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噛む男6


「その後、近所で噂が広まった。俺がカニバリストだっていう噂だ。……最初は女が言いふらしたのかと思ったが違った。俺が女ともめたって話を聞きつけた幼馴染が、広めたらしい」


 詳しく聞くと、その幼馴染とは生まれた頃から家同士で付き合いがあった男らしい。

 かといって別に特別仲が良かったわけでも無く、引っ越して疎遠となっていたらしい。成人してから互いの仕事場が近くなり、顔を合わせる機会がまた増えたが決して友好的な関係ではなかった。むしろすれ違えば舌打ちされる仲だという。


「しかし、なぜ幼馴染が? 嫌がらせというものですか?」

「そうかもな。そもそも、指を噛むよう誘えと女に指示したのがそいつらしい」

「そこまで、その方は貴方をカニバリストにしたてあげたかったのですね」

「いや……。俺は正真正銘カニバリストなんだよ、あいつにとっては特に。それこそ、もっと幼い子供の頃から周りに訴えてたよ。あいつは人喰いの化け物だってな」


 「彼」は自分がカニバリストであることを、否定したくて否定しきれないような態度をとっていたはずだ。しかし幼馴染の話になった途端、自分がそうであることを大人しく受け入れるような言い方をしている。

 ザリザリと歯で挟んでいるプレッツェルが、「彼」の口元で悲鳴を上げる。


「大人になって、もう忘れていると思ったんだが忘れていなかったんだな……。大げさに指に包帯を巻いた女の写真をばら撒いて、カニバリストの噂を流し続けた。それで、居づらくなって、この宿に来たんだ」


 何か負い目でもあるのだろうか。それだけのことを「彼」にした幼馴染に対して、怒りも恨みも抱いていないように思える。それどころか、何かに追い詰められるように「彼」は歯と歯を食いしばってギリギリと音を立てる。歯が割れてしまいそうだ。

 子供の頃に何かしてしまったのだろうか。人食いだと罵られるような。それこそ――


「噛んだことがあるのですか?」

「……は?」

「幼馴染を」 


 歯ぎしりが止んだ。

 ぽかんとした「彼」は、右に首を傾け、左へ、そしてまた右へ。最終的には天井を向いて、悩み始めた。わからないのだろうか。噛んだか、噛んでいないかも。

 不思議に思いながら様子を見守っているわたしを見て、「彼」は誤魔化すようにカップに口を付ける。といっても傷口に染みるからか、縁にガリガリを歯を立てているだけだが。


「小学校のスクールバスに乗ってた時ぐらいだったか。その時からあいつとは気が合わなくて、原因は覚えていないがとっくみあいの喧嘩になったんだ。……それで、あいつを噛もうとした。それは覚えているが、あいつを噛んだかどうか。たぶん、噛んでいない、気がする」


 ずいぶんとあいまいな答えをする。噛むことを気にしているわりには、幼馴染を噛んだかどうかはどうでもいいみたいだ。

 ふと「彼」は目を伏せて、ひっそりと声を潜めて言う。


「はっきりしているのは、その時に止めようとしてくれた女性を――あいつの母親を噛んでしまったことだ」


 持っていたカップが荒っぽくテーブルに置かれた。宙を踊ったお茶の中身がぽたたっとテーブルへ落ちる。そんなことも気にすることができない「彼」は、眉間を親指で押さえながら顔をしかめた。言葉にすることさえも、苦痛といった感じだ。

 ティッシュでテーブルの上を拭きながら、黙り込む「彼」を観察する。顔を覆う姿は、ひどく追い詰められているようだ。話を続けるべきだろうか。

 しかし顔を上げた「彼」は、蛇が這うような長いため息を吐いたあとにまた顔を上げた。まだ話をする気はあるらしい。だがためらうように口を開閉して、なかなか言葉を出せそうにない。

 またわたしから話を向ける。


「幼馴染のお母様は、それで大怪我をされたのですか?」

「……いいや。噛んでも、笑ってくれた。いいのよって、笑って頭を撫でた。次の日は白い手袋をして、なんでもない顔をしてくれた。そんな女性だった」


 思ったよりも穏やかな口調で語られた。ゆっくりと丁寧に幼馴染の母親について言葉を選びながら話す姿は、まるで初恋を打ち明けるかのようだ。

 ……いわゆるあこがれの女性だったのかもしれない。そんな人を噛んだことをずっと悔やんでいるのかもしれない。でも、そんな子供の時のことをずっとか。そもそもただの子供の喧嘩だ。その延長で、相手を噛もうとしてしまっただけのこと。

