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噛む男3


 朝一番に起きてやることは、食事の用意だ。

 自分一人であればもう少し適当にしてもよいのだが。なにはともあれ、人間が生きていくなかで食事のことを考えない日などない。お客様がいるとなれば、一日のほとんどの思考が食事で占められる。

 身支度もそこそこに、キッチンに立つ。さて何から手を付けたものかと考えていると、キッチンの扉がコンコンとノックされた。

 はいと返事をすると、ゆっくりと扉が開いて「彼」が顔を覗かせる。


「どうも……。悪いけど、すぐに噛むものと飲み物をくれ。なんでもいいから」


 パジャマ代わりのシャツはぐしゃぐしゃで、ゴムの緩んだズボンは少しばかり裾が床についている。起きてそのまま、ここまで来たらしい。「彼」は大きな欠伸を一つして壁によりかかった。

 ちらりと見えた白い歯は、思いこみがそうさせるのか鋭く尖っているように思えてしまった。「友人」の戯言のせいだろうか。

 とにかく今は言われたものを用意しなければならない。昨日のうちに保存食のビーフジャーキーを出しておいたので、それをキッチンペーパーを敷いた藤かごにまとめて並べてしまう。それからグラスに一杯水をいれて、さてと男の方を振り返る。相変わらずカチカチと爪を噛みながら、虚ろな視線をキッチンの床タイルの上を這わせている。

 あれほど噛んでいたら手から血が出てしまわないだろうか。救急箱の中身はどうなっていたかと考えながら、二つを「彼」の目の前に出した。


「こちらをどうぞ。朝食もすぐにご用意いたします」

「ああ……」


 水は一息に飲み干し、返されてしまった。そのグラスを返す手ですぐさまビーフジャーキーを受け取った「彼」は食堂に移動することすら惜しかったらしい。無造作に一本掴んだかと思うとその場ですぐさま噛みついた。ガリガリと肉を噛んで削る音は朝の静かなキッチンにはよく響く。

 しばらくそのまま噛み続けそうな様子を見て、壁際から折りたたみ椅子を運んでくることにした。「彼」の横に並べた椅子を勧めると、無言ではあったが座ってもらえた。

 さて。それでは朝食を用意しなければ。

 バゲットを切ってオーブントースターに放り込む。副菜には冷蔵庫にポテトサラダとピクルスがある。あとはハム入りスクランブルエッグとコーンスープ、だけだとお客様には物足りないだろうか。モッツアレラチーズがあったはずだから、それとベーコンとアスパラガスを使って――


 くしゅん


 ずずっと、鼻をすする音が聞こえた。キッチンは風通しがいい。わたしは火にあたっているからあまり感じないが、寝起きでそのままやってきた「彼」にとっては寒く感じるだろう。しかし動きたくないのか、背中を丸めてビーフジャーキーをガリガリ噛み続けている。

 とりあえず、と棚からミルクパンを取り出してコンロの上に置いた。冷蔵庫からミルクを取り出して、朝に漂う冷たい霧を集めたようなそれをパンの底をすっかり沈めるほど注ぐ。カチンと火をかけながら泡だて器で、表面に膜がはらないようにかき混ぜる。すると温められたミルク独特の香りが立ちのぼって、キッチンに充満していく。


「ホットミルクか……」


 ぽつりと呟いたかと思うと「彼」はのっそりと立ち上がってこちらへと近づいてきた。ビーフジャーキーを腕に抱えたまま、ミルクパンに身をかがめてすんと息を吸う。そしてハッと短く息を吐いた。


「飲んでいいのか」

「はい。ここにメイプルシロップも加えましょうか?」

「…………」


 「彼」はもう一度パンからのぼる湯気で顔を湿らせながら、すんと鼻を鳴らした。そして間をおいて一つ頷くと、またビーフジャーキーを一つ噛み始める。


「かしこまりました。それではメイプルシロップもいれさせていただきますね」

「……ああ。たまにはいいな、こういうの。好きな匂いだ――憧れの人のものに似ている」


 ごくんと口の中の物を呑み込んだかと思うと、まだ少し掠れている声で呟いた。

 ミルクは温めると甘い香りがするからだろうか。香水のようなものではなく、どちらかというと懐かしくなるような甘さだが。身近な匂いだと思うが、「彼」にとっては憧れなのだろう。

