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噛む男5


 重々しい表情で告げられた「彼」の言葉を反復する。


「人を噛んだんですか。ついこのあいだも」


 わたしから視線を逸らしつつ、お茶を一口飲みながら「彼」は頷いた。その瞬間に顔をしかめて肩を揺らしたのは、熱かったせいか。それとも傷口に染みてしまったのかもしれない。

 大丈夫ですかと聞くと手をひらひらと振り、咳払いをして「彼」は話を戻した。


「でも、食べてはいない。そうすると、俺はカニバリストから少し外れているのか。カニバリストの定義なんて知らないからわからないが」

「危機的状況下で人肉を食した人間もいると聞きます。そのような方々をカニバリストとするのも違うでしょう。人肉を食すことに意欲的である、ことかもしれません」

「じゃあ、食べたいと思ったらカニバリストか? ……俺は、どっちなんだろうな? どう思う?」

「残念ながら、お客様の心まで把握するのは難しいです」


 それこそ、「彼」自身が自分の心に問いかけてもらうしかない。

 しかし人肉を食べたいかどうかなんて、普通は選択肢としてすら存在しないだろう。そう思う人は、どういうきっかけでそう思うのだろうか。おいしそう、と思って食べたいと感じるのだろうか。


「人間を見て、食欲が湧いたりするんですか?」

「それは無いな。ただ、噛みたいとは思う。これは食べたい、と一緒か?」

「噛むことと食べることは、必ずしも同等ではないと思いますが。噛んで呑み込みたい、までいったら食欲でしょう」

「呑み込みたい、なぁ」


 カリカリ噛んでいたプレッツェルをごくりと呑み込む音がした。口の中に噛んで含めてしまえば、習慣で呑み込んでしまいそうな気もする。

 考えているうちに、そもそも食欲とはなんだったのかわたしがわからなくなってきてしまった。

 「彼」はぽつりぽつりと、人を噛んだ時のことを語る。

 

「ついこのあいだ噛んだ時は、衝動的だった、と思う。ほとんど条件反射のように、噛んでた。噛みたいと思ったから噛んだ。呑み込んで食べたいって感じじゃなかった、とは思うが、正直ほとんど覚えていない。自分でも無意識なものだから、いつ食べ始めても不思議ではない、気がする」


 ついこのあいだ噛んだ相手というのが、電話口で「友人」が言っていた女性だろうか。大した怪我もなく、痴情のもつれとして処理されたと聞いた。恋人同士で噛んだり噛まれたりする関係だって、世の中にはあるだろう。わざわざ批判する必要はない。

 けれど思い出していくうちに「彼」は、どんどんとうなだれていく。頭の上に、罪の重さでも乗っかったようだ。


「人の指だ。……噛みたくなる、特に女性の指は。だから、噛んでしまった」


 まるで懺悔だ。自分が犯してしまったと思っている罪に、怯えているように見えてしまう。


「無理やり噛んだのですか?」

「無理やり、じゃなかったと思う。噛んでみるか、と目の前に女の指が差し出されて噛んだ。そしたら金切声をあげられて、助けを呼ばれて、ホテルの従業員に抑え込まれた。……警察に事情を話したら、痴情のもつれで片づけられて解放されたけどな。怪我も、少し血が滲んだ程度だったし」

「そうだったんですね」


 「彼」の話を聞く限りは、問題ないように思う。

 そもそも最初に噛むように行ったのは女性だ。冗談だったのかもしれないが、自分から誘ってしまった以上は噛まれてしまっても――自業自得と言えるかもしれない。それとも助けを呼ばずにいられないほど、「彼」に捕食されるという本能的恐怖が強かったのか。そこはわからないが。少し特殊な性癖に、女性がついていけなくなっただけのこと。痴情のもつれとして処理した警察は、人騒がせなカップルだぐらい思ったかもしれない。

 けれど髪をかきむしりながらプレッツェルをガリガリ噛む「彼」にとっては、そんな簡単な言葉では片づけられなかったのだろう。それは女性に拒絶されたからか。事件になってしまったからなのか。それとも、もっと他の、別の何かが原因なのか。

 噛むのが好きだと開き直れないのは、そもそも好きではないからか。


「しかし、その女性が大怪我をしないでよかったですね。その気が無かったとしても、思わず強く噛んでしまっていたかもしれない」

「噛みついて、歯を突き立てる前にやめられたからだろう」

「やめたのですか。それは、なぜ?」

「なぜ……」


 そういえばなぜだろうか、というような声色が返される。考え込むようにプレッツェルの欠片を奥歯でぎりぎりと磨り潰し始めた。

 その間に、減っていた「彼」のカップにお茶を足しておく。ゆっくりと注ぎ口から一滴までしっかり注いで、カップ内の波紋が収まるまで眺めてから顔を上げる。「彼」はいまだに言葉が見つからないらしい。

 助け舟を出すつもりで、わたしの頭に浮かんだ考えを出す。


「好みじゃなかった、とかですか」

「好み?」

「ええ。今日のお昼、噛む指の好みぐらいはあるとおっしゃっていたので」

「ああ……。あれはその、機嫌の悪さに任せて適当に言ったというか……」


 あの時は悪かったな、と謝られてしまった。思いがけずお客様に謝られてしまい、わたしもこちらこそ気が利かず……と頭を下げた。

 妙な形で話が途切れ、微妙な間ができてしまう。風の音がやけにびゅうびゅうと鳴って響く。やはりわたしに話術はない。

 しかし気が抜けたのが良かったのか、そう言われればと「彼」が思いついたように話し始めた。


「好みっていう風に考えると、そもそも俺は血の味が好きじゃないな。だから、ちょっと血の味がした時点で、噛むのをやめたのかもしれない」

「先ほども吐きそうになっていらっしゃいましたね。……それでは吸血鬼のように衝動的に人間に飛び掛かって食べてしまう恐れはないですね」

「なんか、オーナーのイメージって古くさい怪物映画じみてないか」

「映画はそれなりに好きですよ」

「ああ。それっぽいな」


 話さなくてもいいから、遊びに出かけるときのほとんどは映画館に行っていたような気がする。他の場所に誘われたら大体断っていたので、いつのまにか映画マニアにされていた。

 しかし、ほとんど私を知らない「彼」にそれっぽいと言われてしまうのはどうしてなのか。なぜなのか。映画好きそうな見た目、というのがあるのか。

 

「――とりあえず今の話を考慮すると、お客様はカニバリストではないのでは?」


 ちゃんと血抜きして精肉加工して料理してたら食べたいとかいうのでなければ。というのはわざわざ言わないでおく。おそらくだが、そんなこと目の前の「彼」は考えつきもしないのではないか。噛むことだけに執心しているようだから。

 しかし「彼」の顔は晴れない。

 他にも自分がカニバリストかもしれないと思う要素があるのだろうか。だけど、とわたしの言葉に首を横に振った。


「……言われたんだ」

「言われた、ですか」

「ああ。俺はカニバリストだって」


 震える声が、喉から吐き出される。

 落ち着きを取り戻そうと「彼」はカップを手にお茶を口にして、また盛大に顔をしかめた。

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