三話
「ふわあ…。」
大きなあくびをひとつ。
昨日の夜は結局あれからしっかり眠れなかった。
もう自分のことを傍観者だと思うのは止めよう。
どうせ思ったところで僕が傍観者じゃなくなることなんてないのだから。
碧も、特に気にしていないみたいだし。
教室に入ると、高田を含むグループが感じ悪くたむろしていた。
碧の席は僕の斜め後ろで、机が見えた。
やっぱり、予想通り碧の机には落書きがされていた。
「死ね」「消えろ」など、単純に見えて人を傷つける言葉だ。
高田が僕を睨んでいるのが分かった。
理由は分からないけど、僕はいつものように自分の席に鞄を置いて座った。
担任が来るまでまだ時間がある。
読みかけの本を開いて読み始めた。
その時、碧が教室に入ってきた。
「おはよう。」と言うべきか。こっちの様子は高田たちがじっと見ている。
やっぱり、弱虫な僕は「おはよう。」の一言がどうしても言えなかった。
「くだらな。」
そんな時、斜め後ろから聞こえてきた碧の言葉。
高田たちにも、確実に聞こえていたはずだ。
「碧、お、は、よう。」
やっぱり弱虫は卒業しようと心を決めて、かたことになりながらもしっかり言った。
そんな僕を見た碧はぷっと吹き出して笑った。
「今頃?私三十秒前くらいに来たんだけど。」
「あ、はは。そう、だね。」
高田たちの反応が気になって、ちょっと緊張して、心臓の鼓動が早くなった。
「やだあ、沢渡くん、正義のヒーローごっこですか?」
その時、高田の大きな声が教室中に響き渡った。
それでも、僕の心に迷いは出てこなかった。
この際、なにもかもがどうでもよくなったのかもしれない。
何だろう、〝境目〟というやつだろうか。
「弱虫」「傍観者」と「声をかけられた自分」の境目。
それは、「少しの勇気」で越えられた。
目には見えない境目。
その時、昨日の碧の言葉が頭に浮かんだ。
『生と死の境目って見たことある?』
生と死の境目とは、一体なんだろう。
「沢渡、消すの手伝ってくんない?これじゃさすがに授業集中できないわ。」
「うん。分かった。」
いつの間にか教室は生徒で埋まっていて、この一部始終を見逃したという人はいないだろう。
多分、全員の頭の中に、「なんで沢渡が?」「あんなことする奴だっけ?」という思いが浮かんでいるはずだ。
全員の驚きの視線と高田たちが僕たちを睨む視線がこちらに集まる。
その時、高橋先生が教室に入ってきた。
高田たちは慌てて席に着いた。
それと共に、他の生徒たちもばらばらと自分の席に戻る。
「せんせー。机の落書きを消したいので雑巾取ってきまーす。」
碧は大声で堂々と言った。
教室にいる人達はみんな驚きの表情をしていた。
高田たちも、体を強ばらせていた。
「は、はい。どうぞ…。」
高橋先生は碧の言葉に戸惑いながらも、返事をした。
落書きのことに首を突っ込む様子は無い。
僕はそんな高橋先生の行動に驚きが隠せなかった。
「沢渡、行こ。」
「うん…。」
教室を出た僕たちは、雑巾のある用具箱まで、長い廊下を歩いた。
昼休み、お弁当を食べ終えた僕と碧は昨日と同じように屋上へ行った。
「これで、沢渡は、クラス全員を敵に回したね。」
満面の笑みで言う碧。
楽しんでいるようにしか見えない。
「それ、元気よく言うことじゃないけどね。」
「そっか。」
碧は声を出して笑った。
やっぱり、楽しんでいるようにしか見えない。
「そうだ、そんなくだらない話じゃなくて、『あの計画』を実行していかなきゃ。」
「く、くだらないって…。それに、『あの計画』も全然明るくないし…。」
本当に、冬までに死のうと思っているのかな。
あまりにも楽しそうに話を進めるもんだから、僕が騙されているんじゃないかと度々思ってしまう。
僕は碧に死んでほしいと思ってないし、まず、碧自身が本気なのか分からないし。
「冬までに、何をするの?」
「紙にまとめてきた。」
そう言ってポケットから白い紙を出す碧。
僕はそれを受け取って、内容を見た。
そこには、「遺書を書く」「遊園地に行く」「富士山に登る」など、たくさんのことがずらりと紙いっぱいに書いてあった。
「これ、もしかして冬までに全部やるの?」
「うん。」
碧は即答した。
というか、本当に死ぬのが前提になってるのがおかしい。
「本当に、冬までに…その、自殺するつもりなの?」
「うん。」
また即答。
「なんで、自殺を?しかも、冬までに。全部やり切れないかもしれないよ?」
「それでもいいの。とにかく、冬までには、確実に死ななきゃいけないの。」
どこか遠くを見つめる碧。
「碧にとっての冬って、いつから?」
「十一月の十一日。」
特定の日にちを言われた。
ということは、碧は十一月十一日までに、自殺をするということか。
こんなに、心が鋼のようで、周りにも流されないような碧が、なぜ自分から命を絶とうとしているのだろう。いくら考えても、予想すらできない。
いくら何回「本気?」と聞いても、揺るがない答えを言う碧を、僕は信じざるを得なかった。
十一月の十一日まで、あと何日あるのだろう。
今日は、九月二日。ということは、あと二カ月と九日しかない。
いや、『までに』ということは、もう二カ月もないのかもしれない。
その間に、この真っ白な紙いっぱいに書かれたことをこなしていくなんて、ほぼ不可能だ。
それでもやっぱり、碧は『死』を選ぶのかな。
一体、それはなぜだろう。
理由を知れないと、僕は碧の自殺を止められないし、いつ自殺をしてしまうか分からない碧と過ごすのは気が気でない。
でも、碧が理由を教えてくれると言ったのは、やっぱり『冬まで』だった。