噛む男4
流血描写があります。苦手な方はご注意ください。
夕食のメニューは、たまねぎが溶けるまで煮込んだ、豚肉入りのトマトスープ。ポテトグラタン。ブロッコリーの卵コンソメソースかけ。それから付け合せのパンはお代わり自由。
本日も夕食の時間ぴったりに「彼」は食堂へとやってきた。無言で席について黙々と食事をする横顔はむっつりとしていて、少し不機嫌そうにも見えた。
お昼時のやり取りが原因だろうか。「彼」の言う冗談をわたしがうまく受け取めきれなかったのが悪かったのか。どうなのか。
とりあえず眉間にしわを寄せながら目の前の食事を噛んでいく「彼」から離れて、昨日のようにキッチンで食べ終わるまで待つことにした。
しばらく経ってから食器を下げに戻ると、付け合わせのパンの端を噛んでいる彼に、部屋に持っていける夜食を希望された。
どうやらビーフジャーキーはすべて食べきってしまったらしい。……あれを全て一日で消費したら、摂取塩分が大変なことになっていそうだ。
「でしたら、さつまいものチップスでもよろしいでしょうか?」
「噛めるものなら、なんでもいい」
「彼」はぶっきらぼうに返答する。ホームに着いた頃と比べて、ずいぶんと余裕がなさそうだ。
キッチンからさつまいもチップスの入った木のお皿を持ってくると、奪うように引っ手繰られた。そしてバリボリと音を立てながら私に背を向け、二階へと上がっていく。
さて。……これでいいのだろうか。ホームの主人として、たとえ「友人」が突然連れてきたお客様であったとしても、不快な思いをさせたまま帰していいものか。二泊三日の滞在は、明日で終わる。昼過ぎには「友人」が迎えの車でやってくるだろう。
わたしはただホームで過ごしたいだけだ。でも過ごすだけではいけないのだ。少しでも、「きみ」に近づくために。そのためだけにわたしはここにいる。
「きみ」なら、どうするだろうか。
そんなことを考えながら、食堂のテーブルで食器を磨いているときのことだった。
ガタガタガタッ!
二階から激しい音が聞こえてきた。
驚いて椅子から立ち上がると、転がるように「彼」が階段を駆け下りてきた。そしてふらふらと今にも倒れそうな足取りで、口元を手で押さえた彼が近づいてきた。小刻みに喉を震わせて、吐きそうになっている。
「――いかがしましたか。なにが……」
「血が、止まらない……」
ゆっくりと外された手の隙間から、ぽたぽたと血がしたたり落ちる。「彼」の口元がざっくりと裂けて血まみれになっていた。照明を消していたからわからなかったが、服と床が血で汚れている。
咄嗟にテーブルに置いていたふきんを掴んで、「彼」の口元に押し付けた。さっきまで食器を拭いていたもので申し訳ないが。
そのまま口元を押さえて固まったままの「彼」の腕を引いて、応接室のソファに誘導して座らせる。
「……しばらく押さえていてください。薬をご用意いたします」
「ああ……」
救急用の道具は一式揃えて置いてある。午前の内に足りないものがないか確認しておいて良かった。
持ってきた救急セットからハーブクリームを取り出して、ティッシュにたっぷりつける。それを「彼」に手渡して、口に塗り付けるように声をかける。
ハーブクリームは殺菌作用があり、止血もできる優れもの。だいたいの傷はこれで対処可能――だと近所二十キロ圏内に住んでいるおばあさんが言っていた。これはその人のお手製だ。魔女、と一部の人には言われているらしい。
「血は、とまりましたか?」
「ああ……」
様子が落ち着いたらしい「彼」は指で口元に軽く何度かつついて、それからまた指の爪をかちかちと噛み始める。……クリームが取れてしまいそうだ。
血を拭って改めて見ると、ざっくりと割けた傷跡が生々しい。
「落ち着いたのであればなによりです。……部屋に戻られますか?」
「いま、戻ってもな……。マウスピースをつけるのを忘れたせいで、こんな大惨事だ。ベッドもひどい有様になっている」
「でしたら、シーツを変えましょう。すぐに用意しますので……」
寝るときにつけるマウスピースをつけ忘れたせいで、こんな有り様になったらしい。眠っている間も「彼」は噛みたいのか。噛まざるをえないのか。
おそらく真っ赤に染まっているだろうシーツを取り替えに行きかけたところで、引きとめるように声をかけられた。洞穴から響いてくる風のような、低くておどろおどろしく震える響きだ。
「……俺は、どう見える?」
「どう、とは」
「正直に言ってくれ」
正直に、と言われても。私にとって、「彼」はお客様でしかありえない。
しかし前のめりになりながらこちらをじっと見上げてくる様子を見るかぎり、わたしの正直な言葉とやらを待っているのだろう。
わずかに口元が歪んでいるのは、すでにわたしが返ってくる言葉が予期しているからか。
ガリガリガリッ
止血を終えてから、彼の噛む音は止まない。よく見れば、指の先が少し赤くなっている。
わたしはもう一度ティッシュにハーブクリームをつけて「彼」に差し出す。しかし受け取られはせず、ただじっとわたしの様子を観察するような目で眺めてくる。
