LOST EDEN ― 失楽園の塔 ―
天に届く塔が、折れた。
最初に光が走った。
次に、音が来た。
音というより、世界そのものが内側から裂けるような振動だった。黒く煤けた雲を突き破って立っていた鋼鉄の塔が、腹の奥に溜めこんでいた炎を吐き、ゆっくりと傾いでいく。
塔の名は、第七エネルギープラント。
帝国公式報道では、《天柱発電炉》。
富裕区の子どもたちは、夜の空を照らす希望の灯と教えられる。
だが、貧民区の人々は誰もそんな名で呼ばない。
彼らはそれを、バベルの塔と呼ぶ。
空へ伸びるほど神に近づくのではなく、空そのものを汚し、地の底から星の命を吸い上げ、貧しい者の肺と骨と血で明かりを灯す塔。
折れた塔の側面から、青白い火花が弾けた。配管が千切れ、重金属を含んだ蒸気が、巨大な獣の吐息のように噴き出す。
夕焼けは、毒の色をしていた。
「作戦成功!」
爆風に髪を煽られながら、アベルは叫んだ。
紅い髪が、炎を受けてさらに赤く見えた。後ろでひとつに結んだ長髪が風に暴れ、竜の尾のように跳ねている。左腕には血の滲んだ包帯。頬には硝煙と切り傷。右手には滑り止めの革手袋。手袋の指先は破れ、爪の間まで煤で黒かった。
彼は笑っていなかった。
勝った顔ではなかった。
ただ、立っていた。
折れた塔の前で、誰よりも大きく声を張り上げていた。
「第一班、南側排気路から離脱! 第二班は負傷者を連れて送電橋へ! 予定より崩落が早い、立ち止まるな!」
襟元に埋め込まれた通信機が、ノイズ混じりに複数の返答を吐き出す。
『こちら第一班、進路に火災――』
『第三班、作業員を回収中! 民間人がまだ残ってる!』
『ガス濃度が上がってる、フィルターが持たない!』
「持たせろ!」
アベルは即答した。
「持たないなら奪え! 帝国兵のマスクでも、監視員の予備タンクでも、使えるものは全部使え! 人を置いていくな!」
怒鳴りながら、アベルは崩落した鉄骨の下敷きになりかけていた少年を引き寄せた。
少年は小さかった。
年齢で言えば十五、六。だが背はもっと低く、肩も細い。全身を工場用の防護布で覆い、顔には旧式の呼吸マスクをつけている。レンズの位置が人間の目と少しずれていて、初めて見る者には不気味に映る。だがそれは、彼の顔に合わせて、何度も継ぎはぎされてきた証だった。
「エノク、息は?」
少年は胸を押さえた。
マスクのフィルターがひゅう、ひゅう、と苦しげに鳴る。
「だい、じょうぶ。まだ、吸える」
「嘘つけ。声が薄い」
「嘘じゃない。おれ、役に立った。だから、だいじょうぶ」
アベルは一瞬だけ眉を歪めた。
「役に立ったかどうかで、生きていいか決まるわけじゃない」
エノクは返事をしなかった。
わからない、というより、そんな考え方に慣れていない顔だった。
彼はバベルの子だった。
塔の中で働いていた女が、汚染されたまま妊娠し、産んだ子。
肺は弱く、皮膚はただれやすく、骨の成長も歪んでいる。顔の半分を覆う保護具は、醜さを隠すためではない。彼が普通の空気を普通に吸えないから必要なのだ。
それでも帝国は彼を雇った。
子どもでも、短命でも、替えの利く労働力だから。
プラント内部の配管図を知っていたのは、帝国技師ではなく、エノクのような子どもたちだった。
狭い隙間に潜り、熱くなったバルブを手で回し、故障したセンサーの代わりに鼻と肌で毒を感じる。壊れたら捨てる。死んだら新しい子を入れる。
それが、バベルの仕組みだった。
「アベル」
背後から冷静な声がした。
カインだった。
長い栗色の髪を首の後ろで束ね、額には包帯を巻いている。服はアベルと同じく煤に汚れていたが、その立ち姿にはどこか整いすぎた余裕があった。レジスタンスのサブリーダー。作戦立案、情報管理、退路の確保。アベルが火なら、カインは刃だった。