 幼馴染がカニバリストだと騒いでいるのは、ただ単に嫌いな相手への嫌がらせのように思う。本当に人を食べるかどうかなんて関係なく、「彼」を攻撃したいだけなのではないか。それに対して、「彼」は怒ったって反論しても誰も責めないだろう。

 けれどカニバリストだと意識が消えず、子供の頃から今までずっと罪悪感を抱えている。その瞬間を忘れられずにいるのは、どうしてなのか。なぜなのか。


「噛んで、どう思われましたか?」

「どう、って?」

「驚いたとか、焦ったとか、嬉しかったとか――」

「そんなのっ!」


 わたしの言葉の途中で「彼」は激しく首を横に振った。けれどすぐに動きを止め、背中をダンゴムシのように丸めると頭を抱えてうなだれた。

 適当に羅列していっただけだったが。そうか、嬉しかったのか。


「……あんたに、なにがわかるんだ」


 か細い声だった。今にも糸が切れて、どこかへ飛んで行ってしまいそうな。風が吹けばそれで墜落してしまうような。こんな弱弱しさでは、何も噛むことができないのではないか。

 ぜいぜいと息をする「彼」に対して謝罪をする。


「失礼いたしました。わたしにはなにもわかりません。わかるとすれば、お客様だけです。不躾な質問をしてしまいました」

「なんなんだよ、あんた……。おかしいだろ」

「それは申し訳ありません。お客様もおっしゃっていたように、わたしは変わっているようなので」

「そうか。そうだったな。変わっているから、普通じゃないから、俺も話そうと思ったんだった」


 乾いた笑いが「彼」の口から漏れてきた。小刻みに震えはだんだんと大きくなり、最後には大きく胸を反らして大笑いをする。目は笑っておらず、あらぬ方向を見つめてはいるが。

 そして開き直ったのか、ああそうだと「彼」は肯定した。


「そうだな。あの人を噛んだ瞬間は、焦ったさ。……でもさ、嬉しいとも思ってしまったんだよ。そう思っちまったもんはしょうがないだろ。あれほど嬉しいことは無かった。もう一度だけ、あの時と同じ気持ちを味わいたいと期待するだろ」

「そうですね。味わった喜びを、再び期待してしまうのが人間というものでしょう」

「あいかわらず、あんたはあっさりと返事してくれるな。……でも、俺だって我慢してたんだ。他のもので代用して、おかげで若干太った」


 代用というのは食事のことだろう。ただなにかを噛みたいのではなく「彼」は人を、その指を噛みたかったのか。特に女性に対して執着しているように思える。

 ……ノーマルな嗜好ではないだろう、確かに。けれどその悩みは同じようなアブノーマルな同好に出会えれば解決しそうな気もする。「友人」に頼めば、そういうグループを探してきてくれそうだが。

 それとも幼馴染の母を傷つけたことが、それほど「彼」に影をおとすのだろうか。


「その幼馴染のお母さまは、お客様が噛んだことを許してくれたんですよね?」

「え、ああ、そうだな。優しい女性だったから。……でも、許されないんだ」

「許さなかったのですか? 誰が?」

「誰って……。どう考えたって、許されることじゃないはずだ。許せないことだ」


 まるで言い聞かせているように、許せないとただ繰り返す。「彼」自身が許せないことだと思っているのか。それともそう思い込まされているのか。

 少し考えて、違う質問をする。


「今は、どう思っているのですか。子供の頃、噛んでしまったことを」

「ああ……。さすがに後悔してるよ。もう一度なんて、期待するもんじゃない。それなのに今も噛むのをやめられない俺にも、腹が立つ」


 とんとんと指でテーブルを叩く「彼」は、また歯ぎしりをしはじめた。

 苛立っているのはよくわかる。しかし「彼」をどうにかするべきか。このままだと、また流血沙汰になるのではないか。

 そう考えて、プレッツェルの皿を前に押し出す。


「まだありますよ。もう食べませんか?」

「ああ……」


 思い出したように、また「彼」は手を伸ばす。


 ガリガリガリガリ


 「彼」は噛み続ける。それは「噛みたいから」というわけではなく、「人の指に噛みつくのを我慢したいから」という理由で。


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