……「彼」の望む言葉を言うまでは、受け取ってくれないのだろうか。お客様だ、なんて言葉を求めているようには見えない。そういえば、どこかで観た映画にこんなシーンがあったような気がする。
「たしか、一般人の中に隠れ潜んでいた猟奇殺人鬼が探偵に正体を見破られそうになったシーンでしたね」
「……それが、俺?」
「様子は似ていますね」
「まぁ、そうだろうなぁ」
自嘲するように笑って、「彼」は椅子の背もたれに身体を預けてしまった。……ティッシュは受け取ってもらえない。返事を失敗したか。
……「君」のように、うまくはいかないな。
「けれどそんなことは大したことではありません。あなた様が、わたしのお客様であるということは変えようがないのですから」
「下手な慰めだなぁ……」
慰めているつもりも、嘘を言ったつもりは無い。
わたしのお客様の範疇を超える人は、いままで――数人しか出くわさなかった。
「……まぁ、慰めてくるんなら少し話に付き合ってくれ」
「わたしでよければ。……シーツだけ、先に回収してもよろしいですか」
「ああ。……怖いからって、逃げ出すなよ。っていっても、こんな辺鄙な場所じゃ逃げるに逃げられないか」
がたがたと窓が揺れる。裏手にある森から強い風が吹いているらしい。
「彼」はぎらぎらと野生動物のように目を光らせて私を射抜くが、それこそ「彼」の言う通り逃げる場所などない。そもそも逃げる気はないが。
わたしは一礼して、急いで客室のシーツを回収しに向かった。怖いと言えば、乾いた血痕がシーツに残ることだな。お客様が待っている状況で血抜き作業ができるわけがないので、洗面器に消毒液を張ってシーツの血痕部分を浸らせておくだけにとどめる。
ついでに黒豆茶とチーズを練り込んだプレッツェルをキッチンから持って、応接間に戻った。
「戻りました。よろしければこちらをどうぞ。爪を噛むよりはよろしいのではないでしょうか」
「……あんた。もしかして、本当に俺のことをお客様だとしか思ってないか?」
「そうですね。さきほど、わたしが述べた言葉以上のものはありません」
充分に蒸したポットから木製のカップに黒豆茶を注ぐ。ふわっと柔らかな香りと共に湯気が立ちのぼると、「彼」はやっと険しい顔を緩めた。そして爪を噛むのを止め、わたしがテーブルに置いたプレッツェルのお皿を引き寄せて、カリカリと噛み始める。
これならいけるかとハーブクリームを塗った絆創膏を渡すとすんなり受け取ってもらえた。
「……オーナーは、変わってるな。俺も人の事は言えないが」
指先に絆創膏を巻きつけながら、なぜか呆れたような口調でそう言われる。
また、なにか間違っただろうか。頭の中で自分の失敗した箇所を検討していると、「彼」がチリンと爪先でポットを弾いた。
「オーナーも飲みなよ。せっかく話の場で俺ばかり食ったり飲んだりしても、良くないだろう」
「そうですか。それでは」
キッチンから自分もカップを持ってきてお茶を注いだ。両手で握りこむと、じんわりと全身が温まるようで安らぐ。ホームは地下から水を引いてきているのでひどく冷たく、水場作業をするだけで冷えてしまう。
飲まずに温かさばかり味わっていると、プレッツェルを呑み込んだ「彼」が話し始めた。
「俺が食人鬼だって言ったら、どうする?」
いきなり問題の核心をつくような語り初めだ。
また失敗してしまわないように、とちょっと間を空けて考えてみた。が、そんなものがうまく湧いてくるはずもなく、とりあえず相槌を打つことにした。
「そうなんですか」
「これを聞いても反応無しなのか。……最初からそうだと疑っていたか? まぁ、そう思われても仕方がないとも思うけどな」
そもそも「友人」から、「彼」がそういった噂を持つ人間だと聞いている。……勝手に客の個人情報をわたしに垂れ流しているとバレたら、あいつの信用は地に落ちるだろうか。
そんな想像が面白くてつい笑ってしまいそうになったのがバレないように、口の端に力を入れた。
「……食人鬼とまでは、普通は想像つきません。ただ、少しばかり変わった方だと思ったことは否定できません。これほど噛むことに執心しているお客様は初めてですので」
「本当に変わってるな、オーナー」
「何度か言われたことはありますね。「友人」なんか会うたびに、こんな辺境に住むなんてとんだ変人だなんて罵ってきます。そう言う「友人」も変人ですね。こう考えると、人から変に思われない人間はいません。価値観は絶対でなく、必ず違いがありますから」
「そうか。……まぁ、良い変わり方をしているよ、オーナーは。俺とは違う」
良い変わり方。
それが、世間の人々から責められないことであることを示しているのならそれは違う。少なくとも、わたしがここに住むことで罵倒してきた人間が両手の数程存在する。
「彼」は、責められたがっているのか。
「……実際のところ、人を噛んだことはある。ついこのあいだもな」
無いものを絞り出すように、しわがれた声でそう告げられた。