いつもそうだった。
感情で人を動かすアベルの横で、カインが現実を切り分ける。
ふたりが揃っているから、レジスタンスは勝ってこられた。
「炉心区画の圧力が想定の三倍です」
カインは携帯端末の割れた画面を見ながら言った。
「誘爆が連鎖してる。東側の排気塔も持ちません。風向きが変われば、この谷全体が汚染霧に沈みます」
「最悪だな」
「ええ。ですが、あなたが迷えば、もっと悪くなる」
カインはアベルを見た。
「退避命令を。全員に。今すぐ」
アベルは一拍だけ黙った。
まだ塔の中には作業員がいる。
自分たちが爆破した。
自分たちが解放すると決めたはずの場所だ。
だが、ここで指揮を止めれば、助けられる者まで死ぬ。
アベルは通信機を握った。
「全班へ。作戦を第二段階から緊急撤収へ切り替える。生存者の回収を優先。ただし風下には出るな。繰り返す、風下には出るな。第七塔はもう持たない!」
返答が次々と返る。
その声をかき消すように、塔の内部で二度目の爆発が起きた。
地面が跳ねた。
鉄骨が雨のように降り、白い蒸気の壁が一気に広がる。
エノクが叫んだ。
「来る!」
誰が、とは言わなかった。
だが全員がわかった。
煙の向こうから、黒い影が現れる。
帝国保安軍。
対反乱用の装甲服。密閉型ヘルメット。胸には、皇帝モロクの紋章である黒い太陽。
アベルは即座にエノクをカインへ押しやった。
「連れていけ」
「あなたは?」
「俺が引きつける」
「またそれですか」
カインの声に、わずかな苛立ちが混じった。
「あなたが倒れたら終わりだと、何度言えばわかるんです」
「俺ひとりが生き残っても、誰かを置いて逃げたら終わりだ」
「理屈では勝てませんよ」
「だからおまえがいる」
アベルは傷だらけの顔で笑った。
カインは一瞬、言葉を失ったように口を閉じた。
その隙に、エノクがアベルの袖を掴んだ。
「おれも、行く」
「だめだ」
「おれ、道わかる。兵隊の抜け道、知ってる。おれ、まだ使える」
「使えるって言うな」
アベルの声が強くなった。
エノクが肩を震わせる。
それに気づいて、アベルは息を吐いた。
「悪い。怒鳴りたい相手はおまえじゃない」
「でも、おれ、残る」
「エノク」
「アベル、みんなの星。おれたちの、星」
その言葉は、煙より重かった。
アベルは顔を歪めた。
星。
貧民区の子どもたちが、彼をそう呼ぶ。
先代皇帝の遺児。
処刑された前皇帝の血を引く少年。
皇后が密かに産み、帝国の手から逃がした赤子。
そういう噂がある。
アベル自身、その真実を知ったのは十八の冬だった。育ての親が死に際に渡したペンダントには、火竜の紋章が刻まれていた。先帝の血筋だけに許される紋。
それから世界が変わった。
アベルはただの孤児ではいられなくなった。
人々は彼に、失われた正統を見た。
奪われた過去を見た。
まだ取り戻せるかもしれない未来を見た。
けれどアベルは、王座が欲しかったわけではない。
彼が最初に見たのは、富裕区の空を照らす電飾ではなく、貧民区の夜に咳き込みながら眠る子どもたちだった。
工場から帰ってきた母親の爪が剥がれているのを見た。
肺をやられた父親が、翌月には別の労働者に置き換えられるのを見た。
塔は国を豊かにする。
帝国はそう言った。
その豊かさが、どこへ流れていくのかを、アベルは知っていた。
「星なんて、そんな立派なものじゃない」
アベルは低く言った。
「俺はただ、黙って見ていられないだけだ」
そのとき、銃声が鳴った。
煙を裂いて弾丸が飛び、アベルの足元の鉄板を弾いた。
アベルはエノクを抱えて伏せる。
カインが短く舌打ちし、腰の拳銃を抜いた。
「包囲されています。北側にも反応」
「早いな」
