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「こんばんは。パドル神父さま」
「おや、セレネ様。ヘリオス様。それに、グレイさん。こんばんは」
セレネの呼びかけを受けて、男性が挨拶を口にした。
彼の名はパドル=マイクロトフ。大聖堂で神職についている。年の頃は二十代半ば。黒一色の地味な祭司服とは対照的に、くるくるとクセのある赤毛と綺麗な碧い瞳が派手に目を惹く。その顔には陽の具合から陰影が刻まれており、近づかないと表情が判然としない。
陽は水平線の向こうに沈みはじめており、まさに逢魔時という頃合いだった。
「こんばんは。パドルさん。何をなさっているのですか?」
ルーヴァンスが尋ねると、パドルは悲しそうに瞳を伏せた。
「辛い事件が続いておりますので、こうして家路を急ぐ方々を見守っているのです。微弱ながらも目を光らせることで、魔の気を遠ざけられるかもしれません」
彼はそのように口にして、両の手を組んだ。瞑目し、イルハード神への祈りを捧げた。
パドルが神職を勤める大聖堂はイルハード正教会に属するゆえ、当然ながらイルハード神を信奉している。そして、彼ら正教会は、魔の存在を徹底的に否定するスタンスをとる。
今回の悪魔事件についても、当然ながら無関心ではいられないだろう。
ルーヴァンスは、彼のそのような信仰を――神への祈りを嗤う。
「ふふ。なるほど。魔は人の中にあります。監視の目を光らせることは抑止力となるでしょう」
塾講師の言葉に神父は静かに微笑む。
「いいえ。魔は魔であり、人の中になどありません。悪の全ては魔界より出でるもの。人はイルハード神と――光と共にあるのですよ、グレイさん」
頑とした言葉に、ルーヴァンスが肩をすくめる。
「それはそれは。おめでたい御方ですね」
彼の瞳や口元、その総てに嘲りが広がっていた。
塾講師と神父が見つめ合う。双方の顔に浮かぶのは、笑みだ。
「ぱ、パドル神父さま。少々よろしいですか?」
静かに視線をぶつけ合うルーヴァンスとパドルの間に、セレネが割って入った。
パドルは笑みを崩さずに視線を遷移させた。信仰の賜物か、そうそう激情に支配されることはないらしい。
「何でございましょう、セレネ様」
「正教会では今回の事件について何か掴んでいないのでしょうか?」
リストール猟奇悪魔事件が事実、悪魔の力に寄るものならば、それは信仰の敵である。
イルハード神を奉じる者たちこそが、いち早く悪魔の奸計を見破っている可能性はありそうだ。
しかし、パドルは首をゆっくりと横に振った。
「いいえ。残念ながら何も分かっておりません。我々にはそのような力はありませんから」
イルハード神を奉じる者たちとはいっても、彼らに奇跡を起こす力はない。イルハード正教会に属する神聖騎士団であっても、神の力で奇跡を起こすわけではない。日々の鍛練で勝ち得た剣の業で魔物や異教徒、敵国の者を相手取るのだ。
神のもたらす光は人に届かない。信仰は心に豊かさを与えてくれるものであり、実益を与えるようなものではないのだ。
「……期待するだけ無駄でしょう。神になど、ね」
口の中で呟いて、ルーヴァンスがふっと笑みを零す。
そうしてから、彼は一転して柔らかな笑みを浮かべる。視線の向かう先は、彼の可愛い生徒たちである。
「さあ。セレネくん。ヘリオスくん。じきに日が暮れます。立ち話はこのくらいにしましょう」
ルーヴァンスが宣言して先を行く。ヘリオスもまた、軽く礼をしてから師に続く。
セレネのみが、パドルの前でオロオロとしている。ルーヴァンスの背中とパドルの静かな笑みを交互に瞳に映し、悲しそうに息を吐く。
そして、彼女は一転して微笑みを浮かべる。
「……それではこれで失礼いたします、パドル神父さま。御機嫌よう」
ぺこり。
丁寧に深々と礼をした。
パドルもまたにっこりと笑み、最敬礼をする。
「ええ、御機嫌よう。イルハード神の加護が貴女たちと共にありますように」
無力な神父の祝福の言葉が、闇の濃くなった宵の町に空しく響いた。
じきに夜がやって来る。加護の光は届かない。