噛む男1
あと僅かに傾きさえすれば太陽が沈む頃。客人を乗せた友人のワゴン車が玄関の前に停まった。
出迎えたわたしに対して、運転席から出てきた友人が開口一番に吐いたのは文句だった。
「まったく! いつ来ても! ここときたら! 遠いし、道は悪いし、見渡す限りの何も無さ! お前ときたらなぜこんな場所に暮らそうとするのか!」
「ならば宿など頼まないで下さい。娯楽の詰め込まれた都会の高級ホテルの雲を掴める高層のスイートルームがお望みなら、向かう方向はまったくの逆です」
「馬鹿だな。こういう場所は、都会に疲れた文化人たちには大人気なんだよ。俺が文句を言っているのは、ここで“暮らそう”と思っているお前のことだ」
「そんなもの、個人の勝手ですよ」
このやりとりは会う度に毎回交わされている。
友人はなぜこうも飽きもせず同じことを繰り返すのだろうか。友人なりに様式美というものを大切にしているのか、なんなのか。わたしには迷惑なことだ。
「馬鹿なことを言っていないでそろそろお客様を紹介していただきましょうか」
「ああ。そうだった、そうだった。……昨晩に連絡した通りだ。宿の準備はできてるか?」
「宿の準備を心配するぐらいなら、前日の夜に連絡などしないでいただきたい。いつも通り問題ありません。……お前は話しすぎです。お客様をお待たせしてしまう」
友人のワゴン車に近づいて、姿勢を正しながら扉を開いた。
後部座席に座っていたのは事前連絡の通り。
「彼」は体格のいい男性だった。だからといって威圧的な雰囲気は感じられ無いのは、目元が緩やかなカーブが描いているからか。もごもごと口を動かして、「彼」は何かを食べているようだ。
「ようこそいらっしゃいました。わたしが、お客さまのお世話を担当いたします」
一礼。それから車内からの降車を促すために扉から半歩ほど後退する。
相変わらず咀嚼する口を止めない「彼」は緩慢な動きで車から足を下ろす。そして目の前にあるわたしのホーム、自分が泊まることになる「宿」を値踏みするように視線を巡らせた。
木造二階建て。一階には応接間と一続きの食堂、わたしの部屋、キッチン。二階には客室四部屋。一階と二階どちらにもバルコニーが付いている。一人暮らしには大きすぎる。
わたしがここを買い取ると言った時の友人の顔など、それまでの付き合いから考えても見たことがないほど奇天烈な顔をしていた。
「それでは中へと案内させていただきます。……荷物は友人に運ばせましょう。一番手前の部屋へお願いします」
「また俺かよ……」
後部座席に無造作に載せられていたトランクに目を留めわたしがちらりと友人に視線を向けると、奴はお客様の前でぶつぶつと不満を垂れ始めた。このぐらいの労働は当然だろうに。友人ときたら、隙あらば面倒ごとはすべてわたしに押し付けようとするのだ。
面倒くさそうに背中を丸める友人を無視して、お客様を先導する。玄関を入ってすぐが応接間だ。毛の長いカーペットの上に置いている、二組ある対面の布張りソファに座るよう勧める。
「少々お待ち下さい。ここまでの道中、車での移動でお疲れでしょう。お茶をお持ちいたします」
前日に大慌てで用意したお客様用のお茶。磨いたばかりのティーセット。朝のうちに仕込んでいた茶菓子。以上のもてなしの品をローテーブルに並べて、そっとお客様を観察する。
「彼」はさっそく目の前の菓子に手を伸ばして、口の中に放り込んでいる。そして咀嚼をしている間にもう一つを手に取る。呑み込んだら、すぐさま次の菓子を咀嚼。また菓子に手を伸ばす――という動作を延々と機械的にこなしている。対面に座った私をちらりと見ることもしない。咀嚼に忙しそうだ。
まったくこちらを気にしない様子に、とりあえずこちらから声をかけることにした。
「本日はご利用いただきありがとうございます」
一瞬だけ視線がこちらを向いた気がしたが、またすぐに目の前のものを咀嚼する動きに戻ってしまう。
しかし声をかければ反応してくれたので、おそらく話は聞いてくれるのだろう。そのまま話を続けることにする。
「ご宿泊に際して二点、お客様に確認していただきたいことがございます。一つ目は宿周辺の散策についてです。道中ご覧いただいたとは思いますが、ここはほとんどの人の手が入っていない自然の土地でございます。すぐ裏手にある森は昼でも暗く大変危険です。申し訳ありませんが、立ち入り禁止と――」
「外に出る予定は無い」
茶菓子を口に放り込み、そして次のものへと手を伸ばしている合間にぼそりと呟かれた。
あまり楽しい話ではない、必要ないと言われるのであればしかたがない。そもそも、ここに来たお客様からは基本的に目を離さないのだ。
危険行為に及ぼうとしたのなら、またいつものように対処すればいいだろう。
続きに用意していた言葉を飲み込んで、次の注意点に移る。
「失礼いたしました。二つ目は食事についてです」
食事、と言った途端に食べることにばかり集中していた「彼」がわたしと視線を合わせてきた。ただしその手はあいかわらず、皿の上に伸びているが。