「早すぎる。こちらの作戦時刻を読まれていたとしか思えない」
「内通者か」
アベルがそう言った瞬間、カインは答えなかった。
代わりに、淡々と弾倉を確認した。
「今は考えないでください。生き残ってからです」
「そうだな」
アベルはライフルを構えた。
「カイン、エノクを連れて西へ。排水路を使え」
「あなたは?」
「指揮官を探す。頭を潰せば、包囲が乱れる」
「無茶です」
「いつものことだ」
「いつものことにしないでください」
カインの声が、ほんの少しだけ低くなった。
アベルは振り返らなかった。
「頼んだ」
そして、走った。
銃弾が彼を追う。
アベルは崩れた配管の陰へ滑り込み、撃ち返す。三発。二人倒れる。残弾は少ない。わかっている。けれど足は止めない。
硝煙と毒霧の中で、アベルの紅い髪だけがやけに鮮やかだった。
兵士たちは彼を狙う。
当然だ。
帝国が欲しがっているのは、壊れた塔の犯人ではない。
アベルだ。
処刑台に立たせ、民衆の前で膝を折らせ、英雄など存在しないと証明するための生きた象徴。
だから殺すなと言われている。
だから、撃ってくる弾は足元と肩を狙う。
アベルはそれを利用して前に出た。
左肩を弾がかすめ、血が散る。
「アベル!」
エノクの声。
振り返るな。
振り返れば足が止まる。
そう思ったのに、アベルは振り返ってしまった。
エノクがカインの手を振りほどいて走っていた。
小さな身体で、必死に、こちらへ。
「戻れ!」
「おれも戦う!」
「馬鹿、伏せろ!」
アベルは駆け戻った。
エノクの身体を横から抱き、地面へ押し倒す。直後、ふたりの頭上を銃弾が抜けた。金属の破片が頬を切る。
アベルはライフルを構え直し、引き金を引いた。
乾いた音だけがした。
弾切れ。
「……最悪だ」
アベルはライフルを捨てた。
腰から剣を抜く。
古い剣だった。
現代の戦場では、実用より象徴の意味が強い。だが、彼の剣は飾りではない。鍔には火竜の紋章。先帝の血を示すもの。アベルが望もうと望むまいと、彼が何者であるかを叫び続ける金属の証。
煙の向こうから、拡声器の割れた声が響いた。
『そこまでだ、反乱分子アベル』
風が吹いた。
毒霧が薄れ、視界が開ける。
そこには、帝国兵の輪があった。
数十人。
いや、もっといる。
装甲車が二台。自動銃座。拘束具を持った兵。奥には指揮官らしき男。肥えた身体に勲章をぶら下げ、密閉マスク越しでもわかるほど下品に笑っている。
『武器を捨てろ。皇帝陛下は貴様の生け捕りを望んでおられる』
アベルは剣を下ろさなかった。
『聞こえなかったか? 捨てろと言ったんだ』
「聞こえてる」
『なら――』
「断る」
指揮官の顔が歪んだ。
そのとき、背後から声がした。
「そう言うと思った」
懐かしい声だった。
信じていた声だった。
アベルは振り返った。
カインが立っていた。
その手には拳銃。
銃口は、エノクの後頭部に押し当てられていた。
エノクは震えている。だが泣いてはいない。ただ、理解できないという目で、横にいるカインを見上げていた。
「カイン……?」
アベルの声は、風に削られて掠れた。
カインは微笑んだ。
いつもの微笑みだった。
作戦が予定通り進んだときの、あの冷静な笑み。
「自分の命なら投げ出せる。あなたはそういう人だ。でも、仲間の命なら?」
「冗談だろ」
「冗談でここまで段取りは組まないよ」
指揮官が笑った。
『実に見事な仕事だったぞ、カイン。いや、皇帝直属監察官と呼ぶべきかな』
カインは指揮官を一瞥した。
「あなたに褒められても嬉しくありません。事前に作戦概要を渡しておいたのに、プラントを破壊されたのはそちらの失態です」
『何だと?』
「現場指揮官が無能だと、皇帝陛下への報告書に書かなくて済むよう努力してください」
