞いているうちに、わたしも噛む音で「彼」の調子が少しずつ把握できているので、あながち間違いでもない。
しかし他の手段となると、やはりあれだ。
「手紙、はいかがですか。わたしは手紙をお勧めいたします。手紙は最良ですよ。もっとも良いものです」
「なんだ、それ」
「彼」は笑って、またヨーグルトを食べ始めた。次はバナナとブルーベリーを入れるらしい。もくもくと食べ続ける「彼」がソファから立ち上がったのは、一日が針一回りほど過ぎた頃だった。
「話したら、いろいろ整理がついた気がする。……付き合ってもらって悪かったな」
「いえ。それがわたしの仕事ですから。お気になさらず」
「そうか。ありがとうな、オーナー」
そう言って「彼」は最初に降りてきた時とは反対に、足音も立てず上っていった。
その手には硬い食べ物も無いし、爪も噛んでいなかった。