とりあえず、このお客様の対処に困った時は食べ物の話をすればいいだろうか。咀嚼のために手を動かし続けている「彼」の様子を見て、心の接客メモに一つ項目を書き入れた。
「ここでは朝昼晩三度の食事を用意いたします。朝食はお客様のお声がけで、すぐにご用意します。昼食も同様ですが、前日までにお申し出いただければお弁当を準備します。いままでのお客様は、近辺の散策の際にお持ちになられていました。そして夕食ですが、こちらは七時半に食堂へお集まりいただくことになっております。食堂の場所は、この応接間から続いたあちらです」
振りかえって、応接間からも伺い見ることができる食堂を手で示す。食堂には、このホームを買った当初から置いてあった年代物の長テーブルがある。落ち着いた色合いの、食堂の大部分を占める多人数が使うことを想定したものだ。一人で過ごしている時は使わないので、ホコリをかぶるだけの代物となっている。
そこでごくりとお茶で口の中のものを流し込んだ「彼」が、質問を投げかけてきた。
「ここで提供される三食以外に、食べるものが欲しくなった時は頼んでもいいのか?」
「別料金にはなりますが、アフタヌーンティーや夜食、軽食なども提供しております。飲みものに関しましては、お茶であればいつでも無料でお出しします」
「別料金というのはいくらだ?」
わたしが具体的な数字を言うと「彼」は一つうなずいて、また目の前の菓子を消費する作業に戻った。
ここに泊まるお客様へ伝えることは以上だ。……伝えたからといって、何も起こらないわけではないのだが。しかし「友人」いわく、こういうのはとりあえず言っておいた方が得らしい。
「確認していただきたいことは以上ででございます。お客様からの質問がなければお部屋にご案内させていただきますが――」
口を閉じてしばらく待ってみたが、咀嚼音しか響かない。質問は無いようだが。
そこへトントンと靴音を響かせて、ニ階の客室から「友人」が下りてきた。文句を言いながら、荷物はちゃんと運んだらしい。ひらひらと手を振りながら近づいてくる。
「荷物も運び終わったことだし、俺はそろそろ町へ戻りますよっと。それじゃあお客様、あとはそこのオーナーに任せてゆっくりとここで休んでって下さい。二日後にまたお迎えにあがりますんで。……じゃあな。俺は快適な都会にとっとと戻るぜ」
お客様に向けて適当な敬語でそう言ったかと思うと、礼もせずに背中を向けてしまった。ぱたんと閉じられた扉を見て呆れていると、ふうっと対面からため息が漏れた。
さすがにお客様も怒ったかと思ったが、お茶を飲んで一息をついていただけだった。幸いと言うべきか、食べること以外に関心がないらしい。
かちかちかちかち
固いものがぶつかる音がする。発信源は「彼」だ。
友人からの事前情報。
「彼」は噛むことが止められない人である。詳細についてはもちろん不明。食べるものは大量に用意しておくこと。また、噛む可能性のある食器は木製のものにしておくこと。
フォークやスプーンは木製を準備しておいたが、そういえばカップも縁を口に含むか。まぁ銀製のフォークなら口が傷つくが陶器なら大丈夫だろう。カップ自体は高いものではないので、多少傷ついても問題はない。
ふむと情報を整理していると、「彼」は私の視線に気づいたのか噛むのをやめた。そして思いのほか静かな動作でティーカップをソーサーに戻したかと思うと、男はさっさとソファから立ち上がった。
「部屋に案内してくれ。……それから、部屋で食べられるものを何か用意してくれないか。よく噛めるものがいい」
「かしこまりました」
カチカチと今度は自分の爪を噛みながら尋ねてくる「彼」にうなずいた。
さて。用意できるのはいくつかあるが……。
「フランスパンでもよろしいでしょうか。オリーブオイルと塩も添えてお出しします」
夕食まであと二時間。あまりお腹にずっしりと溜まるものは良くないかもしれないが、フランスパンならすぐにお渡しできる。体格もいいし、食べることに関心があるようだから、ちょうどいいのではないだろうか。
そう考えて提案したが、がじがじすっかりすり減った爪の縁を噛む「彼」は少し眉を下げた。そういう表情をすると、とたんに気弱な青年に見える。
「もうすぐ夕飯だろう。あまりお腹を満たして過ぎて、噛めなくなるのも困る……」
「配慮できず申し訳ありませんでした。それでは、野菜スティックなどはいかがでしょう。ディップするものも数種用意いたします」
「ああ、それでいい。悪いな注文つけて。ただ、俺は味わって食べるわけじゃないから、ディップするものは必要ない」
「……承知いたしました。それでは先にお部屋に案内します。その後、野菜スティックをご用意します」
「彼」を促して階段を上りながら、わたしはさきほどの自分の提案を反省した。
食べることの延長として噛んでいるのだろうと勝手に思い込んでいたが、どうやら「彼」は噛むことが第一のようだ。お腹を満たすことは二の次らしい。噛むのが目的で、食べることはあくまで手段。
というのであれば、「彼」の分の夕食をわざわざ大皿にする必要はないだろう。
彼を部屋に案内しつつ、頭のなかで夕食のメニューを少し変更しておいた。さて、準備しなければ。