指揮官が怒りに顔を赤くする。
だが、皇帝の名が出た途端、黙った。
アベルはそれを見ていなかった。
彼はカインだけを見ていた。
「いつからだ」
「最初から」
「嘘だ」
「そう思いたいなら、そう思えばいい」
「おまえは……おまえは、帝国に家族を殺されたって言った。だから俺たちと戦うって」
「殺されたよ」
カインの声は静かだった。
「父は処刑された。母は病気で死んだ。家も財産も名前も失った。そこまでは本当」
「だったらなぜ、皇帝側に立つ!」
「皇帝に逆らったからだ」
アベルは息を止めた。
カインの目に、初めて憎しみが浮かんだ。
「父は愚かだった。勝てもしない理想に取り憑かれて、家族を巻き込んだ。母はそれでも父を誇りだと言って死んだ。馬鹿みたいだ。綺麗な言葉で飢えが消える? 正義で病気が治る? 自由で家を取り戻せる?」
「カイン……」
「あなたが現れたからだ、アベル」
銃口が、エノクの頭にさらに押しつけられる。
「先帝の遺児。火竜の血。民衆の星。そういう都合のいい物語が現れたから、父はまた夢を見た。あなたに賭けた。あなたに金を流した。あなたに人を紹介した。その結果、父は死に、母も死に、僕は全部失った」
「俺は、そんなことを望んでない」
「望んでいないから許されると思う?」
カインの声が震えた。
怒りではない。
それは、長く押し殺してきた叫びの縁だった。
「あなたはいつもそうだ。自分は王になりたいわけじゃない。英雄になりたいわけじゃない。ただ黙っていられないだけ。そう言えば、周りが勝手についてくる。勝手に死ぬ。勝手にあなたを星にする」
アベルは言葉を失った。
その沈黙が、カインをさらに笑わせた。
「ほらね。あなたは優しい。だから残酷なんだ」
アベルの手から力が抜けた。
剣先が下がる。
その瞬間、エノクが動いた。
小さな身体をねじり、カインの腕に噛みつく。
「っ!」
カインの銃口がずれた。
エノクは叫んだ。
「立て、アベル!」
銃声。
エノクの身体が跳ねた。
アベルの中で、何かが止まった。
倒れたエノクは、地面に伏したまま動かない。マスクのフィルターから、ひゅう、ひゅう、と空気の漏れる音がする。赤黒い血が、防護服の胸に広がっていく。
「エノク!」
アベルが駆け寄ろうとした。
だが兵士の銃口が一斉に上がる。
カインは撃った自分の手を見ていた。
その顔から、笑みが消えていた。
「……動いたからだ」
誰に言い訳したのか、カイン自身にもわからない声だった。
エノクの指がわずかに動く。
「ア、ベル……」
アベルは膝をついた。
「しゃべるな」
「おれ……どうせ、長くない」
「そんなこと言うな」
「だから……使って、いい」
「違う。違う、エノク」
「おれ、ものじゃ、ない?」
その問いが、アベルの胸を刺した。
アベルは血に濡れたエノクの手を握った。
「ああ。ものじゃない」
「じゃあ……おれが、決める」
エノクはかすかに笑った。
マスクの下で、表情は見えない。
けれど、確かに笑った気がした。
「おれ、アベルを、守る」
その声が途切れた。
アベルはしばらく動かなかった。
毒霧が流れる。
塔が崩れる音が、遠くで続いている。
風が強い。
こんな場所に、楽園など一度もなかった。
けれど、それでも。
この子は、自分の人生を自分で決めた。
短い命を、誰かに使われるのではなく、自分の意志で差し出した。
アベルは、剣を握り直した。
「カイン」
その声に、カインが顔を上げる。
アベルの目は、もう折れていなかった。
「おまえの怒りは、嘘じゃない」
アベルは立ち上がる。
「俺たちの戦いが、誰かを傷つけてきたのも本当だ」
剣の火竜紋が、炎を映して赤く光る。
「でも、それを理由に、あの子の命を踏みにじるな」