 スプーンで大盛り三杯ほど、メイプルシロップをパンに垂らす。ミルクに溶け切ったら、陶器のカップに流しこむ。


「どうぞ。熱くなっておりますので、お気をつけください」

「ああ」


 ビーフジャーキーをキッチンのカウンターに置いて、「彼」は両手で受け取った。ふっと息を吹いてからずずっと慎重にホットミルクを一口。

 そして「彼」はわずかに微笑んだ。


「そうだな。こんな感じだったような気がする。……そういえば、あの時は弟が生まれたばかりだと言ってたっけな。だから、あの人はこんな味と匂いがしてたんだな」


 「あの人」とは。

 昨晩、「友人」から聞いた話。「彼」と流血沙汰を起こしたという女性。その人には生まれたばかり弟がいたのだろうか。

 まぁ、わたしが知る必要はないのだが。


「……じゃあ、朝食もよろしく」

「はい。すぐにお持ちいたします」


 ホットミルクを片手にビーフジャーキーのかごも抱えながら、「彼」はキッチンを出ていった。

 さて。朝食をすぐに持っていかなくては。



 * * * * *



 今日も朝食をすべてきれいに完食してもらった。洗い物をするこちらも気分が良くなる。食器をすべて片づけてしまったら、次は洗濯だ。

 二階のお客様専用の浴室から回収してきたバスタオルや、食堂で使ったテーブルクロスにナプキン。それからベッドカバーにシーツなど。山盛りの洗濯籠を抱えて向かった先は、二階バルコニーだ。基本的に洗濯ものはここで干している。以前は裏庭で干していたこともあったが、森から出てきた動物に悪戯されたこともあったのでやめたのだ。

 ガラスの扉を開けてバルコニーに出ると、木製リクライニングチェアに寝転んで日向ぼっこをする「彼」がいた。朝に渡したビーフジャーキーの残りをガリガリと噛んでいる。わたしに気づいてちらりと視線を寄こされたが、すぐに反らされる。

 「失礼します」と一声かけて、彼の前にある物干し竿に洗濯ものを干していく。日差しを遮ってしまうがこればかりはしょうがない。「彼」の視線を背中に感じながら、一つひとつを太陽に向かって広げた。

 すべての干す作業を終えて、さて次の仕事に向かおうとしたところで「彼」に声をかけられた。


「昼は、ここで食べたい。頼めるか?」

「もちろん問題ございません。では後程、机を持ってきて――」

「いや。このまま寝転がって食えるものがいい。……落ち着くな、ここは」


 「彼」が深くもたれかかった重さで、ぎしりとリクライニングチェアが鈍くきしむ音が響いた。目蓋を閉じてかと思うと、静かに胸を上下させる。

 このまま寝てしまうだろうか、と思えば急に眼を見開いてビーフジャーキーを勢いよく噛み締め始める。ギリギリッと響く音は、苛立っているようにも聞こえた。


「――それでは、お昼はこちらにお持ちいたしますね。それでは失礼します」

「…………ああ。くそっ」


 こちらなど脇目も振らず一心不乱に噛みついてるところに一礼して、バルコニーに背を向ける。返事とも悪態ともいえる呻きを「彼」は漏らしていた。

 一通りホームを掃除してから、昼食の準備に取りかかる。作ったのは、レタスにトマトとベーコンを挟んだベーグルサンドだ。噛み応えが出るように、オーブンではなく蒸し焼きにしてもっちりとした食感にした。

 トレイに紙に包んだベーグルサンドを乗せて再び二階のバルコニーへ足を運ぶと、だらりと椅子かた腕を垂らしてぎりぎりビーフジャーキーを磨り潰している姿があった。

 ……知らない人が見たら、あの肉になにか妙な違法物質でも含まれると勘違いされかねないな。

 そんなどうでもいいことを考えながら、「彼」に声をかけて昼食を差し出した。

 返事をする気力も無いのか、無言でうなずいて受け取られる。そして一口噛んで、ぴたりと途中で歯で噛み切る動作を止めた。


「いかがしましたか? 味になにか――」

「この歯に抵抗する感触……」

「申し訳ございません。歯ごたえがある方がよいかと考えてあえてトーストして固くせず、弾力ある仕上げにしてしまったのですが」

「いや。――人の指の感触にも似ているかと、思ってな」


 ……考えたこともなかった。まぁ、しかし、言われてみればそうかもしれない。

 そうですねと返事をしたものかどうかと考えていると、ふんと鼻を鳴らされた。機嫌を損ねてしまっただろうか。


「冗談だ。そんなに警戒するなよ。誰かれ構わず噛むわけがないだろ。俺だって噛みたい好みくらいある」

「それは、申し訳ありません」

「…………これだって冗談だ。いちいち真に受けるな」

「そうですね。……失礼いたしました」


 椅子からわざわざ体を持ち上げてまでこちらに食って掛かる彼の様子に、ひとまず謝罪をして頭を下げる。はぁっと強く吐かれた息に追われるように、急いでその場から離れた。

 冗談、だったのだろうか。好みであれば、噛みたくなるのだろうか。友人が電話で言っていた、その女性のように。

 まぁ、わたしには関係の無いことかもしれないが。


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