アベルが走った。
指揮官が叫ぶ。
『足を撃て! 殺すな! 皇帝陛下は生け捕りを――』
命令は最後まで続かなかった。
アベルは銃弾の雨の中を抜けた。
肩を撃たれ、太腿をかすめられ、頬を裂かれ、それでも止まらない。
指揮官が後ずさる。
装甲兵が前に出る。
アベルは倒れた兵士の銃を蹴り上げ、片手で撃った。弾は二発。装甲兵のレンズを割る。視界を失った兵の脇をすり抜け、指揮官の目前に踏み込む。
『待て、貴様――』
剣が振り下ろされた。
指揮官の声は、そこで途切れた。
兵士たちがざわめく。
指揮系統が一瞬だけ乱れる。
だが、数はまだ圧倒的だった。
アベルは膝をつきそうになりながら、それでも剣を構えた。
カインはその姿を見ていた。
「……どうして」
カインの声は、煙に消えそうだった。
「どうして、そこで立てるんだ」
空が唸った。
最初、誰もが三度目の爆発だと思った。
違った。
雲の上から、巨大な影が降りてくる。
帝国軍の飛空艇。
赤い船体。艦首には火竜を模した装飾。
帝国第十二空中巡洋艦、レッドドラゴン。
だが、その砲口はアベルではなく、帝国兵へ向いた。
砲撃。
地面が爆ぜた。
兵士たちが吹き飛ぶ。
装甲車が横転し、銃座が沈黙する。
アベルの通信機に、ひどいノイズ混じりの声が入った。
『――聞こえるか、アベル! こちら別働隊! レッドドラゴン、奪取成功! 遅くなって悪い!』
アベルは空を見上げた。
夕焼けを背に、帝国の船が味方の旗を掲げる。
赤い竜の紋章が、毒の空で翻っていた。
生き残った帝国兵が逃げ始める。
混乱の中、カインが動いた。
倒れた兵士から短機関銃を奪い、アベルへ向ける。
だが遅い。
アベルはすでに間合いに入っていた。
剣の腹で銃を叩き落とす。
カインはすぐに後退し、細身の剣を抜いた。
「本当は、自分の手で殺したくなかった」
カインが言った。
「それでも来るのか」
「おまえを置いていけない」
「そういうところが嫌いだ!」
剣がぶつかった。
アベルの剣は重い。
カインの剣は速い。
何度も共に訓練した動きだ。相手の癖も、踏み込みも、呼吸も知っている。だからこそ、互いの刃は迷わず急所へ向かう。
「どうして裏切った!」
「聞いただろ!」
「それだけじゃない!」
アベルはカインの剣を押し返した。
「おまえは俺を殺す機会なら何度もあった。寝首だって掻けた。作戦中に見捨てることもできた。それをしなかった理由を聞いてる!」
カインの表情が歪んだ。
一瞬の乱れ。
アベルは踏み込む。
カインは身をひるがえし、アベルの左腕を斬った。
包帯が裂け、血が噴き出す。
痛みで剣が落ちる。
カインの刃が振り下ろされる。
アベルは剣ではなく身体で飛び込んだ。
ふたりはもつれ合って倒れた。
鉄板の上を転がり、煤と血で汚れた地面に叩きつけられる。
先に立ったのはカインだった。
だが、胸を押さえて咳き込んだ。
「……くそ」
その咳は、ただの疲労ではなかった。
アベルは気づいた。
カインの呼吸がずっと浅かったことに。
頭の包帯だけではない。胸にも、身体にも、何かを強く巻いて隠している。体格を偽るため。声を低く保つため。誰にも悟られないようにするため。
「カイン、おまえ……」
カインは笑った。
「ようやく気づいた?」
その声は、いつもの少年のような声ではなかった。
もっと柔らかく、もっと冷たく、どこか懐かしい響きが混じっていた。
「カインという名前は、便利だったよ。男のふりをしていれば、軍にも、地下組織にも、皇帝の犬にも潜り込めた。誰も死んだ皇女の顔なんて覚えていないからね」
「皇女……?」
アベルの喉が渇いた。
カインは首元の紐を引いた。
煤に汚れた服の下から、小さなペンダントが現れる。
火竜の紋章。
アベルが持つものと同じ。
いや、対になるものだった。
「僕の本当の名はソフィア」
カインは言った。
「前政権の第一皇女。あなたの双子の妹だよ、アベル」
世界が傾いた。
塔が崩れているせいではない。
毒霧のせいでもない。
アベルの中で、過去が崩れた。
自分はひとりだと思っていた。
先帝の血を引く、たったひとりの生き残りだと。
だから皆が自分を見た。
だから自分が背負わなければならないのだと。
けれど、目の前にいた。
ずっと隣に。
親友として。
右腕として。
裏切り者として。
「嘘だ」
「そう言うと思った」
「なぜ黙っていた!」
「名乗れば、あなたは僕を救おうとしたでしょう?」
「当たり前だ!」
「だから嫌だった」
カイン――ソフィアは、剣を構え直した。
「救われたくなんてなかった。僕は、あなたを許したくなかった」
「ソフィア!」
「その名で呼ぶな!」
カインが斬りかかった。
速い。
だが、迷っていた。
アベルも迷っていた。
ふたりの刃は、互いを殺すには深すぎる場所で止まり、救うには遅すぎる場所でぶつかった。
カインの剣がアベルの肩を裂く。
アベルの剣が、カインの脇腹を貫いた。
時間が止まった。
カインの目が見開かれる。
アベルもまた、自分の手を信じられずに見た。
「俺は……」
カインは自分から一歩下がった。
剣が抜け、血がこぼれる。
膝をつき、片手で傷を押さえながら、それでも笑った。
「刺したね、兄さん」
「違う、俺は――」
「いいよ。これで、やっと少しは憎める」
アベルは剣を落としそうになった。
カインは地面に倒れたまま、喉を震わせるように笑った。
「止めを刺せ」
「できない」
「甘いな」
「できるわけがない」
「だから、あなたは負ける」
カインの目に、涙はなかった。
あるのは、燃え残った憎しみと、もっと奥にある何かだった。
「ここで僕を殺さなかったことを、必ず後悔させる」
アベルは何も言えなかった。
遠くで、レッドドラゴンの降下音がする。
仲間たちがこちらへ向かってくる声も聞こえる。
エノクは倒れたままだ。
カインは血を流している。
塔は崩れ続けている。
勝利など、どこにもなかった。
アベルはゆっくりと背を向けた。
カインの声が追いかけてくる。
「逃げるのか、アベル!」
アベルは振り返らなかった。
「違う」
彼はエノクを抱き上げた。
軽かった。
あまりにも軽かった。
「生きてる者を、連れて帰る」
エノクのマスクから、かすかな呼吸音がした。
まだ、終わっていない。
アベルはその音だけを頼りに歩き出した。
毒霧の向こうで、失われた楽園の塔が完全に崩れ落ちる。
黒い煙が空へ昇る。
その煙は、夕焼けを汚しながらも、どこか祈りのように高く伸びていった。
遠く、帝都の皇宮。
巨大な窓の前で、皇帝モロクは報告を聞いていた。
第七プラント崩壊。
反乱軍首魁アベル、生存。
皇女ソフィア、負傷。
変異労働者エノク、回収失敗。
そして、レッドドラゴン強奪。
側近たちは震えていた。
だがモロクは怒らなかった。
ただ、ゆっくりと笑った。
「よい」
低い声が、広間に落ちる。
「英雄には、傷が必要だ。裏切りには、血が必要だ。民衆は物語を欲しがる。ならば与えてやろう」
皇帝は窓の外を見た。
帝都の夜景は美しかった。
無数の灯りが、星のように瞬いている。
その明かりが、誰の肺を燃やして灯っているのかなど、ここからは見えない。
「失楽園の続きを始めるぞ」
モロクは告げた。
「アベルには、まだ堕ちてもらわねばならん」
遠く離れた汚染地帯で、アベルはエノクを抱き、崩れた塔の影から歩き出していた。
紅い髪が、風に揺れる。
彼の背後で、楽園と呼ばれたものが燃えている。
彼の前にあるのは、まだ名前のない戦場だった。




